キリストのもの

聖書:ゼカリヤ書7章6-12節, コリントの信徒への手紙二 10章7-11節

中学生のプロ棋士の活躍で、将棋の世界に大きな関心が集まり、特に将棋教室に入門する子供たちが急増していると聞きました。将棋という勝負事は、知らない人には見た目で判断できないものです。見た目では分からない勝負に大勢の人々の関心が集まるということは、今の時代には珍しいことではないでしょうか。目先のことばかりに関心が集まり、先のことなど考えないというのが、現代人だと思っておりました。パッと見ばかり気にしている時代。デパートの一階は化粧品コーナーで占拠されたかと思うほどで、また男まで化粧する時代です。そこに突然、人間がその内側で考えていることの違いに関心が集まるということが起こると、それは喜ばしいことかもしれないと思いました。それは、うわべのことだけ見ていては分からない世界がある、ということなのですから。

今日の7節。「あなたがたは、うわべのことだけ見ています。」これを聞く限り、見た目ばかり気に掛けるのは、現代人の特徴ではないことが分かります。将棋に限らず、勝負事は見た目の良さでは勝てないと思われますが、そうは思っても見た目に惑わされるということは日常茶飯事に起こります。「コリント教会の人々は、やはり教会の指導者たちを表面的に見ているのではないか?」とパウロは言うのです。表面的に見るその見方についても人さまざまです。人は時には、ある人に好意的な感情を持ち、あるいは反発を感じますが、そのことは教会の指導者たちに対しても同様でありましょう。

「○○先生がよい」とか、「いや、わたしは××先生の方がよい」とかいうことが、コリント教会の信徒たちの間でも公然と語られていたことは、コリントの第一の手紙の冒頭に指摘されていました。「自分たちの教会が祈って待っていたら、主がこういう先生を送ってくださった」という信仰はどこかに行ってしまったのでしょうか。私は信徒として30年、教会生活を方々の地方で送りましたが、籍を置いて居たのは、ほとんどが大きな教会でした。ある教会では、牧師の批判が公然とされていました。

それもまるで、他人事のように牧師を批判し、あれこれと見比べている。パウロもそういう酷評を受けていたようです。一方、無責任な批判をする人々がいるかと思えば、他方では偉大な伝道者であるパウロを貶めることによって、自分たちの名を高くしようとする人々の画策もありました。しかし、パウロが批判するのは、その人々を裁くためではありません。ただ教会の利益となるために、このように手紙を書いて教えるのです。だからこそこの手紙は、全く批判が当てはまる人もいれば、当てはまらない人もいるコリント教会の前会衆に読まれたばかりでなく、教会から教会へ回覧され、書き写されて、やがて聖書正典の中に編集されたのでした。どの教会でも学ぶべき、神によって与えられた言葉となりました。

さて、パウロが言う「自分がキリストのものと信じきっている人」とは、だれのことでしょうか。それは、「自分がキリストに所属している」という意味です。いろいろな訳を見ていると「自分がキリストを持っている」という訳もありました。「自分が持つ、だな度とは、キリストに失礼ではないか」と思うかもしれませんが、「所属する」「~のものである」という意味は、「相互に、お互いにそうである」という関係です。たとえば結婚の関係でいえば、夫は妻に所属し、妻は夫に所属しています。そのように、わたしたちが「キリストに所属している」ということは、わたしたちが「キリストを持っている」ということでもあります。

洗礼を受けて教会の中に入るということは、キリストの体の肢(メンバー)となることでありますが、同時に、キリストがお約束くださったように、わたしたちの中にキリストが御父と共に入って来て住んでくださるということ(ヨハネ14章23節)。この両方を意味します。さて、そこで今日の7節で、「自分はキリストのものと確信している人」ですが、それは一体誰のことなのでしょうか。もちろん、わたしたちはこの確信をもって生きたいし、生きるべきです。しかし、同時に私たちは時にはキリストのものであるという確信が持てなくて悩むこともあるような弱い者でもあります。

