救いの完成をめざして

聖書:エレミヤ書1章7-10節, コリントの信徒への手紙二 13章6-13節

 コリントの信徒への手紙を本日で、読み終わろうとしています。この手紙の最初から最後まで、厳しい叱責が並べられていました。聞く私たちにとっては、第一に信徒、教会員にとって耳の痛い言葉であり、事がらでありました。一体、教会の一部の人々に過ぎないとは言うけれども、ある特定の牧師だけを持ち上げたり、反対に特定の牧師をこき下ろしたりすることがあるのだろうか。また、人々の顰蹙(ひんしゅく)を買うような不道徳なことを平気でする人が教会の中に居るのだろうか。しかし、これは遠い昔の、わたしたちとかかわりのない教会の話ではないのです。

主イエスが宣べ伝えて下さった福音によって救われた人びと。主イエスが御自分の血をもって贖い取ってくださった人々。この人々を御自分の体として御自分に結び付けてくださったのに、この手紙で述べられているようなことが実際に起こっていた。主の体の教会はどうなっているのか。主の体の教会といわれているだけで、実際は主と切り離されてしまっているのではないか。切り離されてしまっていては、主の体とはとても言えない。その人々が救われているとはとても言えないのです。

だからこそ、パウロのこれらの厳しい叱責が続いているのです。教会を建てるために。パウロは何のために労苦して来たのか。すべては主の体に結ぶため、主の救いに結ばれるためです。彼は心を低くして伝道しました。人と比較されることも気にしませんでした。風采が上がらない、話はつまらない、中身もそのとおりの人物だろう。そんなこと言われても、いちいち気にかけていたら、伝道などできるはずがない。パウロはただただ主イエスに従うつもりで、命がけの伝道をしてきました。何の後悔もなかったでしょう。

しかし、彼自身の栄誉、栄光を全く考えない姿勢は、教会の役に立ったでしょうか。彼が侮られ、軽視された結果は、彼自身がまるで見捨てられた者のように見なされたのです。そして彼を侮り、軽視する人々が担ぎ上げた者たちが、教会の中で栄誉、栄光を獲得したのではなかったでしょうか。一体そのような者たちが支配的である教会は、教会といえるのでしょうか。前回読みました所で、パウロは教会の人々に問うのです。5節。「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。」

自分の中に、自分たちの中に、つまり教会の中にキリストがおられる。そのことが分かるならば、わたしたちは救われた者なのです。そうでなければ救われない、失格者だということになります。そして自分たちの内にキリストがおられると知る時には、パウロの教えがキリストを指し示していることも分かるでしょう。たとえみすぼらしく見えても、つまらなく聞こえても、使徒の教えに救いがあると分かってほしい、と彼は切に願います。

パウロがこのように説得しているのは自分が失格者のように見られたくないためではない。そうではなくて、あなたがたが悪を行わないで善を行うために、説得しているのです。当然ではないでしょうか。キリストの体である教会が、自堕落で、自己中心的な人々に占拠されているとは、聞くのも恥ずかしい振る舞いで平然としているとは・・・。パウロはローマの信徒への手紙でこう述べています。ローマ5:10「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」279下。わたしたちの救いのために命を捨ててくださるほど、わたしたちを愛してくださった主の御名前をもってクリスチャンと呼ばれている教会の中に、善ではなく悪が行われているとしたら、そして、教会の人々がそれに気が付かないでいるとしたら、あるいは見て見ぬふりで放置しているとしたら、一体わたしたちは主に対して、天の父に対して、どのような顔向けができるというのでしょうか。実に恐ろしいことではないでしょうか。

パウロは重ねて申します。わたしたちがどう見えるか、どう思われるかは問題ではない。あなたがたが善を行う、わたしたちはそれだけを求めています。なぜなら「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできる」からです。だからこそ、パウロは、神が自分に与えてくださった力以外のものは求めないし、望まないのです。それは、ただただ真理に仕えるためであります。真理とはイエス・キリストによって証しされた救いであります。またヨハネ福音書で、主イエスは、「わたしは道である。真理である。命である」と仰いました。

