いちばん上になりたい者は

聖書:創世記25章29-34節, マタイ20章20-28節

 受難節も第5の主日となりました。先週の聖書は、主イエスが三人の弟子たちを連れて高い山に登られた話でした。その山の上で主がまばゆく光輝くお姿に変わるのを弟子たちは見ました。主はこれからエルサレムで苦難を受け、十字架につけられ、死ぬことになっている。そして三日目に復活することになっていると言われました。これからの苦難の道は主イエスにとって耐えがたい道でありましたが、それは弟子たちにとっても耐え難い試練となることを、主イエスは良くご存じでした。

そこで主はこの三人を連れて山に登られたのです。その目的は、弟子たちの中から特に選ばれた三人に、御自分の栄光のお姿を見せて、彼らをその証人とさせることであったのです。その三人とはペトロ、ヤコブヨハネでありました。ペトロは御存じのとおり、主から岩、ペトロというあだ名をいただいたシモン・ペトロであります。彼は主イエスに信仰を告白しました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。

主はこの告白を大変喜んで下さり、「わたしはこの岩の上に教会を建てる」と宣言なさいました。「その教会は陰府の力もこれに対抗することはできない。」こんなにまでほめられたペトロですが、しかし、すぐさま大変なお叱りを受けたことも、聖書に書かれています。ペトロは叱られました。「サタン、引き下がれ」と。いくら何でもサタンとまで言われるとは。しかし、ペトロはそれほどの間違いをしたからです。すなわち、彼は主がこれから受けようとしている苦難を否定し、十字架の死を阻止しようとしました。ですから、主の御怒りはごもっともだったのです。「あなたはわたしの邪魔をする者。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」神のご計画を阻止しようとする者は、だれでもこのように大変なお叱りを受けるでしょう。

わたしたちは果たして神様のご計画を知っているでしょうか。いちばん弟子と見なされていたペトロでさえも、こうなのですから、本当にわたしたちもまた、神様のご計画、主の御心から遠いこと、外れたことを言ったり、したりしているかもしれません。ですから、このようなわたしたちが礼拝に参加して、聖書を読み、教えを受け、心新たに学ぶことができますことは、真に幸いなことです。さて、今日は続いて、ペトロと共に、主に招かれて御一緒に山に登ったあとの二人、ヤコブとヨハネが登場します。すなわち20節にゼベダイの息子たちとあるのは彼らのことです。

マタイ福音書では本人たちではなく、母親が願い事をしているように語られています。しかし、これはやはり、本人たちの願いなのであります。それは、主イエスが母親に答えないで、直接本人たちにお尋ねになっておられることからも真実でありましょう。「一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に」座らせてくださいということは、要するに一番上の地位をくださいと願っているのです。実にここには人間の虚栄心がまざまざと姿を現しているのではないでしょうか。忠実に熱心にキリストに従っている人々の心に、思いがけないこの世的な、自己中心的な野心が混ぜ合わさっている。

「教会の中で立派な人だと思われたい。」「あの人はいちばん重要な人物だと認められたい。」「あの人抜きの教会は考えられないと言われたい。」このような思いが牧師の中にも、長老、信徒の中にも起こって来る。それがキリストを悲しませ、悩ませる教会の欠陥となりかねないのです。そういう人々は、単純にキリストに従うこと、キリストと共にいることだけでは満足しないからです。主に従って来たのだから、何か特別なもの、自分の希望のものがもらえるのでは、と考え始めます。

ヤコブとヨハネは、ペトロと共に熱心にキリストに従って来た人々でした。主イエスもまた、彼らを愛して特に親しく傍に置いたように思われます。しかし、愛する主から「神の国が近い」と言われた時(神の国、という言葉は、王国という言葉ですから、キリストが王として御支配してくださる王国です)、彼らはにわかに心が騒ぎました。その王国で自分たちはいちばんの地位を得たい!この野心は一体何なのでしょうか。なぜ、一番になりたいと思うのでしょうか。ただ、老いも若きも男も女も、主に従って幸せなのではないでしょうか。主が救い主であるのですから、そう信じて、信じた通りに救われて――それだけで幸せなのではなかったでしょうか。

