聖書:ホセア書10章12節, コリントの信徒への手紙二9章8-15節
今日の最初の聖句、8節をもう一度読みましょう。「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。分かりやすい文とは言えない気が致します。これを口語訳聖書で見るとこうなります。「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ちたらせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」これをカルヴァンの註解書で見ますとこうなります。「神は、あらゆる恵みをあなたがたの内にみち溢れさせる力のある方なのである。それはあなたがたが、常にすべてのことにおいて十分なものをことごとく持ち、あらゆる善い業に富む者となるためである。」
このように聞いていると、この聖句は大きく二つのことを伝えようとしていることが分かるのではないでしょうか。つまり、一つは、神は力ある方であって、わたしたちにあらゆる恵みを満ちあふれさせることができる、というのです。わたしたちに、です。あらゆる恵みを、です。そのことを、一体わたしたちは信じていた、知っていた、と言えるでしょうか。わたしたちは毎日、絶えず、不足を感じている。感じているばかりか、口に出して言うのです。ああ、時間が足りない!健康が足りない!お金が足りない!力が足りない!と。こういうわたしたちが、今日の御言葉に出会っているのです。「神は、あらゆる恵みをあなたがたの内にみち溢れさせる力のある方なのである」と聖書は宣言しています。
これは、わたしたちの現実とあまりにかけ離れているのではないでしょうか。わたしたちの多くは正直、そう告白しない訳には行かないでしょう。先週は今年のペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝を守りました。聖霊が来てくださった日、教会が生れた記念日です。ところで、聖霊はだれのところに来てくださったのでしょうか。主イエスの約束を信じた人々のところに来てくださったのです。信じただけで、バラバラになっていたのでしょうか。そうではありませんでした。彼らは信じたからこそ、一緒に集まりました。集まって祈っていたのです。主の約束が実現することを熱心に祈り、求めて、待っていた。その人々のところに聖霊は降ってくださったのでした。
ルカの福音書11章で主イエスは弟子たちに教えておられます。熱心に祈ることを。11章9節以下を読みます。128頁「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
わたしたちは絶えず思っています。ああ、時間が足りない!健康が足りない!お金が足りない!力が足りない!と。しかし、聖書が「神は、あらゆる恵みをあなたがたの内にみち溢れさせる力のある方なのである」と宣言するとき、わたしたちが、それを信じることができるのは、聖霊の助けによるのです。そうでなければ神がわたしたちに豊かにあらゆる恵みをくださろうとしておられるとは、だれにも信じられないでしょう。だからこそ、何よりもわたしたちが求めるべきことは、聖霊の助けなのではないでしょうか。
そして、今日の8節が伝えようとしているもう一つのことを申しましょう。それは、神がわたしたちにあらゆる恵みを満ちあふれさせてくださる目的です。神がわたしたちに賜物をくださる目的は何でしょうか。それはあなたがたが、常にすべてのことにおいて十分なものをことごとく持ち、あらゆる良い業に富む者となるため」であるというのです。あらゆる良い業に富む者となるために。しかし、もしわたしたちが時間も、健康も、お金も、力も用いて、思う存分自分のために何でもしようと思うなら、実際いくらあっても足りない。「もっと、もっと!」と思うばかりでしょう。その結果、「神さまは私にあらゆる恵みを満ちあふれさせてくださった」と満足することは、とてもできないことでしょう。
このことからも、神の御心はわたしたちが善い業を豊かに行う者となることであることがよく分かるのではないでしょうか。9節にパウロが引用しているのは、詩編112篇9節の言葉です。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。惜しみなく分け与え、という言葉は、一部の人々に惜しみなく与えたのではなく、散らして与えた、という言葉です。貧しい人々の隅々に届くように、という意味が伝わってきます。神は憐れみと慈しみに富む方であると信じているわたしたちは、弱り果てている人々を思いやる心が求められているのです。
