みこころを思え

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌 6番
讃美歌352番
讃美歌79番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 28章20-22節 (旧約聖書46ページ)

28:20 ヤコブはまた、誓願を立てて言った。「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、
28:21 無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、
28:22 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」

新約聖書:マルコによる福音書 7章1-13節 (新約聖書74ページ)

7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。
7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――
7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。
7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。
7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。
7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。
7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」

《説教》『みこころを思え』

今日まで、マルコによる福音書を連続して、ご一緒にお読みして来ましたが、今日から7章に入ります。最初の1節に「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」とあります。ファリサイ派と律法学者とは基本的に同じと考えてよいでしょう。旧約聖書に記されている神様の掟である律法を研究し、それを人一倍厳格に守り実践するという生活を送っていた人々です。そして彼らは一般の人々に、日々の生活の中で律法を守って生きることを具体的に教えていたのです。イスラエルの人々が、主なる神の民として相応しく、律法を守って生活するように指導していくことが彼らの働きでした。そういう人々が何人か、エルサレムから主イエスのもとに来たのです。主イエスが今活動しておられるのはガリラヤ地方です。ユダヤの北の方、ガリラヤ湖の周辺のこの地は、エルサレムからは100Km以上の距離がある「田舎」です。その田舎であるガリラヤにイエスという男が現れ、神の国の福音を宣べ伝え、癒しの奇跡を行い、多くの人々が彼の周りに集まっていることを伝え聞いたエルサレムのファリサイ派の人々や律法学者たちが、イエスの語っていることと、行っていることを調べ、それが律法に適ったものかを確かめるためにやって来たのです。そのような時、主イエスの弟子たちが手を洗わないで食事をしているところを、たまたま見たのでした。食事の場にまで居合わせたということは、彼らは、これまでも主イエスと行動を共にしていたとみることが出来ます。主イエスと行動を共にし、御言葉を繰り返し聞きながら、何一つ自分の内に留めることなく、過ちを見出すことのみを考えていたのが、このファリサイ派の人々や律法学者たちでした。

この時の弟子たちの行動が、何故、ファリサイ派の人々にとって非難すべきことと思われたのかを、当時のユダヤの習慣を知らない人々のために、マルコはわざわざ3節と4節で説明をしています。そこには、「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人々の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台などを洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」とあります。これは聖書に記されているユダヤ人が守っていた「律法」ではなく、いわゆる「昔からの習慣」でした。

ここで「汚(けが)れ」と訳されている言葉についてですが、日本語の「ヨゴレ」と「ケガレ」とを明確に区別しておかなければなりません。特に注意しなければならないことは、「手を洗う」ということが、衛生上のことではなく、大切な宗教儀式であったということです。ユダヤ人の「手洗い」は、「汚(よご)れたから洗う」のではなく、厳密に言えば、「穢(けが)れたから潔める」ということなのです。2節に用いられている「汚(けが)れ(コイノス)」というギリシャ語の言葉は、「聖なる(ハギオス)]という言葉に対称する言葉です。「ヨゴレ」の問題ではなく、「ケガレ」の問題なのです。一言で言えば、「ケガレ」とは「神に近づくことが出来ない状態」と定義することが出来るでしょう。旧約聖書はこの「ケガレ」について数多くの戒めを記しており、それぞれに大切なことが決められていますが、全ての律法に共通する精神、それは「イスラエル民族を守る」ということでした。

イスラエルは小さく弱い民族でした。周辺の民族の中に埋没してしまう危険性が常にありました。特に周辺の諸民族は全て偶像礼拝をしています。ですから、彼らとの同化は信仰を失う危険を招く恐れが強かったと言えるでしょう。それ故に、旧約聖書をもって、イスラエル民族と他の民族を明確に分け、異民族から分け隔てる「分離の思想」というものが確立されていったのです。小さく弱いイスラエル民族を周囲の偶像礼拝から守るにはどうしたらよいのか。神様が教えられた方法は、危険から引き離すこと、危険に近寄らないこと、即ち「分離すること」でした。砂漠の民、遊牧の民として、質素で厳しい生活に耐えて来たイスラエルの民にとっては、地中海文明の覇者であるローマ帝国の下での都市生活は大きな誘惑でした。このため、神様は異民族との「分離」を御命じになったのです。神の民の歴史の中で「分離」が重要な主題となり、そしてヘブライ語の「分離(コーデシュ)」という言葉が旧約聖書の「聖」「聖い」という意味に用いられるようになりました。逆に言えば、私たちが聖書から用いる「聖」という言葉は、本来「分離する」「引き離す」という意味の言葉なのです。

それ故に、イスラエルは自分たちを自ら「分離された民族」、同じ意味で「聖なる民族」と呼び、他の民族と交わることを、「聖」の反対語を用いて「ケガレ」と呼びました。不潔なものや不衛生なものに触れたので「ヨゴレタ」というのではありません。偶像礼拝などによって、自分たちの信仰が危険に晒されることを、そこに感じたからです。ですから、ここで議論となった「手を洗う」という行為は、自分たちの信仰の純粋性を偶像礼拝の危険から守るという具体的な行動を表す言葉でした。

5節でファリサイ派の人々や律法学者たちは「なぜ手を洗わないのか」と非難しました。しかし彼らは、「それでは、なぜ、手を洗うのか」という問いが、改めて主イエスから返されたことを見落としているのです。「今や、手を洗わなくても良い時代が来た」という主イエスの大切なメッセージを聞き漏らしているのです。

マルコによる福音書に記された主イエスの最初の御言葉は何であったでしょうか。それは1章15節の「時は満ちた」でした。準備の時は終わり、遂に御業の完成の時が来たのです。マルコ福音書はこのことを宣言しているのです。

他の民族との接触を避け、自分たちの立場を「分離」して固く守る時代は終わったのです。主イエス・キリストの到来は、これまで「分離すること」で守られて来たイスラエル民族が、今や遂に、全ての人々のために、神の御業の証し人として出て行く「時の始まり」でした。

主イエス・キリストの宣言はこのことでした。そして、調べに来たファリサイ派の人々や律法学者たちもこの御言葉を聴き、その「しるし」を見た筈でした。それにも拘らず、単なる習慣上の形式に囚われ、律法が目指して来たことを見落とし、弟子たちのあら捜しをして、主イエスを陥れることしか考えていませんでした。既に述べたとおり、「手を洗う」ということは、確かにユダヤ人にとって、分離され保護されている自分たちの姿を確認することでした。さらに主イエスは具体的な例を挙げ、ファリサイ派によって代表されている人間の罪を指摘するのです。9節以下で、「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対し何もしないで済むのだ』」と言われました。ここで「コルバン」とは、ここに説明されているように、「神様への献げもの」という意味です。この時代のイスラエルでは、神様への献げものは絶対視されていました。人間は神様より与えられたものを受けているのであり、「その最初のものは神様にお返しするべきである」とされ、十分の一を先ず神様に献げ、残りの十分の九で生活すべきことが聖書に記され、固く守られて来ました(創世記28章22節、レビ記27章30節、申命記14章22節、アモス書4章4節、ルカ福音書18章12節)。「コルバン」とはこの「神様への献げもの」のことであり、ひとたび「コルバン」と宣告すれば、それは、如何なることがあっても自分の生活のために用いることは許されません。そのため、「コルバン」という言葉は「聖別」という意味にもなり、「完全な献身」をも表しました。ですから、この「コルバン」という言葉も「手を洗う」ことと同じく、信仰を守るために「自分自身の決断を表明する宣言」でもあったと言うべきでしょう。