それに対して偽者の使徒の態度はどういうことが考えられるでしょうか。偽者は主イエスにお仕えしているように見せかけながら、ひとたび権威や力を手に入れると、その力を他の人々や、教会のために用いるような心がけは全く持っていないのであります。だから彼らはただひたすら、自分の利益のために権力を用いて、欲望を拡大することになるでしょう。これまで、コリントの信徒への手紙は教会の信徒に対して厳しく信仰を問うていると言わざるを得ないのですが、この手紙は同様に、教会の牧者、説教者、指導者たちにとっても厳しく問うているのです。もし、あなたが真理のために、イエス・キリストの福音のために戦い、労苦する者であるならば、たとえ教会で、人間的な考えから蔑まれ、見捨てられた者のように見なされることがあっても、それによって神の栄光や、教会の建徳、聖なる教えの権威が損なわない限り、心配したり、失望したりする必要はないのです。

これは教会の牧師の持つべき力の限界を示していると思います。牧師は真理に仕える者でなければならないのですから、自分の栄誉のためではなく、イエス・キリストの栄誉のために戦うものでなければなりません。ところが実際には、自分の名誉が傷つけられることに憤然となる一方、キリストの名誉、お名前が貶められても、平然としている、という牧師、長老をはじめとする教会の指導者に唖然とさせられることがあるのではないでしょうか。私たち自身も、真理に逆らって自分の思いや、自分たちの願望を正しいと思いこんだ結果、教会を建てることが困難になることが多いのではないか、と反省する必要があります。

パウロは祈っています。9節。「わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています」と。パウロは教会の人々を愛しています。そして自分が伝道者として真理に従うことだけを目指しているのですから、自分は弱くても、たとえ見捨てられても、教会の人々が神の力に満たされて強くなれば、それを喜ぶというのです。教会の人々が強くなること、それは完全という言葉で表現されています。完全とは、キリストの体としての完全です。体は部分から成り立っています。ある人は目に例えられ、ある人は手に、足に例えられるような部分が、全体としてキリストの体を構成しています。

完全というと、わたしたちは何をイメージするでしょうか。完全な勝利とか、100点満点とかのイメージでしょうか。教会はキリストの体を望み見ております。教会の完全さというのは、それを構成するすべての肢体の適切な調和と健全さのことに他なりません。体の中に一つでも病んでいる部分があれは、体全体として苦しみを、痛みを感じます。それでは、主の体の教会は完全からはほど遠いことになるでしょう。

体の一部の不調、病を放置しないで、欠けた部分を補い、全体としての完全さを守らなければならないと、パウロは考えました。このような心遣いがあったからこそ、パウロは実際にコリントへ行った時に、きつい激しい手段を取らないで済むように、予め予防策を取っています。10節。「遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。」教会を壊すためではなく造り上げるために。すべての労苦、すべての権威が用いられる。エレミヤが預言者の召命を受けた場面を本日は読んでいただきました。「主はわたしに言われた。『見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。』」

救いが完成されるためには、傲慢が壊されなければなりません。自己中心が滅ぼされなければなりません。神に背くすべての罪が滅ぼされなければなりません。救いの共同体にもはや個人個人の独り勝ちはありえません。キリストのみが、わたしたちの罪と死に打ち勝った唯一の勝利者でありますから。11節、手紙の終わりに近く、彼はこれまでの厳しい態度をやわらげて、さようならの挨拶をしています。「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい(全き者となりなさい…口語訳)。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」と。

パウロはずっとコリントの人々に厳しくとがめて来たので、最後まで彼らの心が辱められて苦しんだままにして手紙を終わりたくなかった様です。彼は彼らを慰めたいと思いました。パウロの愛を感じてこそ、コリントの人々は彼の叱責を心静かに受け止めることができたのではないでしょうか。そしてパウロは、本当は一部の人々の悪行なのですが、厳しい咎めを教会全体に教えました。それは、教会がキリストの体に連なる者として完全なものとなるためであったのです。