わたしたちが教会の主に出会うということは、教会で一番になるためだったのでしょうか。そんなはずはありません。私は15年成宗教会に仕えて参りました。ここで、多くの方々に出会いました。今はここにいない方々、天に召された方々も含めて多くの方々が、私に証しを残してくださいました。すべてを詳しくお伝えすることはできませんが、戦後の貧しい時代から、高度成長期の時代から、成宗教会を通して、主が御自分に招いてくださった方々は、沢山おられます。わたしたちは、ごく一部の方々を覚えているに過ぎないのですが、キリストに出会い、救われた人々は、必死で生きていたようでした。日々の生きる戦いの中で、主が共にいてくださることだけに光を見い出した方々でした。彼らは主につき従って行くことだけを求めていたと思います。

それが、少し生きることにゆとりができると、キリストに従い以外のことに目がそれ、心が向くようになるのかもしれません。いちばんになりたい。自分がほめられたいという自分中心の価値観。教会の外では当たり前のようになっている欲望が心に首をもたげ、もっともらしいチャンスが与えられた時に、名誉を求める欲望が前面に出て来る。そして、せっかくわたしたちが歩み始めた信仰の原点を、出発点を忘れてしまうようなことにならないようにしなければなりません。主はわたしたちに尋ねておられるのです。「あなたは一体どこを向いているのか、どこに歩いて行こうとしているのか。わたしに従っているのではなかったのか」と。

22節に、主は言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」本当に彼らは自分たちが願っていることが分かっていないのです。ところが、自分では分かっている、と思っているのですから、問題は深刻です。キリストの王国で一番に、というヨハネとヤコブの願いは愚かな願いでありました。いちばんになるか、ならないかは、神様が自由にお決めになることです。御心のままになることを喜ばない、満足しないで、自分の思いのままになることを望む者は、神に喜ばれる者とはならないでしょうから。そして、もう一つの問題は、彼らはキリストの王国がどんなものか分からないのに、勝手に空想していることです。この世の王国のイメージの延長線上で考えているのでしょうか。

主は既に御自分の受けるべき苦難をお示しになっていました。十字架と復活を予告されました。その上で、「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と言われたのです。「これから受ける苦難をできるならば避けたい。自分に定められた杯を避けられるものなら・・・」と主は苦しまれるのです。しかし、主イエス・キリストの務めは、多くの人々の救いのために、道を開くことであります。

それだから、主イエスはこのことを彼らにお示しになりました。もし人間が自分の落ち度、自分の過ちのために罪を負わなければならないとしたら、落ち度のない人、過ちのない人はいないのですから、だれも救われないでしょう。その上に、自分の落ち度、自分の過ちを他人に負わせ、家族友人社会の罪を互いに負わせている世界であります。そこにどうして救いがあるでしょうか。誰がこの罪の世から救い出されることができるでしょうか。キリストは世の罪を贖うために苦難を受けてくださるのです。「わたしに従うことができるのか」と主は問われました。するとヤコブとヨハネはすぐに「できます」と言いました。

何も考えずに即答できる単純さ、そして傲慢さがそこにありました。イエスは言われました。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」確かに彼らは何も分かっていなかったのです。主は戦いに備えようとしておられます。その戦いは、直接的にはこの時代のユダヤ人指導者たちとの戦い、王侯貴族との戦いであったかもしれませんが、彼らを支配している傲慢さ、神に対する不信仰、神のお遣わしになった救い主に対する妬みと怒りと軽蔑。すなわち、この世の罪、神への反逆との戦いであったのです。確かにこの戦いは勝利に終わります。主は必ず三日目に復活され、わたしたちの救いと成り給うのです。

しかしながら、今は戦いの時でした。今、なすべきことは何でしょうか。弟子たちに与えられている職務、与えられている賜物を総動員して、どうしたらこの世の罪と戦うか、それを必死に考え、また実行に移していくべき時。一日一日に勝ちがかかっている。一瞬一瞬が勝負の時なのです。それなのに…です。ヤコブとヨハネは母親まで利用して、御前に願い出たのです。彼らの願いはまるで「勝利の行進パレードでは、主と並んで凱旋の先頭に立たせてくださいよ」などと頼んでいるに等しいのに。悪魔の火の矢が飛んで来るさ中に、いったいそんなことを考える余裕があるのか。そのことを主は厳しく指摘されたのではないでしょうか。

