神の栄光を現わす

聖書:申命記324852節, ペトロの手紙一 4711

 本日の礼拝、11月最初の主の日の礼拝を、わたしたちは永眠者記念聖餐礼拝として捧げるために、こうして教会に集められました。思えば、わたしたちは何と豊かにされていることでしょうか。世界中では人々が自分の住むところを失うほどの戦争や社会不安に襲われている地域があります。アメリカでは中米から何千人という人々が合衆国を目指して移動を始めたというニュースが流れ、本当に行き場を失う人々がいるのだ。またそれを迎え入れるかどうか、という問題に直面している人々がいるのだ、ということに驚きます。

人口減少社会の日本がある一方、世界は人口爆発です。わたしたちの社会も明日が予測できない方向へと向かっているのですが、今日という日、わたしたちは成宗教会に集められ、たくさんの写真を前にしています。あわただしい日々の中で、また明日の思い煩いが押し寄せる日々の中で、わたしたちはこれらの写真の方々を思い出して礼拝を守ります。何と豊かなことでしょうか。わたしたちは何がなくても、今日、教会と共にいらした方々を思い起こしたい、そして神さまに感謝したいという思いに満たされているからです。

本日は旧約聖書の申命記32章を読んでいただきました。これは、預言者モーセの最期についての神さまのお言葉です。モーセという人は、神さまの命令に従った人でした。彼は何か偉い人になりたかったわけでは決してありませんでした。しかし、神さまは彼をお選びになってイスラエルの人々を救い出す仕事をお与えになったのです。彼はそのために多くの困難に直面しなければなりませんでした。有名なのは、エジプト王ファラオが頑なで、どうしてもイスラエルの人々を奴隷解放しませんでしたので、彼はその罰として次々とエジプトに災いをもたらすように神さまから命じられたことです。また、モーセが杖を持って手を海に差し伸べると海が真っ二つに分かれ、乾いた地が現れたので、イスラエルの人々はそこを歩いて渡って、襲いかかるファラオの追手から救われたのでした。

しかし、モーセの直面した最もつらい試練は、敵の王様の頑固さではありません。何と味方であるはずのイスラエルの人々の頑なさでありました。モーセが苦労し、神さまに従ってすべてを耐え忍んだのは、イスラエルの人々を救うためではなかったでしょうか。ところが彼らは感謝するどころか、不平不満の塊で、モーセに激しく反抗したのでした。その時にただ一度だけ、モーセは神さまの命令通りにしなかった、ということなのです。神さまはモーセが「イスラエルの人々の中で私に背き、イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかった」と言われました。モーセは、ただ一度の罪のために、イスラエルに約束された土地に入ることができなかったのだと言われています。

モーセは本当に神さまに忠実でしたが、完全に神様に従うことができませんでした。彼は神さまが救おうとしてくださる神の民のあまりの不信仰、あまりの恩知らずに驚き、あきれ、ついに怒ってしまったからです。それでも、モーセはイスラエルの人々の罪を一生懸命に神さまに執り成して、その生涯を終えたのですが、神さまはモーセに言われました。「イスラエルの人々の間でわたしの聖なることを示さなかった」と。神さまが聖なる方であるとはどういうことなのでしょうか。

新約聖書はペトロの手紙の一、4章7節から読んでいただきました。その一つ前の6節から見ましょう。6節。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためです。」死んだ者にも福音が告げ知らされたと語られています。このことはキリストが十字架にお掛かりになり、死んで葬られ、陰府に下られたときに、死んで陰府にいた人々にも福音を宣べ伝えてくださったのだと解釈する人々がいますが、それは確かではありません。ただ、イエスさまの福音が死者を生かす力あるものであるからには、福音がこの地上で生きている人々に限定されて宣べ伝えられるということは考えられないでしょう。

わたしたちの親しい人々が既に地上から去って行きました。その中には、キリストを知らない人々、キリストを信じるに至らなかった人々が多くいます。キリスト教人口が1パーセントと言われるこの国では、当然の現実です。また、教会はこの救いを宣べ伝える使命をイエスさまからいただいているのですが、罪ある人間が十分に宣べ伝えることができているとは決して言えない。イエスさまのことが十分に分かってもらえないうちに親しい者は地上を去って行くでしょう。福音を聞く者も、語る者も共に罪あるわたしたちです。このことを神さまは御存じです。

ですから、たとえわたしたちが、またわたしたちの愛する者、親しい者がイエスさまをこの地上で救い主として受け入れないまま世を去ったとしても、それだからイエス・キリストの罪の赦しは無駄になるのか、無意味になるのか、と言えば、決してそういうことではありません。なぜなら、キリストの恵みの御業は、生きている者たちにばかりでなく、死んだ者たちにまで及ぶにちがいないのですから。だからこそ、わたしたちが「あの人は救われない」とか「あの人は駄目だ。この人は・・・」と批判したりすることは空しいこと、無意味なことではないでしょうか。

御覧ください。ここに飾られた写真の方々、教師として奉仕した方々も、信徒として教会に結ばれていた方々も、地上を去っても霊においてキリストと結ばれて生きる者とされています。では、わたしたちが今地上にあって為すべきことは何でしょうか。モーセに言われた主の御言葉を思い出しましょう。地上に生きているうちになすべきことは、神さまが聖なる方であることを表すことです。モーセにさえ完全にはできなかったこのことを、成し遂げられたのは、イエス・キリストでした。この方は、神さまがわたしたちの罪を赦して下さり、神さまの命に生きる者となるために、わたしたちのために執り成しをして下さったのです。すなわち、イエスさまは十字架にかかり、すべての人の罪の身代わりとなって死んでくださいました。この救いを信じて告白した教会の人々が、新しいイスラエル、神の民です。そのわたしたちは何をして生きればよいのか。すなわち何をしてこの救いの神さまが聖なる方であることを表したらよいのでしょうか。今日のペトロの手紙は勧めています。

「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と。教会では自分たちの求めるべき幸福は神の国の宝を受け継ぐことである、と教えられます。そうはいうものの、わたしたちは特に近年は長寿国に生きていますので、何となく自分も長生きできると思っていますから、神の国のことを思うよりも、専ら考えるのは地上のことです。たとえて言うならば、地上を去る時は必ず迫って来るのに、まるで夢の中でウトウトしているように生きている訳です。しかし、聖書は、それは愚かなことであると警告します。

そうは言っても、ペトロの手紙の時代以来、2千年もの間、世の終わりは来ないではないか、と言う人も多いでしょう。確かに今日明日と過ぎて行くこの世の流れによって、時の長さを測る限り、時間は長いと感じられるのではないでしょうか。しかし、わたしたちの目を上げて、神さまの永遠を思うことができるとするならば、数百年をもって数えられる多くの歳月も、一時間あるいは一分間と思われるようになるのです。そして終わりが近いということに、わたしたちは動揺しません。なぜなら信じる者には、永遠の命を約束されているからです。

そこで勧められています。「思慮深くふるまい、身を慎んでいなさい」と。イエスさまもマタイ24章で教えておられます。42節です。「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰ってこられるのか、あなたがたには分からないからである」と。

そして祈りなさいと勧められています。クリスチャンが生活の中で実践しなければならないことは祈りです。なぜなら、わたしたちの力はすべて主の御力によって与えられる力であって、わたしたち自身の力ではありませんから。それならば、わたしたちが祈らないでいることは、本当に弱くなるばかりということです。だから、「わたしたちを主の御力によって強くしてくださいと、主なる神様に求めなさい」と勧められているのです。

