キリストの優しさと寛大さをもって

聖書:イザヤ42章1-4節, コリントの信徒への手紙二 10章1-6

 先週の月曜日、夕暮れ時の横浜、馬車道から歩いて指路教会に向かいました。そこを会場にして開かれる全国連合長老会の教会会議に先立つ礼拝でした。旅行鞄を引いて全国から集まって来る94教会の議員たちで会堂は満席でした。日本基督教団の長老派の教会は改革長老教会協議会という運動体をもっていますが、その中心を担っているのが、連合長老会です。普段は地域長老会の中で活動していますが、年に一度こうして集まり、礼拝を捧げ、会議に望みます。

牧師たちが顔を合わせるのは、年に一度か二度なので、お互いに少しずつ年を取って行くことがよく分かります。苦労がにじみ出ている。自分の教会のことだけでも本当に大変です。教会員の安否、求道者のこと。災害を経験した教会も数多くあります。会堂の保全。地域社会とのこと。家族のこと。嬉しい騒ぎならば良いのですが、そうでないトラブルも沢山あります。子育てや教育で悩みを抱えながら、親の介護で、中には寝たきりの配偶者の介護で苦労しながら、という教師もいます。自分のことだけで手いっぱいの教会、そしてそれぞれの教会でも、自分の悩み、困難を抱えていない人はほとんどないかもしれません。

それなのに、集まって来る。遠くから来る人々のために交通費補助をしますと言って、集められるのです。教会は不思議なところです。疲れ果てている月曜日の夕方、電灯の明かりの下での礼拝で聞く招きの言葉。最初の方にいきなり唱和する十戒。熊本錦が丘教会の牧師が司式、説教、聖餐のすべてをつかさどりました。そして信仰告白はニカイアコンスタンチノーポリス信条を唱和しました。これは使徒信条と並ぶ基本信条です。その成立は古く4世紀です。シーンと静まり返った会堂に響く、司式者の祈り、御言葉を聴き、賛美する時、私たちはただ、今を生きているだけでなく、キリストと共に生きたすべての時代に連なっている心地がしました。苦労の山、問題の山の中で、同労の教師と出会う。長老と出会う。今回は赤ちゃんをあやしながらの教職が二組いました。不思議な力を受け、慰められて、また全国に散って行ったことでしょう。

そうすると、初代教会に山積する問題も、不思議に身近に感じられるのですが、パウロはこれまでコリント教会の人々に、捧げる心、奉仕について勧めをなしてきました。これはコリントの人々がパウロの伝道者としての忠告、教会を建てる者としての忠告を、彼らが聞き入れて、悔い改めを形に表したからです。こうしてパウロは教会の人々と心を通わせることができた。再び信頼関係を回復することができたからこそ、奉仕について勧めをなしたのでした。それは実状を知り、共に悩むからこそ築かれる信頼ですが、その信頼は人対人の信頼でないことは、既に何度も申し上げました。コリントの人々がパウロを信頼するということ。パウロがコリントの人々を信頼するということだけなら、教会は建てられないのです。両方が信頼しているのは、教会の主、イエス・キリストへの信頼です。そしてイエス・キリストが身をもって示してくださった神への信頼です。この信頼、信仰を土台とするからこそ、教会は建てられるのです。

奉仕する側は神に奉仕するのだと思い、奉仕できることを感謝する。また奉仕を受ける側も、神からの恵みだと思い、感謝する。こうして生まれる奉仕は特定の人にだけできるものではなく、また特定の人に対してだけなされるのではない、という理解もまた、わたしたちが神の公平、神の隔てない愛を見上げているからなのです。

同じように、10章でパウロが新たに始めた議論もまた、人間的な思いから出たものではありません。「このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います」というところに最初に注目しましょう。このわたしパウロが、という主語は大変に強調されています。わたし(エゴー)という主語は普通言わないのですから。わたしパウロは、どんな人でしょう。あなたがたの中にはこう思っているのではありませんか、と彼は言いたいのです。つまり、コリント教会では、パウロを軽く見る人々でこんな陰口が叩かれていたようです。「パウロは面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」と。

