聖書:創世記1章26-31節, 使徒言行録17章22-27節
この夏、名古屋の動物園のサルが話題になりました。その鳴き声がおやじの叫び声そっくりというので、檻の前は人だかりが出来ました。忍耐強く待って聞くことができた人々は皆、「ほんとだ、そっくり」などと楽しそうに笑っていました。学校では人間はサルから進化したと教えられることが多いので、ああ、こんなにもサルに親近感もっているのかなあ、とわたしは思いました。
しかし、動物に親しみをもつことから大変な非難と人種差別が起こることもあります。随分前ですが、オーストラリアの動物愛護団体が、クジラを獲る日本の調査捕鯨船を攻撃する事件が話題となっていました。その頃、オーストラリアを観光している若い日本人女性たちに現地のマスコミがインタビューして、「クジラを殺す日本人は残酷だから、日本人を殺しても構わないと思いませんか?」と尋ねる場面を、わたしはテレビで見たことがあります。
生き物の命を尊ぶ、大変親近感を抱く。しかしその一方で、生き物を食物としている人間を生き物以下に見做すという転倒した考えはどこから来るのでしょうか。わたしたちの社会ばかりでなく世界中に、真の神を畏れない、真の神を知らない人々がいるからではないでしょうか。進化論的にサルは人間の祖先であると教えられても、わたしたちが感じることはせいぜい、サルに親近感を持つくらいですが、一方で牛を殺して食べているのに、クジラを食べるとは残忍非道な人間だという人々に親しみを持つという訳には行きません。
わたしたちが地上で平和に生きて幸せになるために、最も大切なことは神がおられることを知ることです。神とはどなたかを知ることが必要です。なぜなら、神はすべてのものをお造りになったからです。すべてのものを創造された方、何もない所からすべてのものを創造され、存在させられた方であります。そしてお創りになったすべてのものを良しとされた。祝福されたということは非常に重要なことです。さらに神は最後に人間を創造されました。「御自分にかたどって人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と言われました。
人間は神のかたちに造られたのです。紀元前5~4世紀のギリシャ哲学者たちは人間のことをマイクロコスモス(小宇宙)と呼び始めたと言われます。人間は小宇宙。宗教改革者は述べています。「人間においては、神の栄光が輝いている。他のすべての被造物よりもいっそう輝いて、無数の奇跡に満たされている」と。神のかたちであることは、人間が動物と区別されたあるしるしを神から受けたことを意味します。もちろん、人間は他の動物と共通するものを多く持っていますが、ただ一つ、神との特別な関係のゆえに、動物よりはるかに優れているのです。その特別な関係とは何でしょうか。それは、人間は神と交わりを持つために造られているということです。そして人間は地上の生き物を治める権威を神から与えられているのです。
わたしたちに、このような信仰を与えられることは、大変な恵みであります。それは神の呼びかけを聞き、神に応える命を生きることだからです。そしてどのような時も、この命を造られた神が造り主としての責任を果たしてくださると信頼することだからです。このことは、サルは人間の先祖だなどと教えられるのとは決定的な違いを私たちにもたらします。なぜなら、わたしたちが求めているのは、サルとの関係ではないからです。またクジラとわたしたちとどっちが値打ちがあるかなどということではないからです。わたしたちが求めているのは、自分が日々、どうやって生きるか、ということです。
わたしがある教会の信者であった頃、児童養護施設に務めている教会員がいました。その人は何とかして施設に暮らす子供たちに教会学校の楽しさを体験してもらおうと、子供たちを連れて来ました。その子供たちを、教会学校の先生たちも生徒もその親たちも大変歓迎しました。家に連れて行って美味しいものをご馳走したり、贈り物をしたりしていたと思います。しかし、ある子はあまりうれしそうではありませんでした。なぜでしょう。そこには、自分にはいないお父さん、お母さんに囲まれている子共だち、いつも自分の家族を守っている教会の大人がいたからです。それを見て、彼女はいっそう寂しくなっていたのでした。自分にはない家族が一緒にいる。お父さん、お母さんがいる。どうして自分にはいないのだろう。この疑問にだれが答えられるでしょうか。