人は、お金など持っていれば使いたくなります。それは人間共通の心理であり、欲望に限界はありません。そのため、この時代の人々は「コルバン」と自ら宣言することによって、自分の欲望を抑えたのです。しかし、それが悪用され、親を養わない理由として「献げものをしなければならないから」と言う人間が続出したというのです。神様への誓いは絶対的であり、取り消し不可能です。そのため、親を養う義務を放棄するとき、人は「コルバン」を悪用しました。さらにまた、借金の催促が来た時も、「この金はコルバンです」と言えば、その場の督促を逃れることも出来ました。

このような人々は、何よりも神様への献げものを優先しているようであり、一見、神様中心の生活を送っているように見えますが、実は、それを利用して自分の義務を免れようとしているに過ぎません。神様が与えた律法の精神を悪用した形式主義の醜さがここにありました。

既に見て来ましたように、「手を洗う」ということは、「信仰の純粋性を守る」ということであり、「コルバン」とは「神への感謝を忘れるな」ということでした。何のために守るのか。何のためにそれを行うのか。手段は目的に従うものに過ぎません。ファリサイ派は、主イエスの欠点を探し出そうとする愚かな努力の結果、かえって自分たちの生きる姿の虚しさを露呈してしまったのです。主イエスは、彼らに対して、8節では「あなたたちは神の掟を捨てた」と言い、13節では、「神の言葉を無にしている」と非難しておられます。御心は私たちを冷たい戒めの中に閉じ込めることではなく、福音の光の中で真実の自由を喜ぶことにあります。

主イエス・キリストの到来によって「時は満ちた」のです。戒めによって守られる時代は終わったのです。主イエス・キリストの来臨は、新しい時代の始まりを告げています。律法によってではなく福音によって、裁きによってではなく赦しの宣言によって生きる、新しい『自由の時代』です。「コルバン」という信仰的な言葉を、自分の欲望の隠れ蓑としてしまうような「偽善」から解放されるためには、私たち自身がコルバンとなること、神様への供えものとなることが必要なのです。

主イエス・キリストは、この私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。父なる神はこのようにして、私たちの罪を赦し、清くも正しくもない私たちをご自分のものとして下さっているのです。「自分は自分のものだ」と言い張っている私たちに、神様は、「私は独り子の命を与えてまであなたの罪を赦し、あなたを私のものとした。あなたはもう私のものだ。それゆえにあなたは神の民の一人として、私の愛の中で生きることができるのだ」と語りかけて下さっているのです。

私たちの信仰はもはや、自分が神様の前に正しく清い者であろうと努力することではありません。神様が、独り子主イエス・キリストによってこの私たちを愛して下さり、ご自分のものとして下さっている、それゆえに私は神様のもの、コルバンとされている、そのことを受け入れて生きることが私たちの信仰です。その信仰に生きることによって私たちは、昔の人の言い伝えから、人の評価を気にすることから解放され、自由になれるのです。

お祈りを致しましょう。

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主の山に備えあり

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌338番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 22章1-19節 (旧約聖書31ページ)

22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
22:4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、
22:5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
22:15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。
22:16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、
22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
22:19 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

《説教》『主の山に備えあり』

本日の物語は、大変有名な聖書箇所です。旧約聖書で最も難解な箇所の一つとも言われてきました。この物語は謎に満ち、私たちを戸惑わせ、混乱させます。この箇所の説教で、ある牧師は、「私はアブラハムのようには出来ません」という結論で説教を結び、聴衆を唖然とさせたそうです。

この物語は、私たちに何を告げようとしているのでしょうか。確かに、ここに記されているのは、神様のご命令で父アブラハムが息子イサクを殺そうとする場面です。次々と疑問が溢れてきます。なぜ神様はアブラハムに息子イサクを捧げることを求めたのでしょうか。なぜアブラハムは、この神様の求めに素直に従ったのでしょうか。イサクは薪の上に載せられるとき、なぜ逃げなかったのでしょうか。アブラハムは本当に神様が子羊を備えてくださると信じていたのでしょうか。

イサクは、アブラハム100歳、妻のサラ99歳の時に授かった奇跡の一人息子です。彼は、アブラハム召命以来の使命を全うすべき約束の子でした。この頃はもう薪を背負って行ける年頃になっていたようです。

モリヤの山は、後のエルサレム神殿の丘と言われていますので、アブラハムの住んでいたベエル・シェバから直線で約80キロ、「三日の距離」(4)でした。「焼き尽くす献げ物」とは「燔祭」のことであり、犠牲の動物を焼き、その香りを天に届かせる古代世界共通の礼拝形式です。分かり易く言えば、主なる神は、約束の子イサクを「焼き殺せ」と命じられたのです。

アブラハムは神様のご命令を受け止め、イサクを献げるためにモリヤまで旅をし、山上で殺す直前、身代わりの雄羊によりイサクの命が救われました。これが本日の物語です。

これはとても恐ろしい物語であり、しかも目的が「アブラハムへの試み」と記されていることから、信仰のテストとして受け止める時、耐えがたい恐怖をもたらすと言うべきです。

私たちは、聖書を読む時、登場する人物に自分たちを重ね合わせて読むことが多いのではないでしょうか。しかし、この物語は、アブラハムに自分を重ねても、イサクに自分を重ねても、いよいよ混乱するだけです。我が子を神様への捧げものとして自分の手で殺すことなど、想像するだけてゾッとします。逆に自分が父親に殺されることなど考えることもできません。最初にお話しした牧師は、自分とアブラハムを重ね合わせ、混乱し、この聖書の箇所からきちんとメッセージを受け取ることが出来なかったのでしよう。

しかし、聖書を読む時、もう一つ大切な方法があります。それは、聖書をキリストを指し示しているものとして読むことです。聖書の謎をイエス様の十字架の出来事という最も深遠なる謎と重ね合わせる時、私たちは初めてその謎を解く入り口に立つことか出来るのです。

この物語はアブラハムの人生の最後を飾るものです。この出来事以後、聖書ではアブラハムは背後に退き、イサク物語に移って行きます。それでこの物語は、アブラハムの生涯の総決算であり、アブラハム物語の頂点とも言われるのです。

物語は「神はアブラハムを試された」と始まります。神の御前に立つ者が避けることの出来ない神の御業が、ここから始まるのです。

神様の呼びかけに対し、アブラハムは「はい」と答えました。この「はい」との言葉は11節でも繰り返されており、ヘブライ語で「ヒンネーニー」です。これは少年サムエルが、初めて神に呼ばれた時の応答の言葉でもあります。原語では「このわたしを見よ」ということですが、実際には、私たちの聖書のように、「はい」と訳すことが出来ます。しかし多くの学者たちは、この箇所におけるアブラハムの姿勢を重視し、敢えて「私はここにおります」と訳しています(フォンラート、ヴェスターマン、関根正雄他)。口語訳聖書もこの立場を取っていました。