そして励まし合うこと。心を一つにすること。平和を保つこと。すなわち、互いに温かい心をもって心の結びつきを強めるように勧めています。これらのことを守るならば、神はわたしたちと共にいらしてくださるに違いありません。神はわたしたちに平和と慈愛を勧め給う方です。神御自身が、これらを愛し、これらを造り出し給うたからであります。だとすれば、反対に言い争いをしている者は皆、神から遠ざかったものであり、神との間に親しい交わりを持たないということになるのではないでしょうか。さらに言うならば、不和と争いがあるところには、確かに悪魔が君臨しているとも言えます。そう考えると、わたしたちは本当に日々、悔い改めて、主にしっかりと結ばれていることこそを求めるべきではないいでしょうか。パウロは祈りをもってこの手紙を結びます。

13節は、礼拝の最後の祝祷として用いられている言葉です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」この祈りの三つの部分に私たちの救いの枠組みのすべてがあるのです。最初にキリストの恵みを祈り求めます。キリストの恵みとは、罪の贖いのすべての恩恵を意味するのです。

そして神の愛が、教会に祈られています。キリストの恵みの因は、実は神の慈愛にあるのです。ヨハネ3:16にはこのように語られています。「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。」このように、神はキリストの恵みによって、わたしたちを御自身の子としてくださったのであり、御自身の愛をわたしたちに及ぼしてくださいました。

そして三番目に聖霊の交わりが付け加えられました。わたしたちがキリストとそのすべての富を所有することができるようになるのは、全く聖霊の導きに他なりません。しかし、聖霊の賜物はいろいろあり、神は各人に別々に関係なく、バラバラに御霊の賜物をお与えになるのではありません。教会全体の益となるように与えられるのです。キリストの体の各部分である私たちが、互いに交わりを保つことによって、主に在る一致を保つことができるでしょう。決して個々人がバラバラに救われるのではないことは、個人主義の時代を生きて来た私たちが、いつも心に留め、悔い改めなければならないことではないでしょうか。救いの完成を目指すのは、キリストの体の教会に結ばれている信仰者なのです。祈ります。

 

主なる父なる神さま、

本日の礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。私たちはコリントの信徒への手紙、二を通してあなたの御旨を伺って参りました。使徒の、教会を思う愛が、教会の不正と戦っていることを思い、主の教会を建てる戦いを考えさせられました。

主よ、わたしたちの教会にも聖霊を注いでください。御言葉によって正しく整えられ、悔い改めに招かれ、真に主の体にふさわしい者と造り変えられますように、切にお乗り升。

あなたの御心を尋ね求め、従い行く教会を、ここに、この地にも立ててください。連合長老会の中で、日本基督教団の中で、また全国全世界の教会と共に、しっかりと伝道に励む教会となりますように。昨日は「子どもと楽しむ音楽会」を主宰することができ、真に感謝です。あなたは多くの人々をお招きくださいました。あなたの恵み深さ、キリストの中に隠された計り知れない宝の恵みを世の人々にお知らせください。そのためにどうぞ教会を豊かにお用いください。教会に来ることが困難な信徒の方々も、その生活の場で職場で教会を思い、福音を証しする生活が与えられますよう、わたしたちは主に在って一つ。心から励まし合い、労わり合い、主の体に結ばれて、健やかさにおいて完全なものとしてください。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

エレミヤ書1章

7  しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。

8  彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と主は言われた。

9  主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。

10 見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」

コリントの信徒への手紙二13章

6  わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。

  • 口語訳・・・しかしわたしは、自分たち(=ヒューメイス)が見捨てられた者ではないことを、知っていてもらいたい。
  • I hope you will find out that we have not failed.
  • パウロはひとたびコリント教会が彼を見捨てることがないとの確信をもっていたけれども。
  • 願っている・・・この議論の激しさを和らげる。