「弱腰」という言葉は「慎ましい」という意味です。しかし、「小さくなっている」ともとれるのです。それでパウロを貶めたい人々は、「あの男は気が小さくて、面と向かっては言いたいことも言えないから、犬の遠吠えのように、遠くにいる時に厳しいことを言って我々を指導しようというのか」と批判し、ますます軽蔑していたようです。しかし、教師という者はできるだけ穏やかに教え、受け入れてもらえるのなら、それが一番良い方法です。まして主の教会を建てるのに、脅したり、強権的に抑え込んだりするべきでしょうか。

今日の旧約聖書に読まれましたイザヤ書はイエス・キリストのご性質、お姿を指し示しています。救い主は「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」方です。主イエスも新約聖書マタイ11:29-30で次のように教えられました。21上。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」正にこの柔和さこそ、主イエスが身をもってわたしたちに表してくださったものであります。また日々、御自身の僕たち、すなわち教会を伝道牧会する者たちを通して表してい給うものであります。

ところが、残念ながらコリント教会には、そのようにパウロを見ることができない人々がいました。後から来た指導者たち、パウロに敵意を抱く人々は、パウロが肉に従って歩んでいると思っているのでした。「肉に従って歩む」とは、普通の意味では、不誠実な行為。たとえば汚職、賄賂、今はやりの忖度などでしょう。しかし、この場合は外見のことです。うわべのきらびやかさ、見せびらかしは、自分をよく見せようとする人のすることです。そういう外見しか見ない人は逆に、パウロの目に見えて優れたところのない肉の姿を見て、「あいつは外見通りのみすぼらしい、つまらない人間だ」と見下しているのです。パウロは、この世の人々が称賛するような賜物は何も授かっていなかったようで、群れの中のごく平凡な一人に過ぎないかのように侮られていたというわけです。

しかし穏やかに教えても通用しない人々に対しては、離れている時しかできないだろうと鼻で笑っている強硬な態度を、離れている時ではなく、近くにいる時に取りますよ、というのです。それは最後の手段であって、そうならないように願っているのです。パウロは「肉において歩んでいる」といいます。この肉とは「肉体を持って生きている」ということです。また「世の人々と交わりを持っている」ということです。従って、自分の肉の弱さ、交わりの中での試練をも絶えず経験します。しかし、それがあればこそ、伝道をすることができ、また伝道しなさいと言われているのです。

しかし「肉に従って戦うのではない」とパウロは断言しています。肉に従って戦うとは、人間的な手段を頼りにして戦うことであります。人間的な手段、すなわち、頭がよい、姿がよい、声がよい、地位がある、名誉がある、お金がある、いくらでも挙げられますが、実はこれらも一つとして上からの賜物として人に与えられなかったものはありません。それなのに、少しも天を仰いで感謝することがない。神に栄光を帰すことがない。その中に召し上げられるでしょうが、人は日々、感謝するチャンスを逃しているようなものです。

パウロは戦いと言います。クリスチャンになることは、主の戦いに参加することに他ならないからです。わたしたちはもう戦争はいやだ、平和が良いと思っておりますが、実はキリスト者の生涯とは、絶えざる戦いであります。なぜなら、神に仕える身となるならば、サタンとの間に休戦条約を締結することは決してあり得ないからです。もし、神の僕としての戦いを止めれば、楽になる、平和になると考えるでしょうか。逆に平和になるどころか、サタンから絶えざる攻撃を受けるので、わたしたちには絶えず不安と苦悩が付きまとうことになるでしょう。

では、わたしたちの戦いの武器は何でしょうか。それは神に由来する力、聖霊の力であります。従って戦いは霊的な戦いです。パウロは福音の宣教を戦いに例えています。その力は要塞をも破壊することができるのです。このことから、イエス・キリストの真実な僕の特徴が語られていることが分かります。すなわち、主に従う人々はどんなに肉の弱さに包まれているとしても、その弱さによって主の戦いに加わることができないということはありません。なぜなら神の霊的な力は、弱いわたしたちの中に燦然と光輝くからです。Ⅱコリ4:7を思い出しましょう。329上「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」

この戦いに先頭に立って主の旗を掲げる者は、御言葉に仕える者、すなわち牧師職にある者です。とにかく牧者は主の旗を掲げて他の者に先駆けて進む者とならなければならない、と宗教改革者は申しました。サタンが最大の苦痛を与え、最も激しく責め立て、最もしばしば仕掛けてくるのは、これらの仕え人、牧師に対してであると。私もそう思います。成宗教会の77年の歴史の中に大変な試練の時がありました。成宗教会だけではありません。多くの教会が経験したこと。また、今まさに経験していることです。その試練は、貧しさや病苦や災害もありましたでしょう。