さて、主なる神さまに願い求めるべき、わたしたちの生活は、「何よりもまず、心を込めて愛し合う」生活であります。だから、このためにこそわたしたちは祈らなければなりません。なぜならば、「愛は多くの罪を覆うからです。」人々が互いに愛し合う時には、多くの事がらを互いに赦し合うようになります。わたしたちのうちに愛が支配するとき、それは、特別な恵みをわたしたちにもたらします。それは、忘却という恵みです。不愉快な扱いを受けたこと、傷つけられた思いをいつの間にか忘れてしまうというということよりも大きな恵みはないのではないでしょうか。忘却によって、心に残っていた多くの悪い事を、悪い思い出を葬り去ることができる。これは特別な恵みです。だから、わたしたちが愛のうちに互いを赦し合い、助け合う以上に良いことはありません。人は誰もが多くの罪という名のシミがあり、しわがあり、傷があるのですが、神さまがキリストによってわたしたちを赦してくださいました。だからこそ、わたしたちは何よりも互いに赦し合うことが必要なのです。

そして更に勧められています。「不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神の様々な恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」と。わたしたちは自分のものと思っているものも、すべて主から与えられている賜物であります。だから、人に何かを与えるとしても、何一つ自分のものを与えるわけではなく、ただ、主がわたしたちの手の中へ入れてくださったものを、他の人々にも分配しているにすぎないのです。ですから自分に与えられた恵みの善い管理者になりなさい、と教えられます。もしあなたが物やお金や、才能を多く与えられているならば、主は、あなたが多く他の人々に分配し、共に豊かになるようにと与えてくださったと知るべきであります。神さまがすべての人に同じ賜物を平等に与えてくださらない理由がそこにあるのです。神さまの御旨は、わたしたちが互いの不足を補い合い、助け合って生きるようになることなのですから。

「語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように。」キリストに救われて、今を生きるわたしたちが、神さまに求められていることがここに示されています。それは神が栄光を受けるために、わたしたちが与えられたものすべてを用いて、神の栄光を現わすものになることです。

モーセのような忠実な神の僕であっても赦されず、裁かれた罪を、イエス・キリストは取り除いて下さった。この恵み深い神の計り知れない救いのご計画を思い、感謝が溢れます。成宗教会は創立78年になります。主に結ばれていることを証しして下さった兄弟姉妹を、そして教職の方々を通して、教会の主は今、わたしたちに恵みを注いでおられます。不思議な主の御力によって、この方々は地上を去った今も、主と共に在って励ましを送ってくださっています。いつまでも思い出されるのは善いこと、懐かしいことばかりなのです。ここに神の御名がほめたたえられずにはいられない教会があります。わたしたちもまた後に続いて、神の栄光を輝かせるものとなりましょう。地上を生きるこの時を生かし、わたしたちに与えられている賜物を生かして。 祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を讃美します。今日わたしたちは御前に喜び集い、永眠者記念礼拝を捧げ、聖餐の恵みに与ることを感謝します。わたしたちは小さな群れですが、あなたは恵みを豊かに注いで、今日まで守り導いてくださいました。今、わたしたちは、雨の日も風の日も成宗教会に在って共に教会の主に結ばれ、主にお仕えした永眠者の方々を覚え、感謝を捧げます。地上で思い出すわたしたち以上に、天でその名が覚えられていることを信じ、またわたしたちも後に続きたいと切に願います。すべてが主の栄光を現わすために用いられ、天上にも地上にもあなたの喜びが溢れますように。

今日、礼拝にあなたに依って招かれたご遺族の上に、あなたの豊かな顧みがありますように。地上であなたを愛していた兄弟姉妹のご家族がご子孫が、あなたの恵みを受け、主イエス・キリストを知る者となりますように。

成宗教会を今日まで守り導いて下さった大きな恵みを改めて思い、感謝申し上げます。わたしたちは、牧師の退任に伴う後任の人事を進めるために、連合長老会と学びを共にしております。どうか東日本の諸教会と共に歩み、教会の業を整えて行くことができますようにお助けください。この地に変らないあなたの恵み、福音を宣べ伝える教会として、成宗教会を建設してください。今日の長老会の上に恵みのご支配を祈ります。

本日は主の聖餐に与ることを感謝します。どうかわたしたちを、主の死に結ばれ主の命に生きる者として、悔い改めと感謝を捧げて聖餐に与ることを得させてください。本日礼拝に参加できなかった方々も顧みてください。病気の方、悩みにある方々に癒しの賜物をお与えください。

すべてを感謝し、御手に委ねます。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

互いに真実を語りなさい

聖書:申命記191519節, ペトロの手紙一 3814

 わたしたちは神の民に与えられた戒めを学んでいます。それは昔、旧約聖書に記されている神の民イスラエルに与えられましたが、今に至るまで、「神を愛し人を愛するとは、どういうことなのか」を教える神の言葉となっています。そして、「これを守る者は命を得る」と教えられているにも拘わらず、戒めを守ることができない人間の罪の現実をも指し示している。それが 十戒 であります。人は自分の力で戒めを守り、自分の力で命を得ることができない。すなわち、救いを得るに至らないのであります。

では、どうしたらよいのでしょうか。人は自分で救いを獲得することはできないけれども、神は人に救いの道を開いてくださいました。それはすなわち、ただ神の恵みによる救いです。神は御子を救い主、キリストとして世に遣わしてくださいました。人の力でできなかった罪の贖いを、真の神の子は、真の人の子として全人類の身代わりになって贖ってくださいました。そのことを信じた者は悔い改め、主の犠牲の死に結ばれた者となりました。主の死に結ばれたわたしたちは、主のご復活の命に結ばれて、教会の生きた肢とされたのです。教会とは、主イエスのご命令によって教えを宣べ伝える唯一の真の使徒的教会であると信じられています。

わたしたちは、自分の力で、聖書に与えられた十戒を守ることができない者でありますが、しかし、他方、キリストによって救いに招かれた喜ばしい者として、どのように生きたらよいかという課題が与えられているのです。それこそが、救われた者の感謝の生活であります。感謝の生活とはどのようなものであるか、という問いなのです。わたしたちクリスチャンは全世界の主の民であり、年齢、性別が違うだけでなく、様々な時代、様々な地域、様々な民族の特徴を持った主の民であります。「甲の肉は乙の毒」というほど、違いの方が際立って見えます。だから昔の戒めは今に通用しないと思っても不思議がないほどの多様性があるのです。

しかしながら、キリスト教徒の教会はいつの時代にも十戒を教え、十戒を学び、これを救われた者の感謝の生活の柱として来ました。わたしたちは、今までに第八戒まで学びました。今日は第九の戒めです。それは「あなたは、隣人について、偽証してはならない」です。今日は旧約聖書申命記19章を読みましたが、これはイスラエル共同体の中でどうしたら公平、公正な裁判が可能となるかを論じているのです。十戒の第九の戒めを見ると、隣人について偽証してはならない、というのですから、確かに裁判に関わっている戒めですから、日常とは違う裁判の被告人のために、あるいは原告のために、証人として立つ場合などが頭に浮かぶのではないでしょうか。19章15-19節をもう一度読みます。

「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。不法な証人が立って、相手の不正を証言するときは、係争中の両者は主の前に出、そのとき任に就いている祭司と裁判人の前に出ねばならない。裁判人は詳しく調査し、もしその証人が偽証人であり、同胞に対して偽証したということになれば、彼が同胞に対してたくらんだ事を彼自身に報い、あなたの中から悪を取り除かねばならない。」