7  わたしたちは、あなたがたがどんな悪をも行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。

  • 口語訳・・・わたしたちは、あなたがたがどんな悪をも行わないようにと、神に祈る。それは、自分たちが本当の者であることを見せるためではなく、たといわたしたちが見捨てられた者のようになっても、あなたがたに良い行いをしてもらいたいためである。
  • But we pray to God that you may not do anything wrong — not that we appear to have the test, but that you may do what is right, though we may seem to have failed.
  • ファノーメン・・・ファイノーの接続法。見える。輝く。
  • 彼は再び、自分は自分一個の誉れに固執している者ではなく、ただ彼らの益、救いの御を求めている者である、と確言する。
  • わたしは、自分自身のことにも、人々が当然受けて良い名声についても頓着していない。わたしが心配していることは、ただあなたがたが神を辱めるようなことはないか、という点である。
  • 彼らが彼の教えの身を全く失ってしまっているとしたら、とんでもないことである。
  • 見捨てられた者・・・人間的な見地から言っている。人間はだれにもまして誉れを受けるに値する人をもしばしば捨て去ってしまうことが多い。
  • 牧者たる者は、自分自身のことは全く顧みることなく、ただ自分の教会の徳を高めることのみに熱心になるべきである。
  • 自分の評判をよくすることに努める・・・全体の益にとって有用であると見える場合のみそうする。その必要がなければ自分の名声などには目もくれない覚悟が出来ていなければならない。

8  わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。

  • 逆らって・・・カタ=according to~, against, 真理に逆らって、 ヒュペール=for the sake of ~
  • カルヴァン訳「なぜなら、わたしたちは、真理に逆らっては、何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。
  • パウロ・・・私は、神が自分に与えてくださった力以外の者は求めないし、望まない。それは真理に仕えるためである。
  • 偽使徒・・・一旦力を持つとその有様は皆同じである。彼らはその力を良いことに用いようという心遣いはまるでない。
  • だから真理のために戦い、労する人は憂いに沈むことがないことを明示しようとしている。
  • たとえ人間の考えによって蔑まれ、見捨てられた者のように見なされることがあっても、それによって神の栄光や、教会の建徳、聖なる教えの権威を損なうことがない限り、憂える必要はない。
  • これは教会の牧師の持つべき力の限界を示している。牧師は真理に仕える者でなければならない。
  • 次の言葉(ルカ10:16「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」125下。)を口実にして、わがまま勝手、したい放題のことをする者は厳しい裁きを受けるだろう。すなわち、教会において支配権を持つほどの人(教会の牧師、長老)は、真理に仕える人でなければならない。
  • 私は、神が自分に与えてくださった力以外の者は求めないし、望まない。それは真理に仕えるためである。
  • 御自分がこの時間の世界に来られた目的・・・真理について証しする。
  • 真理に属する人は皆、わたしの声を聞く・・・心の耳で聞く、すなわち、キリストの声に従う=キリストを信じる。
  • 真理について証しする・・・明らかに御自分について証しをされるのである。
  • わたしは真理である(14:6)
  • ローマ8:28「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
  • その御計画はお召しになる方の計画であって、召された者の計画ではない。
  • すべてのものは真理に属する・・・真理である方が、すべてのものを造るのであるから、わたしたちがその方の中に造られた本性を考えるならば、真理に属さないものがだれかいるだろうか。
  • 真理に従うゆえに真理に属するのではなく、真理に属するゆえに真理に従うのである。(アウグスチヌス。)
  • 真理に属する・・・それは真理から贈られた賜物。わたしたちがキリストを信じるのは、キリストの賜物以外の何ものでもない。
  • 真理とは何か・・・ピラトはこの問を放ったけれども、答を聞くためではなかった。
  • アレーイア・・・真実。本当のこと。真理。/ 信実、誠実、まっすぐであること。ヨハネ福音書の真理とは、神の真実がキリストの中に啓示されていることを意味する。