しかし、それよりももっと辛いことがあったに違いありません。それは端的に言えば、十戒で与えられている戒めに反することが、世の中に満ちあふれている悪が教会の中にも入り込んで来る。牧師を苦しめ、役員、長老を疲弊させるような罪。それはコリント教会で起こったことであり、全世界の教会でも、起こらなかったと自慢できる教会は恐らくほとんどなかったことでしょう。心を一つにして祈れるなら幸いですが、それもできないような苦しみを経験したのです。

しかし、それにも拘わらず、やはり聖霊の御力は教会の弱さの中に奇跡のごとく現れました。主は成宗教会をも愛してくださいました。主は教会に祈りを残してくださいました。わたしたちは何を祈るでしょうか。すべてを善きことに変えてくださるキリストの執り成しを信じるからこそ、わたしたちは洗礼をいただいたのです。永遠の命をいただくためにキリストと結ばれたのです。それがなければ生きるにも道がなく、それがなければ、死を迎えることは、ただの恐怖にしかすぎません。わたしたちは主に結ばれているからこそ、祈ることができます。祈りがキリストによって聞き上げられることを信じて祈るのです。

あれを、これをと求めることは多くありますが、わたしたちは何を求めるべきか、本当に良いことは、必要なことは何か、さえ分からないものであります。それは社会の混迷、政治の混迷、世界の混迷を見ても分かります。絶対にこれが正しい、というものはわたしたちには見通せないのです。ただ、わたしたちは信仰によって祈ることができます。主は求める者に聖霊をくださると仰いました。わたしたちはこの力によって理屈を打ち破る、とパウロは主張しました。理屈とは神に逆らう人間の知恵です。

人間の知恵、賢さが否定されているのではありません。神の霊に逆らう高慢が打ち破られるために、わたしたちは心を低くするよう命じられているのです。高ぶる者を罰する用意が出来ているとパウロが言うその時とは、いつでしょう。それはあなたがたがキリストに従う者となった時であります。不従順を罰する、その「罰する」とは、「人の正しさを証明してやる」ということでもあるのです。裁きと救い。この両方が主イエス・キリストの教会に委ねられています。わたしたちが絶えず主に従う者となるように、執り成してくださるキリストの優しさと寛大さを思い起こしましょう。

 

父・御子・聖霊なる三位一体の神様

尊き御名をほめたたえます。真にあなたの恵みを忘れる恩知らずと、高慢の罪に絶えずさらされている者をお見捨てになることなく、寛大と忍耐の限りを尽くしてわたしたちを招いて下さる御愛に感謝いたします。

日本の社会の困難をわたしたちは語りますが、世界を思う時、はるかに大きな試練と困難の中を生きている多くの人々が思われます。どんなところにも福音を宣べ伝えて下さり、あなたに従う人々を起こして教会の民としてくださることを感謝します。わたしたちは少子高齢化社会に生きていることを平和と繁栄の結果であると感謝すべきではないでしょうか。主よ、長寿をいただいているわたしたちの多くが多くの感謝を捧げる礼拝を守ることができますよう。礼拝の民として天にも地にも祝福されていることを証しして、教会に希望を与え、社会に希望を与えてください。

主に従うことこそ幸いであることを、身をもって証しすることができますように。教会に若い世代は多くありませんが、どうか、わたしたちが家族、友人、社会のために救いを祈る者でありますように。主よ、わたしたちは多くの恵み、賜物を豊かにいただいておりますが、高慢になって主を忘れ、感謝を忘れ、多くの信仰の先輩の祈りを無駄にすることがありませんように。成宗教会が建てられ、地域の東日本の教会が建てられ、日本基督教団が主の御旨にかなった教会形成ができるようにお助け下さい。

今週の教会の働き、信徒の方々の働きと生活を、恵みを以て御支配ください。ご病気のために、ご高齢のために不調に悩んでおられる方、お仕事で礼拝を守ることができない方々を、その所に在って顧みてください。小さい子どもたち、教会学校の生徒たちの上に主の恵みの導きがございますように。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。