「アブラハムよ」と、主なる神から個別に呼びかけられた人間が、御前に自分を明らかにし、自分の存在のすべてを賭けて御言葉に応えようとしているのです。人格のすべてを賭けた応答、それがこの「ヒンネーニー」という言葉に込められています。そしてアブラハムは、本日の物語の中で、神様に対して、この「ヒンネーニー」の一言以外、まったく口にしません。

神の御言葉、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(2)は大変厳しいものでした。「あなたの息子」「あなたの愛する独り子」「イサク」。この三通りに語られた言葉は、献げられるものの大切さを強調しています。アブラハムにとって、イサクは特別な存在でした。アブラハムは、「すべての人の祝福の源となる」という主なる神の約束を受けて旅立って来ました。主の御言葉を信じた彼は、それまでの生活、過去のすべてを捨てました。そして、年老いた日に奇跡的に与えられたイサクは、その約束の「しるし」でありました。何故なら、「すべての人の祝福の源となる」ということは、子供があって初めて可能なことであり、イサクの存在は、彼の生涯の過去及び未来のすべてを意味づけるものであったからです。

ですから、イサクを犠牲にして献げるということ、「殺す」ということは、可愛い子供を失うということにとどまらず、これまで過ごして来た人生のすべての意味を失うことでした。

ヨブ記1章21節に「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」というヨブの告白があります。イサクが、主なる神御自身による、人間の可能性を越えた奇跡的誕生をしたことを考えれば、その通りでしょう。まさしく「主は与え、主は奪う」ということです。しかし、親と子という人の情を考えれば、そのような理屈は受け入れ難いものがあります。この時のアブラハムの心情について聖書は何も記していません。ただ、人間としての苦しみに必死に耐えたであろう、ということは想像に難くありません。

「主は与え、主は奪う」という原理は分かっていても、「どうせ奪うなら、初めから与えられなければよかったのに」という気持ちがわいて来るのではないでしょうか。おおよそ、すべての人間はやがて失う命を生きているに過ぎないのですが、それでも、その死を迎える時期については不満を言うのです。私たちの予想を超えた死に対する怒りであり、「時」を定められる神に対する不満となるのです。死を見つめることは、まさに厳しい限界状況に直面することです。

そのような苦しみ、悲しみを越えて、なお、アブラハムが「向かって行った」ということに注目しなければなりません。壮絶な葛藤があったでしょう。なぜこのような運命に耐えなければならないのか、という疑問が生じたことでしょう。御心を尋ねて見たいという思いもあったでしょう。

アブラハムは危険な荷物は自分で背負い、イサクにはただ薪だけを背負わせました。アブラハムは万感の思いを持って、イサクと共に二人だけで山に登りました。

この時のイサクの質問、「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」との問いかけは何を意味しているのでしょうか。アブラハムの答え、「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」とは、極めて恐ろしい言葉です。

もし、神御自身が犠牲の小羊を用意してくださるであろう、という希望を持ってここまで来たのでしたら、アブラハムは、本当は、イサクを殺す決断をしていなかったのであり、神の御言葉に服従するためにここまで来たのではないと言わなければならないでしょう。

また、もし、これがあきらめの言葉であったならば、そこにあるのは、「どうにもならない」という虚しさだけであり、これほど信仰から遠いものはないでしょう。

それでは、アブラハムは、イサクの問いに対して何を答えているのでしょうか。何も答えていないのです。彼には分からないのです。それ故に、アブラハムの言葉は曖昧であり、どう答えてよいのか分からない苦しさの籠もるものでした。

ただ、彼は「きっと、神が…」と語りました。確かに、分らないことばかりであり、誰にも説明出来ない命令の中に置かれていたのです。イサクに語れることは、それが神の命じられた「神の御心」であるということだけでした。そして、「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」(9-10)とあります。抵抗する様子もなく縛られ薪の上に寝かされたイサク。まさに、恐るべき瞬間です。

アブラハムは、この試練に耐え得る特別に強い人間であったのでしょうか。彼の生涯を振り返る時、それと正反対な人間であったことを知らされるでしょう。自分の安全のために妻サラを見捨てた弱さ。甥のロトを救うために神に何度も執り成しをした優しさ。そのアブラハムが、なぜ、このような決断をなし得たのでしょうか。

この物語が、信仰の英雄アブラハムの物語ではなく、神の物語であるということを改めて考えなければなりません。人間がぎりぎりまで追い込まれた限界状況の中で神が何をされるのかということです。甘い期待ではなく、自分の尊厳のすべてと、命を委ねた決断の中で、信仰の本質があぶり出されるのです。

このギリギリの場面で、イサクに代えて、「木の茂みに角をとられていた一匹の雄羊」(13)が与えられ、主なる神は、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と言われました。すべてをご存知の主なる神が今まで分からなかったのでしょうか。ここで改めて、この物語の冒頭1節に記されている「試み」ということが問われます。これは、神の信仰テストに合格した、ということなのでしょうか。

ここで明らかになったのは、アブラハムの服従の信仰であり、信仰とは命がけのものである、ということです。

しかし、アブラハムの信仰深さを知るために神はこのような厳しいテストをされたのでしょうか。これはテストではありません。すべてを御存知である神が、敢えてなさったことであり、それがアブラハム自身のためであった、ということなのです。

パウロは、フィリピの信徒への手紙4章19節で、「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」と記しています。私たちが何かをしようと思う時、何かをしなければならない時、その時すでに、神は私たちの決断に先立って働いておられるのです。ということは、アブラハムの決断は、彼の超人的な精神的努力の結果ではなく、彼の卓越した信仰によるものでもなく、主なる神が働きかけ、主なる神御自身が導いたものに他ならない、と言うべきでしょう。

1節の「神はアブラハムを試された」とは、この命令が、彼に可能かどうかを試すテストではなく、アブラハムに「出来る」ということを教える「訓練」であったのです。「主の山に、備えあり(イエラエ)」(14)とは、神の試みと、それに対する「備え」です。試みとは、信仰に生きる者に、神と共に生きる素晴らしさを教え、神の顧みの豊かさを教える恩寵の手段であり、その喜びに生きる信仰の奇跡なのです。

「試み」は「神の備え」があって、初めて意味を持ちます。主は、これだけの備えをした上で、アブラハムを信仰の試練の中で鍛えられたのです。

コリントの信徒への手紙一 10章13節に、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」とあります。

父なる神は、私たちを信仰の豊かさに導き、神と共に生きる世界を実現するために、独り子なる神を十字架に付けられました。アブラハムのために雄羊が用意されていたように、私たちのためには、御子キリストが備えられたのです。

神と共に生きる喜びとは何でしょうか。それは、あなたの罪は赦されたという宣言を聞くことに始まり、神と共に永遠を生きる望みを受けることです。主なる神は、その喜びに私たちを導くために、御子を身代わりの犠牲としてゴルゴタの丘に備えられたのです。