「あなたは」と申命記が呼びかけているのは、裁判人に対してではありません。むしろ、裁判人を立てている信仰共同体に対して、祭司を立て、訴える者、訴えられる者を立て、証人を立てているこの信仰共同体全体に向かって、「あなたは、責任を持ちなさい」と命じられているのです。もし誰かを殺そうとして嘘の罪でその人を訴えた者がいるとしたら、その偽りの証人となった者は人を無実の罪で殺そうとしたのですから、その悪い企みの報いとして殺されなければならない、ということになります。昔の石打の刑というのも、わたしたちの目にはいかにも残虐な行為と思われますが、一人の死刑執行人が犯罪人を死なせるのではなく、みんなの責任でその人を死なせるという強い決意が共同体に迫られているのです。

このように裁判において偽証することは、共に生きる社会の中で無実の人の名誉を傷つけるだけでなく、誤った裁判を行う事になりますから、社会的な公正を破壊し、共同体を崩壊させる深刻な原因となります。ですから、強い決意をもって悪を取り除かなければならないと命じられているのです。申命記が書かれた時代は、そんなに古くはないと思われていますが、それでもも二千数百年は経過していると考えられますので、裁判の公平、公正さがこのように訴えられていることは、信仰者でなくても驚くべきことではないかと思います。わたしたちは神によって与えられていると信じるのですから、神の公平、公正を命じ給うその熱意を褒め称えずにはいられません。

申命記で取り上げられたものは公正な裁判のための偽証の禁止であります。しかし、そういう公の裁判でのことが守られるためには、ごく身近な人と人との関係の中で偽りが取り除かれなければなりません。ですから、偽証してはならないということは、家族、隣人、教会、地域社会について命じられている戒めです。今日の新約聖書は、ペトロの手紙一、3章です。8節。「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。」わたしたちはそれぞれの個性あふれる人間であり、異なった様々な意見を持つ自由が与えられているのですが、ところが度を超すと、些細なことでも自分と相手が違うと気に入らないと思い、受け入れられないとなり、嫌悪感を持つことは大きな問題であります。

だからこそ、一人一人、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くような心遣いが勧められています。心を一つにするとはそういうことであります。そして兄弟を愛し、と言われていますのは、天の神さまを「天にまします我らの父」と呼び奉るわたしたちだからこそ、共に神の子とされた兄弟姉妹を愛する愛が与えられているのです。また、「憐れみ深く」と言われているのは、神さまが慈愛に満ちた方であるからです。神さまが憐れみ深い方であるからこそ、兄弟姉妹を救い、その人たちの悲惨さを少しでも和らげ、またその人たちの弱さを支えるようにと、教えているのです。

これらの勧めを実行するために無くてはならないものは何でしょうか。それは謙虚であることです。人と人との心がバラバラになる大きな原因の一つは、傲慢であり気位の高さであります。自分を人より一段と高い者とするならば、そのために隣人たちを低く見るようになり、非常に問題です。そんなことがあってはならないのですが、実際はこの世の価値観が、基準が教会の中にもどんどんと入って来ます。わたしたちはこの世の価値に全く影響されないということはほとんど不可能です。何かの職業に就くためには勉強して試験をパスしなければなりません。また病気になると仕事をすることが難しいので、健康を保持しなければなりません。また家とか何かを買うためには、たくさんのお金が必要です。このようなことが沢山あり、わたしたちは苦労して来たし、またこれからもこの世の価値に関わりなく生きることはできません。

しかし、成宗教会の78年にわたる歴史を振り返ったとき、貧しい時代を生きた人々の言葉が思い起こされます。食べる物が乏しかった頃、牧師先生が畑で作ったホウレン草を分けてくださった、とか。コーヒーを入れてくださった、とか。売らなければならなかった石鹸をママ先生が買ってくださった、とか、本当に小さなことに対する感謝を忘れないでいる方々がいるのです。私の仕えた教会の17年では、そんな感謝は一つも生まれませんでした。感謝というのは、自分が貧しいからこそ生まれるものだと思います。

一方、今の時代にも貧しさはあります。それは健康の貧しさ、特に年を取っていろいろできないことが増える。病気にもかかる、ということで、わたしたちは貧しくなります。すると本当に小さな事にも感謝が生れます。なかなか礼拝が守れなくなった方の所に伺うと、それは喜ばしい出来事になります。何を話すか、世間話では終わりません。このわざわざ出かけて行くこと。わざわざ迎えるために待っていること。その両方がイエスさまの教会を思っているからです。教会の主が会わせてくださる交わりです。すると感謝が生れます。両方とも、主の御前に謙虚にならないではいられないからです。9節。

「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」わたしたちは神さまの慈しみを受けて生きているのですから、兄弟姉妹にも慈しみをもって交わるのですが、そのためには多くのことに耐え、また多くのことを支えていかなければなりません。時には思いがけなく意地悪な人々がいてわたしたちは腹立たしくなるのですが、その悪口、侮辱にも忍耐するように勧められています。それではやられっ放しで良くないと世の人々は思うことですが、わたしたちは悪に悪をもって立ち向かわないことが、神さまに仕える者の広い心であると教えられます。それは神さまが良い人々ばかりでなく、悪い人々の上にも雨を降らせ、太陽の恵みを注いでくださる広いお心の持ち主だからです。

だから祝福を祈りなさいと勧められます。祝福は他人の繁栄を祈ることです。わたしたちは、侮辱されてもそれに報復しないだけでなく、善を為すことによって悪を乗り越えなければならないと教えられています。そしてそれは、相手の利益のためではありません。わたしたちがクリスチャンとされたのは、神さまの祝福を受け継ぐためだからです。だからこそ、悪に悪をもって報いては、神さまの祝福を断ってしまうことになるのです。10節。

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。」神さまは残酷な人や、裏切る人々を祝福することを欲してはおられません。そうではなく、善良な人々と善い行いのある人々に臨み給うことを欲しておられるのです。だからこそわたしたちは人の悪口を言ったり、人を侮辱したりすることのないようにしなさいと命じられています。また表裏のある人間、人をだます人間とならないように、舌が犯す罪、悪徳から身を守らなくてはなりません。更に、積極的に努めるべきことは、人を傷つけないこと、だれにも害を与えないこと、そして、すべての人に善くするように配慮を怠らないことです。

平和を願い、追い求めよと力強く勧められています。平和はただ争いが無く何もしなくても良い状態ではありません。ボーっとして居たら平和はわたしたちからいつの間にか逃げて行くかもしれません。ですから常に平和を追いかけて探し出さなければならない。平和とはそのように心配りすべきものであることを教えています。12節。「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」わたしたちは困難に直面するとき、まるで主は自分をお忘れになったかのように動揺することが多い者です。しかし、主は適切な時期に我々を救うために、わたしたちを見ておられます。主なる神様はわたしたちの保証人で保護者なのです。

ですから主の喜んでくださることを行っている時にも思いがけない困難、苦難に遭うことがあっても、どのような時にも人を恐れず、神さまだけを恐れて、わたしたちは互いに真実を語る者となりましょう。どんな時にも神を畏れて他人に悪を為すことなく、間違いにも不正にも耐えることが勧められています。カテキズム問49 第九戒は何ですか。その答は、「あなたは、隣人について、偽証してはならない」です。偽りや嘘や悪口を語って人を悲しませたり、困らせたりしてはいけないということです。わたしたちはイエスさまによって真実を語る者とされているからです。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