今、高齢化、少子化が深刻になっているというのに、このような辛い思いをしている子供たちがますます多くなっている社会の現実があります。今、私たちが生きるためには、私たちが人を活かすためには、「神とはどなたであるか」を知らなければなりません。なぜなら、わたしたちの命は神から与えられたものだからです。すべてのものをお創りになった神は、あなたをも、わたしをもお造りになって、良しとされた、祝福された、そうして世に私たちは送り出されたのです。これは、厳しい現実を生きるために教会が持っている、そして真剣に社会に提供しなければならない大切なメッセージです。神が命を与えられたということを知り、このことを信じ、日毎に夜毎に思い起こし心に刻む者は、どのような時にも生きる道を、この命を与えられた方に見い出すでしょう。
今日、選ばれた新約聖書は使徒パウロが、アテネのアレパオパゴスの丘(今も観光名所になっていて、行かれた方もいらっしゃると思います)の多くのアテネ人や在留外国人を前に演説した時のものです。「パウロは、アレオバゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。』」どんなものでも神として礼拝していれば、信仰だ、と考える人々は多いかもしれません。しかし、真の神を求めている人々にとっては、そうはとても考えられません。パウロはアテネではありとあらゆるものが偶像となり、拝まれているのを見て憤慨していました。現代人はこういう憤慨を、狭量だと思う傾向にあります。何を信じようと信じまいと自分の自由だ、という訳です。それは、言ってみれば、何かを信じてその結果生きようが、死のうが自分の勝手だ、構わないでくれ!と言っているのと同じなのですが。
こういうのが、自由という言葉の難しさであります。「人は生きる権利がある」ということは信仰の有る無しに関係なく万人に受け入れられています。しかし、では「死ぬ権利がある」とか、「滅びる権利がある」「自由がある」とは言えるのでしょうか。とにかく死にかけた人がいたら、みんなでよってたかって助けようとする、それがわたしたちの考えによれば、救いはここにある、ということのしるしであります。ですから神様もわたしたちを世に遣わしておられるのです。それなのに、「真の神を知らないで、訳の分からないものを礼拝しているとは、何と惨めなことか」とパウロは憤慨したのです。しかも、彼は名前のない神の祭壇まで見つけました。
名前に分からない神を礼拝する、ということがどういうことかお分かりでしょうか。それは、たくさんの神々を拝む人々の気持ちです。彼らは、神がおられることは信じている。しかし、どういう神なのかはよく分からない。分からないけれども、ある程度以上の力はもっているとなると、宥めの供え物をして祟られないようにしよう、という気持ちになります。あっちの神にも、こっちに神にもお参りして拝んだけれども、それだけではまだ不安なのです。まだ、知らない神がおられるかもしれない。としたら、その神を拝まないと祟りが起こるかもしれないということになるのでしょう。そこから見えてくるのは、神々を拝んでいても不安は消えない。いつ、どこから思いがけない祟りが来るかしれない。それを避けるためにどの神を頼れば良いのか分からない、ということなのではないでしょうか。多神教の悩みは深いのです。
どこの国、どこの地方にも地元の神々という信仰はありました。しかし、人がもし地元を離れたら、その神の勢力圏を離れることになります。また国同士、地域同士に争いがあった時にはどこに救いを求めたらよいのでしょうか。そして実際には、人々は昔から国同士別々に生きていて、交わりもなく鎖国状態で暮らしていたのではありません。聖書の時代にも、実に多くの人々が地域を移動し、他国の人々が移り住み、自分たちも他国に出かけて行くという商業貿易、交易、交流がありました。まして戦争や、飢饉が起こった時は、土地を追われ、奴隷にされ、また移民政策により、人々が移動を余儀なくされていたのです。21世紀を生きる私たちは、世界的に動乱の時代に入って来ていると感じていますが、そのような現実はむしろ、今も昔も変わりないと考えるべきではないかと思います。
さて今日の聖書を見ますと、使徒パウロは、アテネ人は少なくとも神はいないと思ってはいないのだ、と理解していました。そこで、よく分からないままでも礼拝を捧げているアテネ人の気持ちを、信仰心として受け入れることから話を始めました。23節。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしは知らせましょう。」こう言って彼は、唯一の神、天地創造の神を宣べ伝えました。