この物語全体を通じて、アブラハムは、ヒンネーニー「私はここにおります」と言う以外、神に対して何も語っていません。御前における沈黙は、不平、不満の沈黙ではなく、絶望の沈黙でもなく、神を信頼し、すべてを委ねた人間の姿を表すものなのです。御言葉に従う以外、行くべき道を知らない人間の姿、それがアブラハムの沈黙でありました。そしてこの沈黙の素晴らしさを教えることが、アブラハムに対する、神の最後の顧みであったのです。

「主の山に備えあり。」私たちが生き、礼拝へと導かれる世界、それが「主の山」であり、備えられた恵みの大きさを味わう場です。今、御言葉によって召し出され、聖霊によって立てられた教会に集まる者は、この恵みの前に沈黙する幸いを得た、と感謝すべきでありましょう。

お祈りを致します。

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クリスマス イヴ礼拝説教「言(ことば)が人となった」

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌106番
讃美歌103番
讃美歌119番
讃美歌109番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 1章1―2節 (旧約聖書1ページ)

1:1 初めに、神は天地を創造された。
1:2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

新約聖書:・・・ヨハネによる福音書 1章1―14節 (新約聖書163ページ)

1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
1:5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
1:7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
1:8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。
1:10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
1:11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。
1:12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

《説教》『言(ことば)が人となった』

新約聖書には四つの福音書があります。福音書とは、2000年前にこの地上で人として生きて働かれた主イエスの活動記録です。ヨハネによる福音書は四番目の福音書ですので、第四福音書とも呼ばれます。この第四の福音書は、他の三つの福音書とはかなり違ったものになっています。マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、主イエスのご生涯を、ほぼ同じ調子で語り、共通する記事も多くあります。そのためにこの三つは並べて比較しながら読むことができます。そういう意味でこの三つを共に同じ観点から見る「共観福音書」と言います。しかしヨハネ福音書が語っている主イエスのご生涯は、共観福音書とはかなり違いますし、他の三つの福音書には語られていない話も沢山あり、かなり毛色の違う、独特な福音書です。そして、新約聖書にこのヨハネ福音書が入っていることによって、主イエス・キリストについての、また救いについての私たちの理解と認識は、大きな広がりと深まりを与えられているのです。

ヨハネ福音書は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と語り始めています。この謎のような言葉によってこの福音書は私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。「初めに」という冒頭の言葉によって、この世界の、そして私たち人間の「初め」を尋ね求めているのです。この「初め」、それは起源、根源と言う言葉です。この世界の、人間の、初め、起源、根源とは何か。それは「言」だ、と語っているのです。その「言」とは、私たち人間が語る不確かな、あやふやな、また不誠実な言葉ではありません。神の言です。神の私たちに対する語りかけです。この世界の、そして私たちの人生の、初めには、神の語りかけがある、とヨハネ福音書は宣言しているのです。そしてその神の語りかけ、言は、神と共にあり、言そのものが神であった、と続いています。それはこの福音書が、神の語りかけ、「言」を、一人の人格的な存在として見ているということです。そのお方とは主イエス・キリストです。14節まで読み進めるとそれが分かります。この福音書が「言」と書いて「ことば」と読む「言」とは、肉つまり人となって私たちの間に宿られた主イエス・キリストのことなのです。ですから、「初めに言があった」という謎めいた言葉で語り始められているこの福音書も、やはり冒頭から主イエス・キリストのことを語っているのです。主イエスとは、この世界の根源であり、私たちの人生を根底において支えている土台であるところの神の「言」、神からの語りかけなのだ、ご自身が神であられるその「言」が肉なる人となってこの世を生きて下さったのが主イエス・キリストなのだ、ということをこの福音書は語っているのです。

2節の「この言は、初めに神と共にあった」は一見、1節を言い直しているだけのように思えますが、「この言」と訳されているのは「このもの」あるいは「この方」という意味であって、それは1節の「言」を受けていると同時に、14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」を既に意識しています。肉となってこの世を生きて下さった主イエス・キリストは世の初めに既に父である神と共におられたのです。この「初めに」は創世記冒頭の「初めに神は天地を創造された」を意識しているのです。神がこの世界を創造なさった時、そこに、言である主イエス・キリストも共におられ、天地創造のみ業に共に関わっておられたのです。そのことが3節に「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」と語られているのです。「言」であられる主イエス・キリストによって、この世の全てのものは造られたのです。主イエス・キリストは神によって造られた被造物ではなくて「創造主」であられるのです。主イエスは父なる神から生まれた子なる神であられ、まことの神として創造の初めから父と共におられるのです。しかしそれは父なる神と子なる神という二人の神がおられるということのではありません。神はお一人である、ということも聖書の根本的な信仰です。そこにさらに聖霊なる神が加わって、父と子と聖霊という三者でありつつお一人なる神であるという、いわゆる「三位一体の神」という神の本質的なお姿が見えてくるのです。ヨハネ福音書のこの冒頭の部分は、聖書においてご自身を啓示しておられる神が父と子と聖霊なる三位一体の神であられることを私たちが認識するための大切な役割を果しているのです。

6節になると、「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである」と、一人の人間のことが語られ始めます。ここで私たちの目は、この世のこと、地上を生きた具体的現実的な人間のことへと向けられるのです。このヨハネとは、「洗礼者ヨハネ」と呼ばれ、ヨハネ福音書を書き記したヨハネとはまったくの別人です。主イエス・キリストが宣教活動を始められる前に、洗礼者ヨハネが現れ、主イエスの伝道のための備えをしました。しかし、その洗礼者ヨハネがどのように主イエスのための備えをしたかは、ヨハネ福音書と他の三つの福音書ではかなり違っています。他の三つの福音書では、洗礼者ヨハネは人々の罪を指摘し、悔い改めを求め、悔い改めの印としての洗礼を授けました。自分たちが罪人であることを人々に意識させ、悔い改めて神に立ち帰り、向き合うことによって、救い主イエス・キリストを迎える準備をしたのです。それに対して、ヨハネ福音書において洗礼者ヨハネがしたことは何か。7節に「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」とあります。ヨハネ福音書における洗礼者ヨハネは、証しをするために神から遣わされた人なのです。証しとは、証言です。見たり聞いたり体験して知っていることを、「こうでした」と人に伝え、それを聞いた人々が「ああそうなんだ」と知るようになる、それが証しです。洗礼者ヨハネは、「光について証しをするため」に神によって遣わされました。その光とは、初めにあった「言」に命と光があった、と言われているその光です。5節に「光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」と言われているその光です。そして9節では「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と言われています。初めにあった「言」、自らが神であり、命であり、光であるその方がこの世に来られて、まことの光として全ての人を照らす、それは主イエス・キリストのことです。「言」も「命」も「光」も、主イエス・キリストのことなのです。その「光」である主イエスについて証しをするために洗礼者ヨハネが現れたのです。洗礼者ヨハネは、「証し人」です。彼は主イエスこそがまことの光であることを全ての人が知り、信じるようになるために証しして、救い主イエス・キリストの働きのための備えをしたのです。