尊き御名を褒め称えます。今日の礼拝、わたしたちを一週間の旅路から、御前に引き返し、感謝と讃美を捧げる者とさせていただきました。

今日の御言葉の糧を感謝します。第九戒は偽証を禁じる戒めでした。偽証に先立つ小さな嘘、隣人に対する悪意、高慢な心をわたしたちから取り去ってください。あなたの前に低くされ、あなたの恵みを知る者とさせられたことを感謝します。互いに主のものとされ、イエスさまの生きた御体の肢とされたわたしたち、助け合って良い実を結ぶことができますように切に祈ります。今日の礼拝後に行われるバザーの行事をどうかあなたの恵みの下においてください。あなたの祝福を受け継ぐものにふさわしく、この働きを通して兄弟姉妹を祝福し、またバザーを機会に教会を訪れる地域の方々にあなたの祝福をお与えください。どうか思いがけない困難をも乗り越え、怪我無く事故無く行われますよう、最後まで御手の内にお導きください。

また、今週のわたしたちの歩みも御言葉に従うものとなりますように。来週は永眠者記念の聖餐礼拝を守ります。またどうぞ、あなたの豊かな顧みがそれぞれの生活の上に注がれますように。牧師後任の人事に伴う準備をあなたの御手によってお導きください。また東日本連合長老会の働き、日本基督教団の将来に向かう取り組みの上に御心を行ってください。わたしたちの限りある力が豊かに用いられ、あなたのご栄光を現わすために勤しむ者となりますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

主が再び来られる時

聖書:申命記323539節, ルカによる福音書212528

 今日、読んでいただいた申命記32章はモーセが生涯の終わり近くに、神の民イスラエルに語り聞かせた言葉であるとされてます。イスラエルは、またの名を神の民、出エジプトの民と呼ばれています。彼らはエジプトの地で長い間奴隷として追い使われていました。彼らが苦難の叫びをあげると神はお聞きになり、神はイスラエルの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して立てた約束を思い出されました。創世記12章2節の約束です。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。」

神は約束通りにイスラエルの民を奴隷の状態から救い出しました。彼らと契約を結び、神の民となさいました。しかし、それから彼らはいつも変らない信仰をもって神の民であり続けたでしょうか。モーセが「わたしが報復し、報いをする。彼らの足がよろめく時まで。彼らの災いの日は近い。彼らの終わりは速やかに来る」と歌う「わたし」という主語は神であります。それでは、「彼らの足がよろめく」という彼らとは、だれでしょうか。彼らとは、残念なことに、神の民なのです。彼らは、神の民でありながら、他の神々を求め、それにささげた犠牲の肉やぶどう酒を飲み食いしました。だから、災いの日に、苦難の日に、主は言われます。「どこにいるのか、彼らの神々は。どこにあるのか、彼らが身を寄せる岩は。さあ、その神々に助けてもらえ、お前たちの避け所となってもらえ」と。主なる神はお怒りになっておられるのです。

何ということでしょうか。神は彼らを苦難の生活から救い出され、彼らと契約を結びご自分の民とされたのに、彼らは誰も彼は皆背いてしまったのです。しかし、この恩知らず、恥知らずの民は、神に背いた結果、力を失ってしまいました。未成年者もいない、成人の働き盛りの人々もいなくなりました。このことは神の怒りの結果でありました。。しかし、神は御自分の民が弱り果てているのを見られて、憐れまれたのではないでしょうか。36節に語られています。「主は御自分の民の裁きを行い、僕らを力づけられる」と。

主なる神は公平な裁きを行われる方であります。人々のうちにある悪を見過ごしにされることは決してありません。また反対に人々が善い務めを果たそうと人知れず労苦するならば、それを見過ごして心に留められない、ということはないのです。神はわたしたちが全能の父なる神とお呼び申し上げる方ですから、全能の御力をもって正しく裁いてくださいます。

しかしながら、旧約聖書の神の民は、神に従うことが出来なかったのですから、神から離れて滅んでしまったとしても、自業自得であったでしょう。そのことは、わたしたちも全く同じではないでしょうか。「神に従います」と約束しても、なかなか従うことが出来ず、神から離れてしまう。その一方、人々は真の神ではない、目に見える神々に従ってしまう。目に見える具体的な繁栄に、ご利益に心引かれてしまうのではないでしょうか。

わたしたちの生きている時代も、社会も全く同じではないでしょうか。神の民が少数者であるとしたら、この時代の、そしてこの社会の価値にのみ込まれてしまう危険にさらされています。この時代の、この社会の追い求める偶像、神々に振り回されてしまう危険に、わたしたちは絶えずさらされているのです。

しかし、教会はイエス・キリストによって福音を世界に宣べ伝え続けて来ました。神の裁きの前に衰え果てるしかない人間のために。この世の繁栄しか求めないために、日毎に夜毎にこの世の望みも衰えて行くしかない人間のために。いつの時代にも、どんなところでも消えない望みを宣べ伝える。日毎夜毎に輝きを増す救いを宣べ伝える。この貴い務めを教会は与えられています。

この福音は旧約聖書の神との契約を乗り越えるものです。人は神との約束を忠実に果たして救いを獲得することはできませんでした。しかし、神はそれでも人を愛し、力を失って滅びるばかりの人を憐れんでくださったのです。その愛がイエス・キリストを世にお遣わしになったことに証しされています。旧約の人々は罪を償うために、律法に従って羊や山羊などを身代わりに捧げました。しかし、この償いは罪を犯すたびに際限なく捧げられなければならないものです。憐れみ深い天の父は、御自分の愛する子を世の罪を贖う小羊として身代わりの犠牲とされました。神の御子が御自ら犠牲として十字架にご自分を捧げられたのです。教会は信じました。その死、そして葬り、三日目の復活によって、この犠牲が全人類のためにただ一度供えられた献げ物として神に受け入れられたことを

さて、最初の弟子たちは、そのほとんどが無学な田舎者でありましたし、パウロも言っております。(Ⅰコリント1:26)「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」と。また、主イエス御自身が宣べ伝えた福音も、預言者イザヤによって預言された言葉にあるように、「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしを捕らえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」それは貧しい人に宣べ伝えられ、打ち砕かれている心に受け入れられた福音なのであります。

そうすると、「では貧しくない人には福音はないのか?恵まれている人には救いはないのか?」というような疑問が出されることがあります。わたしたちには何よりもまず知るべきことがあります。それは、真の神は計り知れない富を持つ豊かな方であり、その豊かさをわたしたちに分かち与えたいと思っておられる方なのだということです。最初の人間をお造りになった時、その前に豊かな自然をお造りになって多くの生き物、花と鳥と食べ物を人間に与えてくださったと聖書は語ります。最初から人を荒れ野に住まわせ、苦労して働かせたのではなかったことを思い出しましょう。

しかし、人間は罪のために恩を忘れる者となりました。豊かに与えられれば与えられるほど、豊かに感謝し、神をほめたたえる者になったでしょうか。残念ながら、人間の歴史は全くその反対であったことをわたしたちは知らされます。不思議と言えば大変不思議なことですが、逆に、貧しい人々、苦難、困難を負っている人々の中から多く、福音を熱心に聞く者が現れて来たのです。日本でも明治時代の激動の時代、幾多の困難をものともせず、福音を宣べ伝えて行った多くの伝道者がいました。西日本に伝道したバックストンというイギリス人宣教師の話を思い出します。彼は十分の一献金を勧めて、10人信者がいれば教会が出来ると言いました。なぜなら、10人が10パーセントを捧げれば、全部で100%になるから、一人の伝道者の生活を支えることが出来る、としたのです。貧しいからこそ、少人数だからこそ、主の救いに希望を高く上げるのではないでしょうか。

また、私も思い出してみると、横浜市立盲学校に勤務していた時、教員は60名ほどいましたが、キリスト教徒はそのうち10名近くいたという記憶があります。目が見えないということは想像を絶する大きな困難です。だからこそ、一歩踏み出すことが、信仰そのものに掛かっていると思います。