新鮮な水源をもつ泉からは絶えず水が流れ出るものです。同様に信仰者の寛容な心も、泉の水の流れのように永久に枯れないはずではないでしょうか。パウロは、わたしたちが良き業を果たすのに倦み疲れないように、この預言者の言葉を掲げています。私も若い頃には良き業をしようと大変頑張った時代がありました。しかし、自分の力で頑張るならば、すぐに行き詰ってしまうことが多いものです。良き業を果たしたいという志もまた、自分に期待するのではなく、ひたすら主に期待をかけるものでなければなりません。
10節はこの聖書のように未来形として訳すこともできますが、これは祈りの言葉として解釈する方を宗教改革者は勧めています。キングジェイムズ版の聖書もカルヴァンと大体同じです。「さて、種蒔く人に種を備えてくださる方が、あなたがたにもまた、食べるべきパンを与え、あなたがたの種を増やし、そしてあなたがたの義の実りを増し加えてくださるようにと祈ります。」
大変慰めに満ちた祈りです。なぜなら、種を与え、糧を備えてくださるのは、神の恵みなのだ、と断言されているからです。働き人は自分の労働だけによって、自分や他の人々を養っていると思いがちだが、そうではありません。自分の頑張りでこれが出来たと考える人は、元気な時は良いかもしれませんが、常に自分の努力だけが頼りというのは絶えず不安にさらされている状態でもあります。元気な時は神を忘れて高慢になり、そして弱り果てた時には、頼るべき方を思い出すこともできないことほど不幸なことはありません。
申命記8章17節で、モーセは神に救われた民に向かって、次の戒めの言葉を伝えました。「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」295上。神は、種を蒔く人には、蒔くべき奉仕の種を与えてくださる方であり、そして同時にその人には自分が生きるために必要なパンをも備えてくださる。神はその両方をくださる方なのです。
このことをわたしたちは心から信じているでしょうか。人間は生来自分のものを自分のものとしていつまでもいつまでも取って置こうとするほど狭量な者に過ぎません。しかし、神はイエス・キリストによって、御自身がどのようなお方であるかを知らされました。ヨハネ福音書3章16節が証しするとおりです。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」わたしたちは、主キリストが御自身の血によって贖い取った教会の中に入れられ、キリストの体の教会を建てる働きを与えられています。
そこで、コリントの信徒への手紙二、8章9節を思い出しましょう。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」ですから、その結果をパウロは今述べています。今日の11節。「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。」この訳では、「すべてのことに富む者とされて」となっていますが、元々は「すべての純真さの故にすべてにおいて豊かにされて」という意味です。つまり、豊かさの源は、単純に主を信頼する信仰であり、そこから物惜しみしない、まごころ、寛容な心が生れて来るのです。主のわたしたちに対する真心に出会って、わたしたちは真心をもって主に応えるのです。
そうすると、このコリントの手紙で、取り上げられている奉仕の働きは、ただ、この時代にパレスチナで起こった飢饉の問題ではなくなりました。エルサレム教会の聖なる者たち(すなわち、信者の人々)を助けよう、不足を補うために募金をしようという一つの運動、一つの活動にとどまることではないことが分かります。この活動はただ豊かな教会の人々から、困っている教会の人々へ、この時だけたまたま行われるのではありません。なぜなら、助ける人々も、助けられる人々もお互いだけを見ているのではないからです。