これは、主イエス・キリストの現れとは、罪が支配するこの世の暗闇の中に、神の救いの恵みの光が輝き、罪の闇に打ち勝つ、というような象徴的なことではありません。そうではなく、人間を照らす光が、暗闇の中に輝いているのです。それは、まことの神である主イエス・キリストが人間となってこの世に来て下さり、この地上を生きて下さり、十字架の死と復活による救いを実現して下さったことを言っているのです。「人間を照らす光」とは、主イエス・キリストです。「光は暗闇の中に輝いている」というのも、私たちの罪によって深まっているこの世の暗闇の中に、主イエス・キリストが来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、それで私たちの罪を赦して下さり、その死からの復活によって、私たちにも復活と永遠の命の約束を与えて下さった、ということです。その主イエスが今、この礼拝において私たちと出会い、語りかけ、交わりを持って下さっているのです。この世の現実におけるどのような暗闇も、この主イエスの恵みの光に打ち勝つことはできません。暗闇は光を支配下に置くことはできないのです。

主イエスについての証しを聞いて、主イエスを神の言、救い主、まことの光として信じ、受け入れると、私たちには「神の子」として新しく生かされる、という救いを与えられます。

しかしそこには同時に、主イエスを受け入れず、信じない、ということも可能です。この世を生きている私たちは、自分がそのどちらの道を選び、歩むのかを問われているのです。「証しの書」であるヨハネ福音書は、そのことを私たちに問い掛けているのです。その最初の「証し」が洗礼者ヨハネです。洗礼者ヨハネから始まった主イエスについての証しを信じて受け入れ、世に来てすべての者を照らして下さるまことの光である主イエスによって照らされるなら、私たちも神の子とされて生きることができます。その信仰の歩みにおいて私たちも、まことの光である救い主イエス・キリストの証し人として、それぞれの生活の場へと、神によって遣わされていくのです。

お祈りを致します。

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時は満ちた

《賛美歌》

讃美歌225番
讃美歌497番
讃美歌6番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 3章23-24節 (旧約聖書5ページ)

3:23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。
3:24 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。

新約聖書:マルコによる福音書 1章9-15節 (新約聖書61ページ)

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
1:10 水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。
1:11 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
1:12 それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。
1:13 イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。
1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

《説教》『時は満ちた』

先週の主日礼拝からマルコによる福音書を読み始めました。本日ご一緒に読む、マルコによる福音書1章9節からいよいよ、主イエス・キリストの活動が始まります。これまでのところでは、洗礼者ヨハネが主イエスの活動の備えとして人々に「悔い改めの洗礼」を宣べ伝えたことが語られました。これらのことは全て、主イエスの活動開始のための準備だったと言うことができます。それらの準備がいよいよ整って、主イエスご自身の活動が始まるのです。

先ず、1章10節には、「水の中から上がるとすぐ」と「すぐ」という言葉があります。原文では、「真っ直ぐに」という意味の言葉です。実はこの言葉は、マルコ福音書に大変よく出てくる特徴的な言葉です。この後の16節以下にも四人の漁師たちが主イエスの最初の弟子になったことが語られていきますが、その18節と20節にも「すぐに」という言葉があります。29節も「すぐに」と始まっています。42節に「たちまち」とあるのも、原文では同じ「すぐに」という言葉です。今あげた箇所は原文においてはみんな同じ言葉が使われていて、直訳すれば「そしてすぐに」という言い方になっています。

実に、1章だけで何と12回も、この言葉が使われています。この言葉は新約聖書全体では59回用いられていますが、何とその内の42回が、このマルコ福音書で用いられているのです。何と新約聖書全体の8割程がマルコ福音書に集中している言葉です。この後にもしばしばこの言葉が用いられていて、マルコ福音書は、この「すぐに」「すぐに」と、どんどん先を急ぐような語り方になっています。マルコはよっぽどせっかちな人だったんだろうなあ、などと冗談を言いたくなります。マルコがこのような書き方をしていることの意味はおいおい考えて行きたいと思いますが、先ずは、マルコ福音書に特徴的な「すぐに」という言葉がここにあることを指摘しておきたいと思います。そしてそのことは本日の箇所において見過ごしにすべきでない大切な意味を持っているのです。

この「すぐに」という言葉は、その前に語られていることと、これから語っていくことを結びつける言葉です。前に語られていることから時を移さずにすぐに、これから語ることが起った、と言っているわけです。本日の聖書箇所に語られるのは、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになることでした。9節には、「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」とあります。

「そのころ」とは、勿論、バプテスマのヨハネが活躍した紀元20年代の後半です。この時代は「ローマの平和」「パクス・ロマーナ」と呼ばれ、地中海世界は強大な軍事力を持つローマ帝国の支配下にあって大きな戦乱もなく、世界史の中でも珍しく平和な時代でした。

しかしながら、それはあくまでも世界史という大局的に見た限りでの平和であることは言うまでもありません。主イエスが活動を始められたパレスティナのユダヤ社会はローマ帝国の占領下にあり、ローマ帝国の植民地支配は巧妙であったと言われていますが、そこに搾取と圧制があり、不満が鬱積していたことは否定出来ないでしょう。

また、ユダヤ人内部においても、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の信仰は儀式中心の形骸化したものになり、固定化した律法主義となり、生命を失った形式的宗教に陥っていたと言えました。

このような状況の中で、ユダヤ民族主義に走った人々は、強大なローマ帝国に対し、勝つ見込みのない絶望的な戦争を起こし、エルサレム壊滅に至るのです。

先程述べましたように、後の世の人々はこの時代を「ローマの平和」と呼びましたが、ユダヤ人にとっては、預言者の声も途絶えた希望のない時代であり、明日の生活を考える余裕のない不安の時代でした。

バプテスマのヨハネはこの時代の人々に語りました。その革新的な宗教運動は、歴史の大きな激動の時代に起こった現象と言うことも出来るでしょう。バプテスマのヨハネは、この時代の流れの中に出現した希代の風雲児でした。

しかし聖書は、その時代を一方的に人間の側から見てはいません。確かに、その時代は激動と混乱の時であったとは言えますが、その不安と絶望の中にある「人間の時」は、神が目指された「救いの時」や「救いの歴史」の中に組み込まれた時だったのです。

つまり、ここで語られる「そのころ」とは、ただ漠然と「紀元一世紀の前半」などというだけのことではなく、10節で語られている「天が裂けて」という大変な出来事、つまり「神の行動の時」と考えなければなりません。人間の不安と「天が裂ける」こととの結びつき、ここに私たちは「信仰の目」の焦点を定めなければならないのです。

改めて9節を見てみましょう。主イエスはナザレの村からヨルダン川のほとりにやって来られました。聖書は何故、主の御生涯を語り始めるに当たって、このようなことから記しているのでしょうか。主の家が何処にあったのかを示すためではないでしょう。マルコ福音書は主イエスの活動初期の出来事を簡単に記すだけであり、主イエスの誕生以来の生活については何も語っていません。少年時代のエピソードや何処で何をして暮らしていたのかというようなことは、少なくともマルコにとって大切なことではありませんでした。