さて、今日のルカ福音書21章は終わりの日に、主が再び世に遣わされて来られることを述べています。「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。」キリストが天に昇られて2千年が過ぎ去りました。この間、福音は熱心に世界の果てを目指して宣べ伝えられて来ました。どんなに多くの人々が労苦したことでしょうか。ある時には伝道者の純粋な思いを利用して福音を商売のタネにするという勢力も起こりました。またある時には政治的支配に利用しようとする勢力も起こりました。欧米キリスト教国の繁栄を見て、神の国を求めるのではなくこの世の繁栄のためにキリスト教に近づく人々も多く起こりました。イエス・キリストのことは知らなくても良い。キリスト教から生み出された果実だけが欲しいという訳です。

しかし、どの時代にもキリストに従って教会を建てるために捧げられた人々の労苦、苦難は計り知れないものがあります。主イエスは、ご自分が天に昇られた後、福音を宣べ伝える弟子たちの困難を思い遣って、彼らを励まそうとしておられます。大きな患難が弟子たちだけに、教会だけに起こるのではない。終わりの日には、この世界全体が天地異変に見舞われると。わたしたちは大きな天災、人災が起こるたびに、また戦争や世界的な疫病の話を聞くたびに他人事ではなく、不安になります。しかし、わたしたちの不安は個人的な不安に終わっているでしょうか。あるいは家族だけの心配に終わっているでしょうか。あるいはわたしたちの不安は教会についての心配になっているでしょうか。もし、わたしたちの思いが、心配が、祈りが教会に結びついているならば、それは、わたしたちが主の体と結ばれている何よりの証しなのです。

主イエスはわたしたちを励ましておられます。あなたがたには苦難がある。しかしあなたがたが教会と結ばれているならば、勇気を出しなさい、と主は言われます。わたしは既に世に勝っているのだから、と。(ヨハネ16:33)わたしたちの教会には、ご高齢になって、礼拝に来られなくなっている方々が少なくありません。あるいは、遠くにおられて来られない、あるいはお具合が良くない、あるいは入院しておられる、という方々です。しかし、この方々が、お若い時にもまして、お元気な時にもまして、主の日の礼拝を思ってくださっているのです。「今は讃美歌が歌われている頃、今は説教がなされている頃と、考えてお祈りします」と私は言われて、大変励まされます。

20年前、30年前には考えも及ばなかったことではなかったでしょうか。教会といえば、いろいろな行事でにぎやかに、忙しいところというイメージがありました。しかし、そういう目に見える教会の事がらの背後にある、目に見えない教会の姿があります。それはいろいろな困難に日々直面しながらも主を仰いでいる教会、いや、むしろ困難に直面しているからこそ、ますます主を仰ぐ教会です。

この世界は2千年前、主イエスによって差し出された福音を拒絶してこの方を死に追いやりました。そして教会が福音を宣べ伝えている間も、神の国を求めるより、この世の支配を追い求め続け、教会の主を悲しませ続けています。しかし、世の終わりの時に衝撃を受け、悲しみ、嘆くのは、主の教会ではありません。光よりも闇を愛し、神の国の宝よりも、この世の宝を愛すればするほど、主の日は恐ろしい日となるでしょう。主は救い主として世に来てくださいましたが、再び世に来てくださる時は神の力によって人々を正しくお裁きになります。

Ⅰテサ5:5「あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは夜にも暗闇にも属していません。」378下。突然主の日、終わりの日が来るその時まで、わたしたちは闇の中に置かれているのではなくて、神の光に照らされているのです。わたしたちの救いは終わりの日に神御自身が判断されることで、わたしたちが勝手に決めることではありません。しかし、わたしたちがなすべき生活の姿勢が問われています。それは信仰によってキリストの再臨を希望のうちに目を覚まして待ち続けることであります。日々の困難の中で、キリストに表された神の愛を思い、御心を形に表したいと思います。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

尊き御名を賛美します。今年も暑い夏になりました。わたしたちを励まし、御言葉をいただき感謝を捧げるために礼拝を捧げさせていただきました。深く感謝申し上げます。本日の礼拝、世の終わりに再び来てくださる主を教会は告白していることを学びました。わたしたちは、世が裁かれるときにも、世を愛して身代わりの犠牲を捧げてくださったイエス・キリストによって、罪赦されたことを信じます。世の繁栄も含めて、すべてがわたしたちの人生に恵みとして与えられています。どうか、感謝を以て、主のご栄光のために用いる日々を送らせてください。人を愛して止まない主をわたしたちも愛して、隣人を愛し、教会を建てて行くことで、恵みに応えることが出来ますように。いつも終わりの時を目指し、心をあなたに高く上げて歩むことが出来ますようにお導きください。

わたしたちの社会を救うために、どうかこの教会を、全国全世界の主の教会と共にお用いください。あらゆる違いを越えて共に助け合って一つなる体の教会を建てることが出来ますように。特に連合長老会の交わりと学びを祝し、連なる教師、長老、信徒の上に豊かな顧みをお与えください。また新たな教師をこの教会にお与えくださいますようにお祈りいたします。わたしたちの祈りと必要な備えをお導きください。

本日は主の聖餐に恵みによって与ります。わたしたちに悔い改めと感謝を捧げさせてください。また、礼拝後の長老会議をお導きください。教会学校の上にあなたのお働きを感謝します。今日も病気に伏しておられる方、悩みの中にある方を聖霊の恵みによって慰め、励ましてください。

この感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

幸いな人

聖書:申命記6章4-15節, マタイによる福音書5章1-11節

 主の年、すなわち西暦2018年が始まっています。世の中は大変好景気といわれております。1980年代のバブル期のようだという人もいます。しかし、東京の街中の様子を見ると、どうしてもあの頃とは違うと感じてしまいます。違いを感じることの一つは、車です。外国車の数が圧倒的に増えています。日本の車は性能が良いのに、どうして買わないのだろうかと思います。また、自動車産業は関連する産業のすそ野が大変広いのですから、国産車が売れると、日本の労働者の生活を安定的に支えることに繋がります。そうして多くの人々が恩恵を受けることが出来たのが、以前の好景気でした。

ところが、今車を買わない若い人々が多いと言われています。そして高収入の人々は外国車を買う傾向にあります。これが好景気なのか?と思いたくなるのは、昔と比較する私の考えが古いのでしょうか。しかし、車がなくても生活できるのは若い時代だからだ、と私は思います。遠くに出かけるのに、時間も体力も使うことが出来るからです。私が成宗教会に赴任してから16年。浴風園キリストの会という老人ホームでの集会に出かけたり、病院のお見舞いに遠出するのは、バスや電車を乗り継いで行けばよいのですが、より多くの時間と体力が必要です。教会の墓前礼拝について考えても、やはり車を出すことが出来なければ、なかなか困難です。

二十年前、三十年前と今を比べた時、明らかに分かるのは、好景気ではないでしょう。以前は体力があった。車もあるのが当然だった。時間も取ることが出来た。それが、今は大変乏しくなっています。これは何も私たちの教会に限って言えることではありません。日本の社会全体が、好景気といわれているにもかかわらず、いろいろな意味で貧しくなっているのではないでしょうか。そしてこれは日本だけの問題では決してない、世界の多くの地域でいろいろな貧しさが進んでしまっているのではないでしょうか。

とはいえ、私たちが過去を振り返って、現在と見比べるのは、せいぜい50年、100年のことでありましょう。私たちが知っている昔とは、その程度の長さだからです。主イエス・キリストが地上に来てくださった時、神の御子は神の国の限りない豊かさから、限りない貧しさの中に降り立って下さいました。しかし、主の地上での御使命は、私たちと同じ貧しさを共にするためではありません。もしそれが目的なら、ああ、イエスさまは私たちと同じ人間の苦労をして下さったということに尽きることになります。もしそれだけが目的なら、確かに感謝は生まれるかもしれませんが、それだけで、人は救われるでしょうか。