わたしたちがキリストのものであると確信する理由は、ただ一つ、それはわたしたちが父、御子、御霊の名によって洗礼を受けたからにほかなりません。ですから、確信が持てない時にも、信仰の弱さに悩む時にも、ただこの地上の歴史の中で時と所を定めて一人一人に対して執行された洗礼を思い起こさなければなりません。

しかしながら、パウロがここで問題にしているのは、信仰の弱さを嘆いている人々のことではありません。そうではなくて、自分がキリストに所属する者だと確信している一方で、他の人々を見下げている者たちなのです。つまり具体的には、「自分たちこそ教会の指導者にふさわしい者である」と自分を持ち上げる一方で、パウロたちをそうではないかのようにこき下ろしている。それこそが問題なのです。こういう人々は自分がキリストのものだと主張していますが、自分が気に入らない人々については、キリストのものではないかのように決めつけ、こき下ろして、排除しようとするからです。

ちょうど、「自分は天に国籍を持つ者だが、あの人は、この人は天にはふさわしくない」と自分で勝手に判断するようなものです。まして福音伝道者と称する人々に、このようなことがあって良いのでしょうか。だからパウロは「キリストに属するもの」とはどのようなことか、具体的に教えるのです。キリストのものである人は、キリストに従う者です。キリストに従って、一方では福音を教える者であり、また一方では福音を聞く者であります。福音を聞いてキリストに従う者になるのです。

パウロはキリストに属する者としての自分を高く掲げます。それは、何も自分をよく見せよう、大きく見せよう、立派に見せようとしたいからではないのです。コリント教会には、また他の教会でも今に至るまでそうですが、「自分こそ偉い、権威ある者だ」としたいあまり、パウロをけなす、つまり本当に福音に命を賭けて主に従っている伝道者をけなして「あの人はまるでダメだ」という人々がいる。そンなことを言わせておいてよいのでしょうか。キリストがそれを放置しておきなさいと仰るでしょうか。

仰らないと思います。仰らないとパウロは確信しているのです。なぜなら、パウロにはコリント教会に対して、また他のすべての教会に対して与えられている務めがあるからです。彼は命がけでコリントに伝道しに行きました。そしてその後も教会にこうして心を尽くし、力を尽くして手紙を書いています。パウロの務め、その目的とは何でしょうか。それは「あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるため」なのです。そのためにこそ、彼は自分に与えられている権威、権能を高く掲げているのです。それは何しろ、あなたがたを建てるために与えられている権威です。主から与えられている権威だからこそ、誇るべきもの、誇らずにはいられないものなのです。

「あなたがたを造り上げる」ための権威、とパウロは申します。主イエスによって与えられたその権威の目指すところは、コリントの人々の救いのために他なりません。それはすなわち信者の徳を高めることでもあります。「造り上げる」と訳されている言葉は、「家を建てる」という動詞です。こうして建てられるのは主イエス・キリストの教会です。造り上げるために、教会の基を据えて、建設しようとするのです。コリントの人々にとってこれほど良いこと、利益となることが他にあるでしょうか。

福音によって建てられる救いの教会。それこそ、喜んで建てられるべきものではないでしょうか。皆に呼びかけて、一緒に教会を建てるべきではないでしょうか。その教会はあの人のもの、この人のものではない。主がお建てになる教会です。主の福音によって教えによって建てられる教会。わたしたちを愛してくださる主の忍耐によって建てられる教会です。さあ、コリントの人々は次のどちらを信じたのでしょうか。パウロを、福音を宣べ伝える権威ある使徒と信じるのでしょうか。それともパウロをけなし、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』とこき下ろす人々を信じるのでしょうか。本物の使徒を選ぶか、偽者の使徒を選ぶかは、教会の人々の判断です。どんなにパウロが真心を込めて教えます。論じます。教会の人々は、それを受け止める信仰が問われるのです。それがなければ、教会は建てられないのです。

これはいつの時代でも、わたしたちでも同じです。福音を語る者は力を尽くして、主の御心がどこにあるかを尋ね求め、それを伝えるのであります。しかし、福音を聞く者はいつまでもいつまでも聞く者のままでいるだけでしょうか。聞くだけに終わる者でしょうか。そうではないのです。聞いて行う人になりなさい、と言われています(ヤコブの手紙1章22節以下)。私は家の中で一番年下で育ちました。いつでも主役ではなく、その他大勢の立場が好きでした。それは大人になってからも変わりませんでした。全責任を持たされるより、仲間と共にワイワイと、上に立つ人には協力するけれども、先頭切って何かしたいとは思わなかった・・・と昔を振り返ります。