「ナザレから来た」とは何を表しているのでしょうか。聖書が記していないナザレにおける生活を想像することは出来ます。間違いなく、全ての人と同じように、普通の人間としての生活をなさっていた筈です。父なる神が定められた時の来るまで、誰もが行うことを主イエスもまた行って来られたことでしょう。言わば「神の子であることが完全に秘められていた時代」と言うことが出来るでしょう。誰一人として神の御子が共にいることに気づかず、また主イエスもそれを明らかにされようとはされませんでした。それが主イエスのナザレでの生活であったのです。

しかし今や、主イエスはナザレを出られました。つまり、神の御子が隠されていた時代は終わったのです。抑えられ、忍耐の時を過ごして来られた神の時代は終わりました。まさに神の決断の時でありました。独り子を十字架につけてまで人間を救おうとされる御心が、今や実行に移されたのです。

聖書は、さりげなく「イエスはガリラヤのナザレから来た」と語っていますが、これは、神が「人間の世界に大いなる力をもって介入して来られた」ことを告げているのです。不安と絶望の中で生きる人間に、救いへの道が開かれたということです。

今実現する神の救いの御業。その恵みに預かるために必要なこと。それがヨハネのバプテスマでした。ヨハネのバプテスマは、4節に記されていた通り、救いのバプテスマではなく「悔い改めのバプテスマ」でした。自分の罪を認識し、過去の自分と完全に訣別して神を迎える姿勢を整えること、それが「悔い改め」(メタノイア)ということでした。それは、「心の向きを変える」という意味と先週申し上げました。

それでは何故、主イエスはこのヨハネのバプテスマをお受けになったのでしょうか。主イエス・キリストは神の御子です。ですから、主イエス御自身には神に背いた罪はなく、整えなければならない「心の乱れ」はない筈です(ヘブライ人への手紙4章15節)。神の御子は、何故、悔い改めのバプテスマを受けられたのでしょうか。

その第一の理由は、マタイによる福音書3章15節によれば、この時「その必要はありません」と言うヨハネに対して、主イエスは、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」と答えられたと記されています。神の御業に接する者に「例外はない」ことをあえて主イエス御自身が示し、全ての人間の先頭に立たれたと言えるでしょう。

私たちにも様々な生き方があります。様々な可能性を持ち、独自の歩み方があります。しかし、全ての人間が生きる姿の中で等しく実現されなければならないこと、それが「悔い改め」なのです。自分のこれまでの生き方を見直し、人生の方向を「自分の喜び」から「神の喜び」へ向け直すのです。これまで何を見つめて生きて来たのか。これから先何を求めて生きて行こうとするのか。その全てをもう一度考え直してみるべきではないでしょうか。御言葉を聞く者にはその準備が必要なのです。

主イエスがバプテスマを受けられた第二の理由は、救いを待つ人々と等しくなるということです。

イエス・キリストの御心は、一段上からではなく、人と共に生きるという愛に基づいています。御自分は高いところにいて、「さあ、上がって来なさい」と上から手を差し伸べるのではなく、救いを求める惨めさの中に共に立って下さり、その苦しさ・悲しさを共に味わわれるのです。神の愛は、神の御子が御自身を徹底的に虚しくされ、罪の深みにおける苦しみを共に受けて下さることから始まります。

「罪なき御方が、私たち罪人と共になられた」ということは、十字架を待つまでもなく、このヨルダン川において実現しました。そしてこの瞬間、聖書は「天が裂けて、『霊』が鳩のように御自分に下って来るのを、御覧になった。」とあります。ここの「天」とは、私たちが考える「大空」や「宇宙」ではありません。私たちが生きる「地」に対する「天」であり、神が居られる場を現す聖書的表現です。

人間の不幸や悲惨の原因は、この「天」がアダムとエバの罪によって閉ざされてしまったことによると創世記は語っているのです。神に対する信頼よりも蛇の言葉を受け容れたアダムとエバの罪のために、人間は楽園から追放され、神との交わりが絶たれました。それ以来、天は人間の前に閉ざされてしまったのです。

それ故に、人間の希望とは、この「天」が再び開かれることにありました。神の御前で全ての者が集い、神の眼差しを受けて生きること、それが真実の喜びであり幸福です。その時を待ち望み、失われた神との交わりが回復されることを願って長い時代を生き抜いて来たのが、旧約聖書が示すイスラエルの歴史でした。

マルコ福音書が告げるイエス・キリストの洗礼の出来事を見る時、今や待ち望んで来た「時」、「神の時」が遂に到来したということが知らされているのです。神と人間の間を閉ざしていた扉が神の側から押し開かれ、御子キリストが父なる神の御心を完全に表す御方として遣わされ、神の御計画は実現の時を迎えました。

「天が裂けた」とは、神の信頼を裏切り、神の愛に背を向けて自ら滅びの道を行く人間の罪を赦し、真実の交わりの回復を望む神の御心を象徴的に表現しています。この神の御心により、私たちは神に向って「父よ」と呼ぶことが許され、「子よ」と呼ばれる時が来たのです。

15節で「時は満ち」と述べられています。この「時」に関し、私たちが考える以上の忍耐をもって、神はこの日を待っておられたのです。私たちの幸福は、私たち以上に神の願いでありました。ですから、この「満ちた時」は御心を実現される「神の時」であり、先週も、お話ししたように如何なる意味でも「私たちの時」ではないのです。

私たち人間は罪の中に苦しみ、罪の故に新しい苦しみを招き続けています。それでもなお、神なき世界の誤りを正しく理解できず、その悲惨から抜け出せない者です。罪の中に留まり続けてしまう者です。

「時が満ち」たとは「苦しみが終わる」ということであり、もはや神の愛が、人間の苦しみを見過ごしには出来なくなったということを示しているのです。

そして、先週もお話しした、人間の孤独を象徴する荒れ野、サタンの誘惑にさらされる人生を象徴する荒れ野。その荒れ野すら、今やサタンが働く場ではなくなり、神の御子が御霊と共に住まう場になっているとマルコ福音書は12節以下の「荒れ野での40日間のサタンの誘惑」に記しています。

主イエスのガリラヤ伝道の開始に当たり、マルコ福音書は先ずこの決定的な「時の変化」を告げているのです。

私たちは今、どのような時の中に置かれているのでしょうか。どのような場に生きているのでしょうか。

「神の国は近づいた」と宣言されているのです。それは、神御自身によって、私たちの前に今差し出されているのです。

「時は満ちた」。その「満ちた時」とは、私たちのために用意された「神の時」です。この神の時の前にあって、私たちが「時の外」に生きることはあり得ません。神の愛が私たちの滅びを赦されないからです。

その「時」の中で、私たちの周りの大切な人々が滅びないよう、家族をはじめ私たちの近くに居る大切な人たちに「神の救いの御言葉」を伝えて行く者でありたいと望みます。

お祈りを致しましょう。

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神の美しい世界

W.ジャンセン先生

《賛美歌》

讃美歌19番
讃美歌499番
讃美歌90番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記1章20-31節

1:20 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
1:21 神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された。神はこれを見て、良しとされた。
1:22 神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ。」
1:23 夕べがあり、朝があった。第五の日である。
1:24 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
1:25 神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。
1:26 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
1:27 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
1:28 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」
1:29 神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。
1:30 地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
1:31 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。