主イエスの目的は、私たちの貧しさの中にいらして、天の御国の豊かさを教えることではありました。神の国について教え、そして私たちを神の国の豊かさに招くことであったのです。ですから、今日の聖書、山上の説教として有名な教えを、主イエスは教えられたのです。主イエスは群衆を離れて山に登られました。そして近くに従っておりました弟子たちに教え始められました。弟子とは、どういう人々でしょうか。弟子とは先生の教えに聞き従う人であります。ここでは、キリストに従う人々であり、キリストを通して神に従う人々であります。神の御心を知った時、それは、「ちょうど私の考えて同じです。喜んで従いましょう」ということではないのです。「えーっ!」と驚き、「とても信じられない」と思いながらも、自分の考えを捨て、御心に従って行った人々です。

思えばマリアもそうでした。主イエスの誕生に先立って、マリアに天使が現れて、常識では考えられないことを告げた時、マリアはどうしたでしょうか。自分の考えを捨てて従ったのです。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」またマリアの夫となるヨセフもそうでした。主イエスの誕生に先立って、ヨセフに天使が現れて、常識では考えられないことを告げた時、ヨセフはどうしたでしょうか。自分の考えを捨てて従ったのです。このように、キリストが世に生まれてくださるために、神は地上に従う人々をすでに備えてくださいました。

そのようにして人々の貧しさ、乏しさの中にキリストは来られました。そして従う者を集め、教え始められます。それは、幸いな人とはだれか、という教えです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」心の貧しい人々とはだれでしょう。それは、自らを空しくし、神の憐れみに頼る人。苦悩にさいなまされ、押しつぶされても、それでも神に全く服従し、そして、心から謙遜であり、神に救いを求めてやって来る人々。そういう人々は幸いだと主は言われます。そうです。母マリアがそうでした。ヨセフもそうでした。常識では考えられないことが起こった時、自分に頼らず、他人に頼らず、ただ神に全く服従する。私たちもそうでありたい。だから神に救いを求めて教会に集まるのです。

しかしこのことは、何か他の人々と比べて、「救われる」特権を持っているかのように得意になることではありません。主イエスは従う人々が天の国に入れることを確信させ、だからあらゆる困難を忍耐するようにと、励ましておられるのです。また主は教えられました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と。世間の常識では、悲しみは幸いとは程遠い。むしろ不幸なことではないでしょうか。しかし主は悲しみに暮れる人々は悲惨ではない、と仰るのです。それどころか、涙を流すことそのものが幸福な人生の助けとなる、と教えられました。

私は教会に在って、皆様と共に多くの悲しみを経験しました。それは、多くの方々が教会を去って行ったからです。ある方々は高齢になり、また遠くに行ってしまったので、教会に足を運ぶことが出来なくなりましたから。また、他の理由で教会に来られなくなった方々もおられます。その方々はどうしていることか、主がどこかの教会に招いておられるだろうか、などと思います。しかし、私たちはその他の方々を天に送りました。召された方々とのお別れには一番涙を流しましたけれど、それは不幸ではありません。私たちには愛する人々がいるからです。ですから愛する人々と別れる悲しみは確かに幸いなのです。この悲しみが天の国の希望に続いているからです。私たちの悲しみはただ神によって慰められると信じるなら幸いです。

主イエスはまた教えられました。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と。柔和な人々とはだれでしょうか。それは侮辱されてもすぐに立腹しない。人々にひどいことをされても同じことで仕返しをしない。何事にも忍耐強い、穏やかで温和な人々のことです。この教えもまた信じがたいのです。むしろやり返さないとますます相手は傲慢になって悪事を重ねるだろうと思うからです。その不安が争いに争いを巻き起こすのです。私たちは命じられています。主イエスだけが私たちをお守りくださると確信しなさいと。確信して、その救いの翼の陰に隠れなさいと。そうするためには、私たちは悪人に悪をもって報いる人であってはならないのです。主は羊飼い。そして、私たちは主のもの。主の羊なのですから。

多くの土地を所有するために力を振るう人々は、いかにも繁栄しているようですが、実は、他から力で奪われないように絶えず警戒しなければならない、従って絶えず不安なのです。反対に私たちは、地上に僅かなものしか持っていなくても、確かに地上に住むところが保証されています。なぜなら私たちは神の恵みをいただいているからです。そしてやがて地上を去る時、神の国に住まいが用意されていることを思えば、主に従って生きる者が地を受け継ぐのです。

6節。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」と主は教えられました。飢え渇くという言葉は、生活必需品にも事欠くような貧困に苦しんでいることを表します。さらに義に飢え渇いている人々は、大変な侮辱、屈辱を味わって苦悶にうめいているのですが、しかし彼らは、「生きて行くためには、もう何でもするより他はない」ということにはならない。どんなに苦しんでも道を踏み外さず、節操を守っている。そしてそのために苦しみ、弱り果ててしまっているのです。

人々の目には、このような人々は愚かに見えるかもしれません。しかし、主は言われます。これは、幸福への確かな準備であると。なぜならついに、彼らはついには幸福で満たされるようになるからです。母マリアは次のように神をほめたたえる賛歌を歌いました。ルカ1:53「(主は)飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」このことを神がなしてくださる。いつの日か神は彼らのうめきを聴き入れ、彼らの正しい願いを満たしてくださるからであります。

「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」という教えもまた、4節の悲しむ人々と同様の幸いではないでしょうか。世の人々は、他人の不幸など顧みないで、彼ら自身の安楽を計っている人々を「幸いな人々」と思っているかもしれません。

しかし、キリストの言われる幸い違います。幸いな人とは、自分の不幸を担おうとするだけでなく、苦しんでいる貧しい人々を助けるために、他人の不幸をも担い、苦しんでいる人々を助けるために、喜んでその人々の中に進んで入り、その不幸を共有する人々であります。そういう人々は、神からばかりでなく、ついには人々の間でも憐れみを受けるだろうと言われるのです。争いが絶え間なく起こるこの世に在って、ついに人々は心に何のゆとりも無くなり、すべて恩知らずとなりかねないのです。その結果、親切な人々を利用し、受けた善意にも悪をもって報いるようなことも起こるでしょう。しかし、憐れみ深い人には神によって恩恵が備えられています。なぜなら神こそが恵み深く、憐れみに満ちておられるのを知るからです。それを知る人々は心満たされると、主は教えられるのです。

そして8節。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」と主は教えられました。清い心とは、何でしょうか。それは、人々の交わりにおいて常に純真であり、心の中に思っていること以外は、言葉にも表情にも全く表さない。すなわち二心がない。二枚舌を使わない、ということではないでしょうか。それは、だれもが「美しい心」だと一応認める性質でしょう。しかし軽蔑する人々は、このような純真な人のことをあたかも思慮が足りなくて、物事を十分見ることが出来ないかのように思っているのであります。ところがキリストは改めて心の清い人々を高く評価なさいました。二心がない、たとえ悪人に騙されることがあっても、人を欺くことが出来ない人々は、天の神の御前で神に喜ばれることだろうと。

そして「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と主は教えておられます。人々の間でも、あるいは組織、国家の間でも、不和の状態、戦争状態にある者たちを仲直りさせるのはやっかいな骨の折れる仕事であります。平和を作り出そうと努める善意の人々は、双方から侮辱されたり、不平不満や非難を受けても、それに耐えなければならないことがしばしばです。なぜなら、人々はだれもが、執り成す者に、まず自分を守ってくれるよう期待するからです。そこで主は何と言われたでしょうか。主は私たちが誰よりも、何よりも、父なる神の調停によって平和を作り出すように努めるように教えておられます。だから人々の平和のために働く者は、人の思いどおりにではなく、神の正しい裁きが行われるように祈り働く者となりなさい。そうすれば、あなたがたは、たとえ人々から良い評価は受けなくても、それどころか、いわれのない悪評を受けることになっても、大丈夫。主は私たちを御自身の子と数えてくださると約束して下さいました。