皆様の中には、若い時からの教師を大事にしていつまでも楽しい学びを続けていらっしゃる方がいらっしゃることでしょう。いつまでも教え、教えられる立場は変わらない。それは本当に良い交わりではありますけど、教師が高齢になって教えることができなくなった時は、その会は残念ながら閉じることになるでしょう。しかし、教会はそうではないのです。生きておられる神の教会ですから。教会では、教えられていた者が、やがて教える者になって行く。教会の子供だった人の中から、やがて教師になる人が育てられ、建てられる。成宗教会で、一番そういうことが具体的に起こっているのは、おそらく教会学校でしょう。初め礼拝に来て説教を聞くだけだった信者が、やがて教会学校の教師になった。立場が少しずつ変わるということが期待されます。恵みを沢山受けている者はやがて果物の木のように花開いて、実を成らせ、やがて人に分け与えるようになる。それはいろいろな分野で言えることでしょうが、教会においては、何よりも御言葉が教えられ、伝えられ、教会の人々の徳が建てられることが目指されるべきであります。

それは自己実現を目指す世界とは全く違うものです。一見して華やかで、見栄えがよく、いかにもこの人について行けば何もかもうまく行きそうな気がする指導者たちが、最終的にはパウロと敵対する勢力となってしまう危険はいつでもあります。それは主イエス・キリストの教会を破壊に至らせる危険に他なりません。自己中心によっては、教会は建てられない。甘い言葉、巧みに人を操ることによってあなたがたを打ち倒す指導者たちか、どうか、それを見極める。見抜くのはだれでしょうか。長老たちであり、普通の一般の信者たちにかかっているのではないでしょうか。しかし、長老もまた、教会の会衆の中から選挙によって選ばれるのですから、やはり、教会が造り上げられるか、打ち倒されるかは、わたしたち一人一人の祈りにかかっているのです。

御言葉に仕える者は皆、御言葉による権威を与えられていることを思います。逆に主の権威をいただかないで、人間の考えで福音を宣べ伝えるということは危険なこと、あり得ないことではないでしょうか。キリストのものであるわたしたちは、キリストに従う者です。聞く者が語る者とされ、語る者が聞く者とされ、御言葉の権威によって教会が建てられますように。等しく御言葉に仕える者として、神を仰ぎましょう。最後にルカ10:16を読みます。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」125下。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

聖なる御名をほめたたえます。今日の礼拝、わたしたちを集め、忙しい人々、ご高齢の方方、たくさんの事情があって来られない人々のことを思いながら、あなたの御前に感謝と賛美を備えることができました。

わたしたちは真に弱く、信仰を確信することができず、絶えずあなたの差し出される恵みに背いているものです。しかし、あなたは限りない忍耐をもってこのようなわたしたちを、今日もこうして礼拝を守らせてくださり、御言葉を聴かせてくださいました。ありがとうございます。どうか、御言葉によってわたしたちが新たに造り変えられますように。罪赦され、キリストの命を約束された者として、主の与え給う御業に励む者となりますように。困難な時代を生きているわたしたちが、常に主を見上げて御心を尋ね求める者となりますように。

6月最後の礼拝となりました。どうか、飛ぶように過ぎ去って行く年月を心に留め、救いに招かれているわたしたちが、今日の日、また今週を主に従って生き、祈りを熱心に続ける者としてください。今日はナオミ会の例会後にガレージでの奉仕が予定されています。良い奉仕の機会となりますように。また、教会の様々な活動に参加する人々をも増し加えてください。今、病床にある方、またご家族の養育、病気、介護に携わる方、仕事、旅行など、様々な困難に直面しておられる方、どうかあなたを見上げ、祈り、助けが与えられますように。東日本連合長老会の交わりを豊かに祝福してください。また教区、教団の教会が直面している多くの問題を、どうか御手によってお導きください。

この多くの感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。