では彼らは何を見ているのでしょうか。彼らは皆、これらの活動を通して、神を見上げているのでした。この奉仕を捧げる者たちは、この奉仕を通して神を見るのです。「ああ、わたしたちは、人に何かを上げているのではない。本当は神様に献げているのだ。神様が喜んでくださるのが分かるから」と彼らは言うことでしょう。そして一方、困窮の時に援助を受ける人々も、「ああ、コリント教会さんはありがたい、親切な人々だ」では決して終わらないでしょう。この感謝を、彼らは神様に捧げずにはいられないでしょう。主の教会だから。主の贖い。主の罪の赦し、主の命に結ばれているからこそ、この助けが与えられるのだ。「何と有り難いことか。主よ、どうか、わたしたちの感謝が遠くの教会にも近くの教会にも届きますように。今はわたしたちには何もできないけれど、何の力もないけれど、あなたが自ら、彼らの奉仕に、愛の業に報いてください」という祈りが必ず生れることでしょう。
13節で、パウロが特に強調していることは、これらの教会の間の奉仕の土台になっているものについてです。エルサレムの教会はペンテコステの教会、聖霊が降った最初の教会です。キリストの福音が公然と宣べ伝えられた最初の教会です。彼らは伝道者が送り出され、世界に教会が建てられたことを知りました。エルサレム教会の困窮の時に遠くの教会から、異邦人の教会から援助の手が差し伸べられたことを感謝すると思います。しかし何と言っても彼らの喜びは、これらの異邦人たちがキリストの福音を聞いて、信じて従う者となったこと。それを、堂々と公言する教会となったことであったに違いありません。
そして、エルサレムの人々は「自分たちだけが助かれば良い」とは思わず、この施しがエルサレム教会だけでなく、必要が起これば、どこにでも助けを惜しまず分け与えられると分かれば、どんなに喜ぶことでしょうか。なぜなら、彼らも、コリントの教会も、そしてもちろん、迫害の中にあるマケドニアの諸教会も、主に在って一つだ、と心底実感するからです。そしてもちろん彼らも、このすべてのことを、神の素晴らしい恵みと信じて感謝するでしょう。そして、大きな励ましを主から受けて、コリント教会をはじめ、他の教会のために祈るでしょう。
パウロはこのように述べました。これは既に起こったことではなく、これから起ころうとしていること。必ずこのように教会が教会同士、助け合い、祈り合い、支え合う未来が今実現しようとしていることを、パウロは確信しているのです。振り返ってみれば、使徒たちの伝道には困難につぐ困難。迫害に次ぐ迫害がありました。これからも、大変な苦難が待ち受けていることをパウロは知っていたと思います。しかし、その中で、語られた美しいヴィジョンは、決して幻には終わりませんでした。主の御心に適うことは、聖霊の助けによって、必ず実現されて行くからです。
わたしたちの時代も同じです。祈りは聞かれます。「祈ることしかできない」などといいますが、本当に主を信頼し、祈り求めることこそ、わたしたちにできる最良の業の始まりです。善き業に先立つ祈りが在ってこそ、善き業から感謝が生れるのです。主の教会を建て、主の救いに入れられて生きる者となりましょう。祈ります。
主なる父なる神様
御名をほめたたえます。あなたは主イエス・キリストによって、計り知れない慈しみをわたしたちにお示しになり、恵みによって救いに招いて下さいました。あなたの喜ばれる奉仕は、わたしたちの交わりの中に感謝を生み出すことを教えられました。どうかわたしたちが自分の力を頼ることなく、あなたの助けによって、主の喜ばれる活動をし、すべてをあなたに委ねることができますように。すべてを通して、御名が崇められますように。
わたしたちの多くのものが高齢になっており、奉仕と言っても何もできないと思うわたしたちですが、奉仕は何よりもまず、聖霊の主の助けを祈り求めることから始まることを知る者でありますように。どうか、成宗教会の今年度の歩みの上に、主の聖霊の御支配、お導きを切に願います。わたしたちは小さな群れですが、東日本連合長老会の中で共に教会を建てて行くことができる希望を感謝します。また今週横浜指路教会で開かれる全国連合長老会の教会会議があなたの御心に適って、用いられますように祈ります。また、日本基督教団の様々な困難と課題を抱える諸教会が、主の教会を信じる信仰の交わりの中で、希望を持って福音に仕えることができますよう、お導きください。
教会の諸活動、特に教会学校に豊かな働きをさせてくださることを感謝します。また聖研祈祷会、ナオミ会も恵まれて活動出来ていますことを感謝します。今、礼拝に出られない事情の教会員を顧みて恵んでください。
この感謝と願いとを、尊き主イエスの御名によって祈ります。アーメン。