2018年最初の礼拝、私たちは主イエス・キリストの教えを聞きました。主イエスは、この世の人々の繁栄の幸いではなく、神に従う者の幸い、神と人を愛して生きる道を教えてくださいました。私たちは新しい年に改めて、主の教えに従い、幸いな人に数えられたいと思います。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

新年最初の礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。あなたは私たち成宗教会の群れを守り導き、新しい年を迎えさせてくださいました。多くの方々が高齢となり、病気やお体の不調に悩み、仕事や家庭に困難があることをあなたはご存知です。しかし、目に見えてここに、あなたの御前に集まる者は少ない者ですが、その生活の所々に在って、あなたの御名を覚え、心を合わせて祈る群れであることを感謝します。

私たちは主が恵み深く、地上に在って、私たちの乏しさを神の国の豊かさに変えてくださるために教えてくださることを感謝します。今多くの悩みがある中で、あなたがどうぞ私たちになすべき務めを教えてくださいますように。あなたが聖書によって、主イエスによって、恵み深さを表してくださいました。今、私たちは聖餐によって、主イエス・キリストが私たちになしてくださった救いの恵みに与ります。主イエスは山上の説教の教えを身をもって生き、十字架にご自分を捧げ、私たちの罪を赦し、平和の礎となってくださいました。私たちは主に感謝し、主の御体の教会にしっかりと連なる者となりますように。

高齢化少子化が進む社会にあって、あなたの御心が成り、私たちの罪が赦され、福音が日本の社会に伝えられ続けるために、この年も私たちの教会を、連合長老会の教会と共に、また日本基督教団をはじめ、全国全世界の主の教会と共に、一つなる教会が形成されるために用いてくださいますように。成宗教会の長老会の働きを強め、教会学校、ナオミ会、ピアノ・オルガン教室の働きを豊かに祝して下さい。また明日行われる東日本の日曜学校研修会と長老会議から、2018年の連合長老会の諸行事が始まります。すべてを祝し導いてください。

この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

放蕩息子と孝行息子

聖書:申命記7章6-7節, ルカによる福音書15章11-32節

 教会が告白してきました救い主、主イエスは、多くの例え話を語ってくださいました。ルカ15章の放蕩息子の話はその一つですが、15章にはその前にも、失われた羊の例え話、また無くした銀貨を探す話が収録されています。それらは皆、一つのテーマ、目的をもって語られています。そのテーマは、15章7節で主が語られておられます。「言っておくが、このように悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

全世界の教会が代々に言い表している信仰は、人間は皆、神から離れ、神に背を向けている罪人であるということです。しかし、実際には自分の罪を知らない、自分は人ではないと思う人々がおり、確かにこの世の法律から見れば、法を守っている人と、法を犯して犯罪者となる人との間には大きな隔たりと区別があります。しかし、教会が告白している信仰は、人と人との間のことを語る前に、人は神に対して背いたために恵みを受けられない状態を人自らが作り出している、ということなのです。

そこで、そういう人間を(つまり人々の目には互いに、あの人はひどい人だという、この人は素晴らしいと言う、比較をして裁いている訳ですが、実は皆、神に背いている罪人である人間をです)、神さまはどのように思われているのか、ということです。神さまはお姿が見えず、わたしたちの尺度で、推し量ることもできない方です。しかし、そこに主イエスが地上に来られた目的がありました。主イエスはヨハネ福音書でこう言われました。(ヨハネ5:19ー20)「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることは何でも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」

すなわち、神さまは主イエスをわたしたちの所にお遣わしになり、その言葉と御業によって、神さまの御心、御旨をお知らせくださっているのです。その御心とは、「わたしたちが皆、神さまに背いていたにもかかわらず、神さまはなお私たちを愛していてくださる」という、信じがたいこと。これが神さまの御心なのです。主イエスが人々に今日の例え話を話されたのも、そのために他なりません。ですから、この話を聞いて、自分の親と自分との関係などを思い返すのは筋違いでありましょう。神さまと人間の関係を、この目に見えない、従って多くの人々には想像することもできない関係、むしろ想像なんかしようとも思わなかった関係を描き出すために、主イエスは神を父親に例えておられるのです。

本当に神さまを父親として持っていると考えるなら、父の財産は無限というより他はないはずです。ただ、わたしたちは自分に今与えられているものを数えると、いかにも少ししかない、そして自分がもらえるはずのものも限られている、と思うばかりであります。そこでとにかく漠然と父の財産をいくらあるのかと想像し、将来はもらえると想像するだけで、満足することができればよいのですが、弟息子は、そうおおらかに安らかに思うことができませんでした。それはとにかく父の許を離れたいという希望があるからです。父のことを頭にのしかかった重荷のように感じているので、とにかく父のちの字も感じないような遠くに離れたい、そこで好きなように自分のしたいことをして暮らしたい、と思ったのでした。

夜逃げ、駆け落ち、というのは個人的には昔からあります。出エジプトの物語でも、集団大脱走です。脱出して自由になりたい、ということです。しかし、同じ逃げ去ることに天国と地獄の違いがあります。父の許を逃げ去るということは、エジプトの王の奴隷状態から逃げ去ることだったのでしょうか。それとも、天の父なる神さまから逃げ去ることだったのでしょうか。その答は逃げて自由になった結果を見れば分かるでしょう。弟息子は自由になったと思ったとたん、放蕩の限りを尽くしました。そして何もかも使い果たしてしまいました。

この愚かで思慮の無い若者は神さまを信用できない、不信仰な人々の例えであります。せっかく神に豊かな持ち物で恵まれていたのに、神から離れて全く自由になるというありえない欲望を持った人々です。それは、まるであらゆる生き方の中で最も望ましいものは、父のような神さまの心遣いと御支配の下に生きないことであるかのようです。さて、それに対して神さまはどうなさったでしょうか。神さまである父は、この息子の行く先が必ず失敗であることを知っていました。わたしたちは親としても子としても愚かな者であって、行く末を知ることができませんが、主イエスが話された父は天の父です。

神さまを離れてしまっては立派に生きることができないとご存じでも、息子を引き止めることはなさらなかった。なぜでしょう。罪ある人間は本当に困り果てない限り、万事休すとならない限り、自分の間違いに気がつかない。それほど愚かであることを見ておられたのです。しかし、人間の愚かさ、罪がこの例え話のテーマではありません。そうではなくて、人が自分の愚かさに気付き、心から悔い改めるために立ち帰って来る。それを熱心に待ち望んでおられる天の父のお姿を、主イエスはお知らせくださっているのです。

父よ、わたしはあなたに罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありませんと謝罪を述べる子を赦そうと、今か今かと待っておられる。それが天の父なのだと。そして、息子を見つけると、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻してくださる。それが天の父なのだと。それだけではありません。子のこれまでの罪を赦すだけでなく、喜んで子を新たに支えようとしておられるのです。父は言います。「急いでいちばん良い服を持って来てこの子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と。