さて、この時は、ヤコブとヨハネの思い上がりによって、彼らの虚栄心はあからさまになったわけですが、では、「他の十人にはそれがなかったのか」と言えば、事実は全くその反対でありました。24節。「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」彼らの怒りは、彼らもまた口にこそ出さないけれども、その野望を持っていたからこそ、腹を立てたのでした。

私が洗礼を受けた40年前は、クリスチャンというのは立派な人間だという印象が日本の社会にありました。そのおかげで、私は父から事あるごとに「お前はそれでもクリスチャンか」と批判されて、いやだなあと思ったことでした。今日の聖書の話を読むならば、世の人々は「何だ、クリスチャンも世の中の人も全然変わらないじゃないか」と失望するでしょうか。それともそれ見たことか、と軽蔑するでしょうか。私たちは常日頃、教会の中で共に教会の主にお仕えしたいと思っておりますので、ヤコブにもヨハネにもペトロにも、慰めを受けるのではないかと思います。「こんなに偉い聖人として2千年も教会に記憶されている使徒たちも、何だか、わたしたちとほとんど変わりないなあ」と。

ですから、そんな使徒たちも、こんなわたしたちも、確かに自分の力で救われたのではないことがよく分かります。ただただ、主を信頼して、闇雲に従って行った弟子たち。自分の言っていることの意味も分らない。まして、キリストの御復活のことなど、どうして分るでしょうか。しかしこのような弟子たちを主は愛して、その愚かさを忍んでくださいました。ここに語られているのは、ただ恵みによる救いです。そればかりでなく、主は彼らを救い、彼らを教育して、宣べ伝える者、福音を教える務めをお授けになったのです。

主は御自分の王国と、この世の王国の違いを教えられました。この世界には序列があります。いちばんがあり、上があり、下があるのです。王様がいて僕がいるのです。社長がいて平社員がいるのです。そのことを主は否定されたのではありません。しかし、教会に与えられている職務はそれとは全く違うのです。キリストはこの上なく高い所から降られ、この上なく低い所にいる者の救いとなられました。キリストは救いの土台となってくださった。土台はいちばん低い所にしっかりと上に建てられたものを支えているのです。

それだから、キリストの体である教会では、「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と主は命じられました。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」ローマ5:15を読みます。「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」280上。キリストの死こそは、多くの人を救う恵みの賜物となったのです。祈ります。

 

主なる父なる神さま

わたしたちの心の頑なさにも拘わらず、慈しみを注いで下さり、十字架の苦難を耐え忍んでくださった恵みの主イエス・キリストを感謝いたします。わたしたちの小さな群れにも多くの救いの歴史を残してくださり、ありがとうございます。あなたの御子救い主の宣べ伝えた福音がこの教会を建て、キリストの御体の肢とされて、77年が過ぎました。2017年度、新たに歩み出す教会の歩みを、聖霊の御力によって守り導いてください。新年度も御言葉が豊かに与えられ、わたしたちが新たに主に従う者と作り変えられますように。

初代の教会から今に至るまで、主は従う者を見捨て給わず、主のご栄光を証しする者として喜びの生涯をお与え下さいました。どうかわたしたちも、この教会を通して主の救いに結ばれ、ご復活の命をいただくものとしてください。連合長老会に加盟して4年が経過しました。教会が地域ごとに学び合い、助け合っていくことを知り、感謝します。あなたの恵みの高さ、深さ、長さ、広さを教えられ、感謝の中に成長させてください。礼拝に集うことの大切さを実感しながらも、集うことが困難な方々が多くおられます。どうかこの時こそ、互いに支え合い、聖霊の神様の助けを祈り合うことができますように。どうか日々、主の戦いを共に戦い、主の勝利の列に加えられる群れでありますように。わたしたちそれぞれの家に、職場に、施設に、病院に、主の恵みの御支配が輝きますように。来週は受難週、そしてイースターを喜び迎えます。2017年度の教会総会まで、どうかその準備を祝し道筋を整えてください。

この感謝と願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。