9  わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。

  • カタルティゾー・・・strive for perfection,
  • カタルティシス・・・being made complete
  • カルヴァン訳「(だからgar…結果を表す)わたしたちは(もちろん)、自分は弱くても、あなたがたが強ければ、それを喜ぶ。そのこと、すなわち、あなたがたの完全を特に願っているくらいである。」
  • パウロは、「自分はかれらへの愛ゆえに、彼らの益のために、見捨てられた者のように見なされても厭わない」と言ったことの第二の理由。
  • 自分が弱くても・・・弱さ、脆さは軽んじられることを意味する。しかし、神の力と恵みに満たされれば、そのときは強くなる、と彼は言う。
  • 完全・・・すべての肢体の適切な調和とその健全さのことを言う。良い医者は個々の病気を癒すときにも、どこかの部分が損傷したりすることのないように注意する。この完全さを守り抜こうとする心遣いがあったからこそ、実際に行った時に、きつい激しい手段を取らないで済むように、予め予防策を取っているのだと。

10 遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。

  • カサイレシス・・・destruction
  • パウロは自分に与えられている権威を、教会の中にある不徳を罰するためではなく、彼らの徳を高めるために用いたいと願っている。罰よりも幸いのために権威を用いたい。なぜならこれこそが目標であったから。
  • Ⅱコリ10:8「あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇り過ぎたとしても、恥にはならないでしょう。」336下。福音からあなたがたに益がもたらされる。だから福音を尊ぶべきである。パウロの権威は福音の権威なのだ。
  • ローマ1:16「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」273下。
  • Ⅱコリ2:15-16「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」327下。

11 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい(全き者となりなさい)。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。

  • 最後に彼はこの手紙全体にとって来た厳格な態度を和らげる。
  • Finally, brothers and sisters, farewell. Put things in order, listen to my appeal, agree with one another, live in peace; and the God of love and peace will be with you.
  • 喜びなさい・・・挨拶。さようならであり、「こんにちわ」にも相当する。
  • 彼らの心が辱められて苦しんだままにしておきたくなかった。彼は彼らを慰めたいと思ったからである。
  • パウロの愛を感じてこそ、コリントの人々は彼の叱責を心静かに受け止めることができたのである。
  • 彼はコリントの一部の連中に向かって説きたかったが、教会全体に教える、教会が全きものとなるためである。
  • こころを一つにすること・・・思いの一致
  • 平和に過ごすこと・・・温かい心、心の結びつき
  • これらを保つならば、神がわたしたちと共にいますであろう。
  • 愛と平和の神・・・神はわたしたちに平和と慈愛を進め給う。これらを愛し、これらを造り出し給うたからである。言い争いをしている者は皆、神から遠ざかったものであり、神との間に親しい交わりを持たない者である。
  • 不和と争いがあるところには、確かに悪魔が君臨しているのだからである。
  • Ⅱコリ6:14「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんな関わりがありますか。光と闇とにどんなつながりがありますか。」332上。

12 聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。

  • アスパゾマイ・・・挨拶する。
  • フィレーマ・・・キス。カルヴァンはこの解説をⅠコリ16:20、ローマ16:16でしている。

13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

  • 彼は祈りを以て手紙を結ぶ。
  • この祈りの三つの部分に私たちの救いの枠組みのすべてがある。
  • キリストの恵み・・・贖いのすべての恩恵を意味する。
  • 実は神の慈愛こそ、この恵みの原因である。
  • なぜ、キリストが先になっているのか、という問い。
  • ローマ5:10「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」279下。
  • しかし、キリストによって和解を受ける以前は神と私たちとの間には敵対関係があったことを告げている。
  • ヨハネ3:16「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。」
  • 神はキリストの恵みによって、わたしたちを御自身の子としてくださったのであり、御自身の愛をわたしたちに及ぼしてくださった。

聖霊の交わりが付け加えられた・・・聖霊の導きによってのみ、わたしたちはキリストとそのすべての富を所有することができるようになるのだから。しかし、賜物はいろいろあり、神は各人に別々に関係なく、バラバラに御霊を与え給うのではない。教会全体の益となるように与えられる。キリストの体の各部分が互いに交わり合うことによって、善き一致を保つことができる。