衣服は、それを身に付ける人の栄誉を表します。同様に指輪は権威を表します。そして、履物は、それを履いている者が、奴隷の子ではなく自由人であるのしるしでありました。奴隷は、はだしであって、自由人だけが靴を履いていたからです。こうして天の父は、わたしたちの罪の記憶を消し去ってくださり、我々から失われてしまっていた賜物を回復してくださるのです。神の憐れみがどのようなものであるかが、こうして示されました。そして、この物語の中で奇跡的に思うことは、この弟という罪人が自分で招いた困窮に苦しんでも、父の家に帰って、悔い改めの告白をするならば、父は赦してくださるという希望を持ったということではないでしょうか。ひどく背いていたと分かったとしても立ち帰るならば、必ず赦してくださるという希望を持たなければ、この人は決して惨めな姿で立ち帰って来ることはできなかったでしょう。罪人が自分を待っていてくださる天の父の憐れみを信じる。それは人間の能力を超えた信仰の賜物です。このことこそが、その人に注がれた恵みの第一歩なのではないでしょうか。

ところが、父親にはもう一人の息子、兄がいたと、主イエスはお語りになりました。いつも父の家に居て、家の仕事に勤しんでいた息子です。この兄は、いつも父の傍に居ながら、父の本当の心、すなわち子供たちに対する豊かな憐れみ、慈しみを、実は理解していませんでした。普段は忠実な者として天の父に仕えているようでも、罪人を憐れんでくださる父の御心は、全く分かっていなかった。放蕩息子が帰って来た時にそのことは実に赤裸々な感情として現れたのです。父は憐れんで、遠くから走り寄って「よくぞ、帰って来た、帰って来てくれた」と言って抱擁なさった。もうこれからは子ではなく奴隷の身分でも良いですから、と謙る弟の言葉に対して、直ちに父の息子としての身分と栄誉を回復させてくださったのです。

それを知った時、兄も喜ぶべきでした。父と共に暮らし、父の悲しみと喜びと痛みと慰めと、すべての根底にある天の父の偉大な善意とを一番理解しているはずではなかったでしょうか。何しろ、いつもそばにいて父に仕えていたのだから。ところがあろうことか、放蕩息子を失って以来悲しんでおられた天の父の喜びを見た時、思わず宴会を開こう、飲んだり食べたり、躍ったり、歌ったり、楽しもうではないか、と呼びかけている父を見た時、何とこの親孝行息子は激しく怒ったのでした。

この孝行息子とは、主イエスの時代のファリサイ派、また律法学者たちの例えでありましょう。しかし、この孝行息子はいつの時代にも、どこの地域にもいるでしょう。神殿にいて、教会にいて、日々神さまの御用に勤しんでいます。一方放蕩息子は非常に多く、神さまから遠ざかって生きることが、何よりの望みであると神さまを忘れて、自分の理想の実現に夢中になっています。ところが放蕩息子が困窮の末に悔い改めた時、孝行息子の怒りは爆発。彼の本心が暴露されてしまうのです。

放蕩息子の立ち帰りこそ、父にとって待ち望んだ喜びの時であったのに。父はしかし、この時、新たな慈しみをお示しになりました。それは、放蕩息子に注がれたのに優るとも劣らない慈しみであります。救い主キリストは、罪人を探し求めて救うために地上にいらしてくださいましたが、ファリサイ派、また律法学者たちは、そのことを快く思わなかったのです。しかしながら、父なる神さまは、この人々に対しても、父の心から離れ去った者、失われた者として、彼らを捜しに、家から出て来られる方なのです。

そして父は何をなさったのでしょうか。表向きの孝行息子の不平不満を聞いてやるほど忍耐してくださったのです。自分はいかに親孝行をして来たか、と神さまに自画自賛を並べるこの傲慢な態度を御覧ください。兄の息子は偉そうに言います。自分は「未だかって一度も背いたことはない」と。弟は父の御前に罪の告白をしました。それに対して兄の告白は「未だかって一度も背いたことはない」です。この傲慢こそ、神の戒めの最大のものに背いている証拠ではないでしょうか。天の父の戒め、それは愛の戒めであります。

申命記でモーセが民に証ししていることは、「あなたがたが神に選ばれたのは、数が多かったからでもなく、力があったからでも、豊かであったからでもない」ということです。むしろ他のどの人々よりも貧弱であったのだと。それでも主は心引かれてあなたがたを選ばれ、御自分の宝とされた、と。それはただ主の愛のゆえにそうされたのだ、と。わたしたちがもしこの方を天の父と呼ぶことが許されるとしたら、本当に謙って、ひれ伏して、喜んで、そう呼ばせていただくより他はありません。そして、この父の思いを知らせていただくならば、隣人を自分のように愛しなさい、という戒めを押しいただいて生きる者とされるでしょう。どうやら、自称親孝行息子はその戒めのことは全く知らなかったようであります。

この兄の方もまた、父をひどく悲しませている親不孝者であったのでした。しかし、父はこの、弟とは真逆のことを行う息子に対しても優しく忍耐強く「子よ」と呼びかけておられます。この天の父の御姿。優しさが深まれば深まる程、その御姿は自分の正しさを主張するあまり、弟を弟と呼ぶのも腹立たしい、父を父と呼ぶのも忌々しくなっていく兄の息子の罪の姿と対照的に際立っています。

これは放蕩息子の物語ではありません。放蕩息子の兄、自称孝行息子の物語でもあります。しかし、イエス・キリストの例え話によって、神さまがお知らせくださっているのは、人間の罪がいかに深いか、ということなのでもないのです。このように神さまを無視して生きようとする放蕩息子に対しても、神さまの傍にいて正しく生きているように見えながら、その心が神さまから遠く遠く離れて傲慢に生きている自称孝行息子に対しても、神さまは忍耐の限りを尽くして、悔い改めを待ち望んでおられる。その豊かな、深い神の愛、慈しみをほめたたえている。

この善い知らせをイエス・キリストはわたしたちにくださいました。そしてキリストはわたしたちが悔い改めて神に立ち帰るために道を開いてくださったのです。最も望ましい生き方を教会は提示致します。それは神がこのような方であることを知り、イエス・キリストを信じて神の子とされ、神を離れず、神の御支配の下に、神の子に対しての子のようなご配慮の下に生きることです。祈ります。

 

主なる父なる神さま

尊き救いの御名を賛美します。あなたはイエス・キリストの御言葉によって、尊き御旨を表してくださいました。わたしたちは真に心狭く、自分の物差しで兄弟姉妹を測り、あなた様の御心さえ、推し量ろうとする愚かで惨めな者です。しかし、このような罪にもかかわらず、あなたの慈しみは深く、御旨は天を超えて高く、正しい者も、正しくない者も、賢い者も、今日の放蕩息子のように後先を考えない愚かな者さえも、救いに入れようと待ち構えておられます。

本当に驚くべき恵みによってわたしたちの教会をも今日まで守り導いてくださいました。わたしたちは過去の方々に与えられた慈しみを思い起こすことで、また新たな道が開かれていることを感謝します。永眠者記念の聖餐礼拝も捧げることができました。来週は今村宣教師ご夫妻をお招きして、伝道礼拝と宣教報告会を計画しております。主よ、今村先生ご夫妻のお働きを祝して下さい。どうか小さな群れに知恵と力をお与えになり、あなたにお仕えし、福音を聞くことの喜び、伝えることの喜びを教えてください。わたしたちは家族、友人を招くことに消極的になりがちな時代、社会におります。しかし、わたしたちが目を使い、耳を使い、手足を使って人々をあなたの恵みにお招きするために、あなたが聖霊によって力をお与え下さいますように祈ります。

そして、どうぞこの教会を東日本連合長老会、また全国連合長老会と共に励まし合い、協力し合って教会を建てる務めへと励ましてください。今、ご高齢やご病気のため、いろいろな事情のため礼拝を守ることのできない方々に特別なお支えを祈ります。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。