新約聖書:ヨハネ黙示録21章1-7節

21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
21:2 更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
21:4 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
21:5 すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
21:6 また、わたしに言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。

《説教題》

「神の美しい世界」

神様はご自分の栄光を表し、又、私達が祝福を受けられる為に素晴らしい天地を創造されました。創世記第1章31には、その様子が「神はお造りになった全てのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と記されています。創世記第1章は、神様を全能の芸術者として表しています。初めに地は混沌としており、深淵の面は闇で覆われていました。これはとても希望のない様子です。古代中近東の様々な神話の中に、深淵というものが登場します。深淵とは暗い、命のない、絶望的な海のようなものです。又、深淵には邪悪があり、その深淵が怖い海であると信じていた人々もいました。又、レビヤタンのような怪物が深淵に存在すると信じられていたので、深淵は人間が殺されるような、地獄のような所としてとらえられてきました。

古代の人達にとっては、天地が創造される以前に深い、暗い混沌たる深淵がありました。一方で、海の事を考えてみますと、様々なイメージが眼に浮かぶでしょう。海に囲まれている日本には、素晴らしい景色や場面を描く芸術家が沢山います。海上の日の出や夕焼けの様子を見ると、心を打たれ、感動させられる事もあるでしょう。又、ある人にとっては、海の音、つまり、波が海岸の岩に打ち付けられる音に癒される事もあるでしょう。私達は生まれる前に、母親の胎内で水に囲まれ、その水の音が私達に安心を与えてくれていたのと同様に、海の穏やかな音が私達に平安を与える働きを持つ事もあると考えられます。しかし、海には、別の顔もあります。

イエス様が嵐を静められるという新約聖書の記事はよく言及される記事ですが、この出来事は共観福音書、つまりマタイ、マルコ、ルカの3福音書に記録されているので、キリスト者にはとても馴染みのあるものであり、又、深い意味を持つ話でもあると思われます。イエス様と弟子達は船に乗り、湖に出ました。そして、突然、「湖に激しい嵐が起こり、船は波にのまれそうになった」とマタイによる福音書に記されています。これは、穏やかな海の様子とは全く異なる様子であると言えるでしょう。それは、とても怖い状況であり、弟子達は湖で死んでしまう事を非常に恐れたのでした。しかし、そのような状況の中で「イエスは眠っておられた」と書かれています。この様子を見て、これはあり得ない様子であると、弟子達は思った事でしょう。そして、弟子達はイエス様に「主よ、助けてください。溺れそうです」と言った、とマタイの福音書に書かれています。マルコの福音書には、弟子達は「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」とあります。何故イエス様は眠られたのかという事に対して、弟子達は不思議に思っていたようです。イエス様は本当に弟子達の困難な状況を知っておられたのでしょうか?それとも、イエス様は全体的な状況を把握しておられた為に嵐の中でも眠る事ができたのでしょうか?

先ほど悪を象徴するレビヤタンという怪物について触れましたが、レビヤタンについて、イザヤ書第27章1節から、ある種のイメージが得られると思われます。「その日、主は/厳しく、大きく、強い剣をもって/逃げる蛇レビヤタン/曲がりくねる蛇レビヤタンを罰し/また海にいる竜を殺される」とあります。この短い一節に、古代中近東のおける人々が天地に対してどのような理解を抱いていたのかが分かります。レビヤタンとは海にいる「逃げる蛇」「曲がりくねる蛇」であり、レビヤタンが邪悪の象徴である事が仄めかされています。平和の状況から逃げるものはありません。レビヤタンが逃げようとしている事が示しているのは、レビヤタン自らに敵があるという事です。又、「曲がりくねる」ものの意味は、真っ直ぐではなく、他の生き物をずるく騙そうとするものを意味していると考えられます。誰かがある状況から逃げようとする時、又、真っ直ぐに話をしようとしない時、私達はその人を信用できないものとして捉えるでしょう。そのような人の話には様々な矛盾が生じる事もあり、そのような状況の中で私たちはその人と一緒に仕事をしたり、会話をしたりする事を難しいと感じる事もあるでしょう。

又、天地創造の時にあった混沌の深淵には、様々な怪物的生き物があったと信じられていました。ベヘモットという物もあり、先ほどのイザヤ書の箇所に出てきた竜もいました。海にはこのような力強い、恐ろしい怪物のような生き物が存在していると思われていたので、海は十分注意をすべきものと考えられていました。

海や大きな湖はこのようなところであると信じられていたので、嵐が現れた時、弟子達は非常に恐れていたのでしょう。というのは、もし自分たちが乗っている船の下に、そのような怪物が存在し、船が転覆し溺れてしまったならば、そのようなものに滅ぼされてしまうと考えたかも知れません。しかし、まるで何も起こっていないかのように、イエス様は眠っていたのでした。イエス様は何故眠る事ができたのでしょうか?イザヤ書第27章1節に、その理由があります。「主は/厳しく、大きく、強い剣をもって」海を支配している全ての怪物を滅ぼす事ができるからなのです。ですから、船に乗っていたイエス様の弟子達は、邪悪な怪物に勝つ事が出来ないと思い込み、恐れていたのですが、それとは対照的に神の子主イエスには、その怪物より力と権威が備わっていた故に、怪物はイエス様の支配下にあった訳でした。神様は天地創造をされた時、深淵の上にご自分の霊が動き、その時から神様はレビヤタンや海にいる他の怪物を追い払おうとなさったのでした。人間には邪悪を追い払う事ができませんが、邪悪なものは神様のみ前においては、無力となるのです。

ヨブ記第40章25節から29節までの箇所において、ヨブに対して神様はレビヤタンの力強い存在に関して問いかけられます。「お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ/その舌を縄で捕えて/屈服させることができるか。お前はその鼻に綱をつけ/顎を貫いてくつわをかけることができるか。彼がお前に繰り返し憐れみを乞い/丁重に話したりするだろうか。彼がお前と契約を結び/永久にお前の僕となったりするだろうか。お前は彼を小鳥のようにもてあそび/娘たちのためにつないでおくことができるか。」と。現代の私達には、このような問いかけにあるイメージは馴染みの薄いものですが、古代のイスラエルの民族にとっては、具体的なイメージを与えてくれる問いでありました。要するに、人間にとって怖いもの、人間を簡単に滅ぼせるものは恐ろしいものでありましたが、神様には、そのような怪物は小さいものに過ぎず、弱いものでありました。レビヤタンが登場する聖書の別の箇所に、詩篇第104編があります。104編の26節において、次のような韻文があります。「舟がそこを行き交い/お造りになったレビヤタンもそこに戯れる」と。一般的には「戯れる」という言葉を怪物に言及がある同じ文章内で使う事はないでしょう。しかし、神様の立場から見ると、レビヤタンは一種の「かわいい」ものでもあると考える事ができるのでしょうか。「恐ろしいもの」が同時に「かわいいもの」として捉えられるという事はあり得ないと思われるかも知れませんが、猫を飼っている方であれば、想像できるかも知れません。例えば、小鳥にとっては猫はとても恐ろしい存在ですが、飼い主には、猫はかわいい物であると言えるでしょう。そして、飼い猫が何かに激しく噛み付いている様子ですら、「猫が遊んでいる」と言う感覚で捉えられるのではないでしょうか。勿論、飼い主は愛猫に小鳥を殺して欲しいとは思っていないでしょうが、このような時、飼い主の立場からは、猫は恐ろしい存在であるとは言えないでしょう。