「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」ここに、わたしたちを活かすただ一つの神信仰があります。それは第一に、わたしたちが拝む神はどんな方であるかをはっきりと理解することです。神は万物の造り主。そして人間を御自分にかたどって造られた。これが教会の信仰です。次に神はどのように拝まれ敬意が払われるべきか、ということです。
この方に礼拝を捧げるために、人々は神殿や礼拝堂を建て、そしてそれを神の家と呼びます。しかし、神がそこにだけ住んでおられると考えることは愚かなことであり、人間の造ったものに神を閉じ込めようとすることになります。それは恐ろしい罪ではないでしょうか。しかし、この時代の人々は、神殿で壮大な儀式を献げ、動物、収穫物、金品を捧げ礼拝しました。ギリシャの神々の神殿では、人々は競技会や踊りや、今でいうイヴェントのような華やかなものを捧げることで満足していたようです。
しかし、真に礼拝については、イエスキリストは次のように話されました。ヨハネ4:24「神は霊である。だから、だから、礼拝する者は、霊と真理とをもって礼拝しなければならない。」このお言葉を言い換えれば、霊と真心をもって礼拝するのでなければ、人の目に見える儀式がどんなに豪華でも盛大でも、神は礼拝としてお認めにならないということになるでしょう。
人間は地上の生活に浸り切って楽しみたいとばかり思うならば、自分の欲望に対応し、満足させてくれるような神をもちたい。その結果、本末転倒というべきことが起こります。すなわち、神がすべてをお創りになったことが無視され、偽りとされる一方、神がお創りになったものが神のように崇められ、追い求められるのです。その悲しむべき、痛ましい結果は、本来祝福であるはずのものが転落して、呪われたものになるという警告を、私たちは受けているのではないでしょうか。
神を正しく認める第一歩は、世界の造られたものの中にではなく上に、神を見ることであり、神と神のお創りになったものをはっきりと区別することに始まります。そして私たちの能力を過信して、自分の限られた力によって神を測るようなことをしないこと、また私たちの感覚によって神を心に描くことをしないことが肝心であります。
神は、わたしたちが礼拝のために集まり、神の民としてキリストの体として目に見える形をとることを喜ばれます。しかし神御自身、神殿に縛られているはずがない方であります。と同時に神を礼拝する私たちに対しても、目に見える特定の場所に縛り付けたり、特定の形に縛り付けたりなさることはお考えにならないのであります。むしろ重要なのは、御自分の民を救うために、御自分のところまで引き上げるために神が何をなさったかを知ることです。神はご自分の民を御自分のところまで引き上げるために、救うために、むしろわたしたちのところにお降りになられてくださった。わたしたちは御子イエス・キリストによって、神がこのようなお方であることを教えられたのです。
今日は、なぜ神さまを知ることが最も大切なのですか、という問いを学びました。その答は、私たちの命は神さまによって与えられたものだからということです。命の源を知ることによって、わたしたちの命がどのようなものであるか、わたしたちに思い及ばなかったほど、尊く大切なものであることを教えられました。祈ります。
御在天の主なる父なる神さま
あなたの尊い御名を賛美します。私たちは本日も主の日の礼拝に招かれ、恵みに満ちたあなたの御心を教えられました。私たちは右も左もわきまえず、たださまようばかりの者でありましたが、あなたはキリストの贖いの十字架によって教会を建て、信じる者を救いに結んでくださいました。今日まで教会が受け継いで来た信仰の告白を、御言葉を通して今も後の世にも、私たちに知らせてくださることを感謝します。
今年は宗教改革から500年という時を迎えて、全世界が教会建設の志を新たにしていると思います。どうか激動の時代に生きる世界の教会と共に、日本の諸教会も奮い立って福音を宣べ伝えるために、聖霊の主よ、教会の上に降ってください。東日本連合長老会を通して、私たちは主の交わりによって励まし合い、助け合って行く者となりますように。小さな群れ、力弱い者たちの上に主の慈しみ、主の御力が注がれることを信じます。今、苦しんでいる者を特に顧みてください。また遠くにいて礼拝を守れない方々を慰めてください。この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。