又、神様がレビヤタンをお造りになったという事も、詩編第104編26節に書かれています。神様が創造してくださった天地には、レビヤタンのようなものも存在しています。そして、アダムを創造された時には、神様はアダムを愛されていたので、彼を最初にエデンの園という安全な恵まれた所に置かれたのでした。エデンの園には、レビヤタンのような恐ろしい怪物は存在しなかったのでした。しかし、アダムとエバが罪を犯し、エデンから追放された時から、邪悪なものが近くにやって来たのです。神様にはこのような邪悪なものに打ち勝つ力はありますが、人間には悪に勝つ力はないのです。

さて、私たちの世界は今ある意味で混乱状態にあります。COVID-19というコロナウィルスが私たちの世界を支配しようとしています。レビヤタンと同様に、人間にはCOVID-19を倒す事ができません。私達は、今、如何にして、このコロナウィルスに打ち勝つ事が出来るのかという事で頭を悩まされています。ウィルスは目には見えない怖いものでありながらも、同様に自然界には必要なものでもあります。それは、ウィルスが自然界に存在している事によって、生物学的に地球上のバランスが取れているからです。聖書の観点からは、このような事をどのように捉えているのでしょうか。

言うまでもなく、聖書の文化は現代の私達の文化と違うところが多々あります。先ず、私達の世界に対する理解が違います。聖書の時代に、世界には天井のような物が空であり、又、地面の下にあるのは見えない物で、生きものが存在する事を想像できたのでした。彼らは球体である地球を知らず、地面の下には何かの土台があると考えていたのでした。現代の私達には、地球は宇宙に浮いていて、自然界はその地球の表層、地殻にあり、地殻の下に存在するものは生物学的には生命体ではないというように考えるのが普通でしょう。又、宇宙に対しても、どこかに生命が存在するという事は想像できたとしても、その明確な証拠が表されるまで、付き詰めて考える事はしないでしょう。しかし、ウィルスが存在するという事には、証拠があるからこそ、私達はウィルスの存在を否定しないのでしょう。又、私達はウィルスの力をも警戒しつつ、自らの生活パターンを変えるしかないのかも知れません。

聖書の時代の人達にとっては、化学的証拠よりも、「信じる事」が世界を説明する方法でした。それが、彼らの文化でした。それに対し、私達の現代の文化は、科学的な証拠によって結論を導き出す文化であると言えるでしょう。ウィルスに感染した事によって、ある症状が現れ、具体的な症状が現れる事によって人がウィルスに感染していると結論付けます。人に病気の症状が出れば、何らかの原因があると当然推測されます。そして、ウィルスや何らかの菌によって体が不調になったと考えるのです。菌やウィルスを目で確認できなくとも、科学的にそれらが存在している事が明確になっている故に、その事実を受け入れるのです。このような事実は、私達の霊的な世界に対する考え方にどのような影響を与えているのでしょうか。

科学的にこの世界を見る事によって、霊的に世界を考える事が難しくなってしまいます。昨年、私は家族と一緒に、北米で最も好奇心と議論の的になっている場所の一つに行きました。その場所を訪れる予定だと誰かに話すと、「私も行きたかった!」と言う人達がいる一方で、「あんなところに一体何の用があるの?」と言う人達もおり、私達の訪問に対する判断によって、その場所を知っている人達の考え方が分かりました。その目的地とは、ケンタッキー州ピーターズバーグにある創造博物館でした。何故、この博物館は人によって極端に異なる感情を引き起こすのでしょうか?

この質問に答える為に、先ず、創造博物館の掲げているミッション・ステートメントを考えます。

「家族連れに適した安全で健全な、学びと発見のための施設となり、創り主・贖い主・支える方であるイエス・キリストをあがめる。」_とあります。

この博物館について何も聞いた事のないクリスチャンが聞けば、このステートメントはそれなりに良く聞こえます。私はクリスチャンとしてイエス・キリストを自分の創り主・贖い主・支える方として崇めたいと願いますし、イエスは絶えず私も他の全ての人をも創り、贖い、支えておられると信じています。では、何が問題なのでしょうか?それは、この声明が文字通りに受け取られれば良いのですが、その裏に隠されている創造博物館の真の意図にあります。その意図とは、進化論は聖書に示されている真実を害する危険で誤った教えだと糾弾し、進化論を信じる事は文化を崩壊させ、子供達を破滅に導くキリスト教信仰にとって究極的な脅威であると宣言する点にあるのです。 ですから、この博物館を訪れるつもりだと誰かに言うと、大抵二つの両極端の反応が起こるのです。 その人が聖書の逐語主義者であるならば、そこに行く事によって私達が救われるかも知れないという期待を持って私達を鼓舞するでしょうし、一方で、その人が聖書を文学として読む人々、つまり聖書を正確な歴史年表としてとらえない人々であるならば、私達は頭がおかしくなってしまって、自分をダメにしてしまう原理主義的な渦の中に巻き込まれてしまったのだと心配するかも知れません。

個人的に、私たち、皆、自らの信仰のあり方を完全に表そうとしても難しいところがあるのではないかと思われます。根本的に私達の共同体の信仰においては、互いの信仰のあり方に関して一致している点が多いですが、自分自身の信仰に関しては、特別な個人的な部分もあるでしょう。私達は海を眺めている時に、その海の中に大きな怪獣のようなレビヤタンが存在しているとは考えないでしょう。しかし、古代の人達にとっては、それは一般的な常識でした。船が海に出て、戻らなかった時、レビヤタンに飲み込まれてしまったと古代の人達は考えたかも知れません。又、津波が現れた時に、古代人はそれはレビヤタンが大きな尻尾を激しく振った為に巨大な波が出現したと思った事でしょう。又、大きな火災のような場合には、その原因はレビヤタンの息から出た火であるかも知れないと、彼らは捉えたようでした。

私達の暮らしている世界には恐ろしいものが沢山あります。たとえレビヤタンのようなものを想像しなくても、私達は現代の知識に基づいた、私達を滅ぼし得るものによる脅威を経験しています。しかし、創世記第1章31節に記されているように、神様はお造りになったすべてのものをご覧になり、それは極めて良しと思われました。現代の私達はレビヤタンと言うものを恐れなくとも、身近にある病原体に脅威を感じています。私達にはこのような恐ろしいものを消滅させる事は出来ませんが、神様がお造りになった私達の美しい世界を感謝し、生きる事ができます。ヨハネの黙示録第21章4節に記されているように、神様は私達の為に新しい天と新しい地とをお造りになりました。ですから私達が神様に絶対的な信頼を置くならば、神様は「[私達]の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」と約束されています。

私達の主イエスは明確におっしゃっておられます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(John 16:33)このみ言葉を信じ、神の想像された美しい世界に感謝しながら、希望を持って歩もうではありませんか。

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