聖書:申命記7章6-8節, ヨハネの手紙一 4章7-12節
わたしたちの誰にとっても、未知の体験があります。それは年を取ることです。年を取るとどうなるか、それは自分が予想できないことです。懐かしいF兄が生前言われた言葉を思い出します。「若い時は目が覚めると疲れも取れて爽快だったのだが、この頃は目が覚めると体のあちこちが痛い」と。聞いた時には分からなかったのですが、こちらも年を取って、なるほど本当だ」と実感します。そういう意味でも、年を取ることは日々新しい発見だと思います。
成宗教会に務めて16年になりますが、私が初めて体験したのは老人ホームの訪問でした。自分の親が入居しない限り、だれでも老人ホームは身近なものではないでしょう。しかし、この十年、二十年の間に大きな変化を感じています。所得の高い人、低い人によって、入る所は違うにしても、多くの人々が「もう最後まで自宅に住みたい」と希望するのは難しいと考えているのではないかと思うのです。自立して独り暮らしということも年齢的に限界があるからです。
私は教会の方々、そして私の母も、でしたが、介護施設に入居したことで、施設を訪れる機会が非常に多くありました。老人ホームは、十数年前は、介護の様子にいろいろな問題を感じることもありましたが、最近はどこの施設でもかなりサービスが改善されたように見えます。わたしの伺うところは限られた範囲ではありますが、人手の非常に限られる中で、職員の皆さんが一生懸命入居者に対応して下さっていることが感じられます。震災がありました。大雨が降ったり、いろいろな災害が起こるたびに、私たちは、家族が施設に入居していたからこそ、危険から守られたのですし、わたしたちも安心して自分たちの務めや働きに専念できると実感し、改めてそのことを感謝しています。
しかし、長い間、そのような施設に住んでおられる教会員をお訪ねするうちに、気が付いたことがあります。それは至れりつくせりの老人ホームにも足りないものがあるということです。何が足りないか。入居している人々に神様についての話がないのです。やがて最期を迎える人々に、わたしたちが頼るべき方をお示しすることない。この命を与え、この命を養い守ってくださった方をお知らせすることがない。なぜ、わたしたちは造られたのか。なぜ、わたしたちは生かされているのか。それはわたしたちが神様に、わたしたちを造られた方に愛されているからではありませんか。弱り行く人々に(それはわたしたちのことでもあります)、健やかである時も、病気である時も、年老いた時も、変わらない神の愛を指し示すこと。これが老人ホームにはないのです。
もちろん、そのことを直接的に、間接的に指し示しているキリスト教の施設はあります。けれども数的には圧倒的に多数の老人ホームが、このことに対応できないのです。無理もないことだと思います。入居して来る人々の中には様々な宗教の人々がいる。けれども、熱心に信仰を持っている人々は非常に少ないように見えるのだから、どこかの宗教に偏ることはできないという訳です。そこで一番中立的な態度は宗教色をなるべく出さないように、ということになります。本当の神様を求めることはしないという態度を基本とするのです。
当然の結果は、神について、救いについて公に話をすることはタブーなのです。クリスマスになるとクリスマス会をしていただくことはうれしいのですが、それはイエス・キリストを曖昧にしたクリスマス会であります。秋ともなると、秋祭りのイベントがありましたが、何のお祭りなのかは分かりません。老人ホームに入居すると、すべての日常生活のお世話をしていただけるので、有り難いことだと思います。しかし、最期の時が近づいても、最期さえ曖昧にしながら、お別れを演出せざるを得ないのが実情であります。
神はどなたであるかを知らない。神は万物を創られた方であることを知らない、ということ。知らないままに生きて年取って行くということ。それは高齢の世代の人々にとって深刻なことであります。けれども実は深刻なのは高齢の世代ばかりでは決してないと思います。どの世代の人々にとっても非常に深刻な問題なのですが、高齢者とちがうのは取りあえず時間が迫っているようには感じないことです。「自分はどこから来て、どこに行くのか』とか、『自分の生きる目的は何か』とか真剣に考えることなく生きている。真剣に神を求める必要に気が付かないで生きている。あるいは気が付かないふりをして目の前にある生活に仕事に気晴らしに没頭している。そして深刻な問いを先送りにして済ませようとしているのが実情ではないでしょうか。
それで、突然降ってわいたような悲劇に社会が呆然となります。高齢者、障害者をまるで生きる価値がない者であるとして、この世界から強制排除しようとする狂気の考えが引き起こす恐ろしい犯罪、深刻な悲劇です。このような犯罪行為はごく一部の人々のものであるかもしれませんが、この悲劇、この希望の無さは社会全体のものです。神を知らない世界。神がどのようなお方かを知らない社会の悲劇なのです。だからこそ今、教会は福音を高く掲げなければならないと思います。何よりもまず、教会は福音を高く掲げることを怠ってきたことを悔い改めなければなりません。
教会は宣べ伝えます。すべてを創られた唯一の神。わたしたちにとって、価値あるものも、取るに足りないと見えるものも、美しいユリから虫に至るまで。わたしたちには益となるものも、わたしたちの敵と思われるものも。すべてを造られ、人間を神のかたちに造られたことを。次の言葉はコリントの信徒への手紙一、8章5節以下の聖句です。「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神に帰って行くのです。」(309上)唯一の神が造られた以上、すべてのものに本来、統一があり、ハーモニー、そして平和があるはずではありませんか。わたしたちは皆良いものとして存在させられた、それが教会の信仰です。
さて、それでは世界に唯一の神がおられることをわたしたちはどうしたら知ることができるのでしょうか。神は目に見えないお方です。それで昔の人々は、自然の美しさに感動した時、星や太陽や、あるいは山を拝むのではなく、それらを造られ方、美しい調和をもって配置された方がおられるに違いないと思ったことでしょう。そこから万物の造り主を思うことも出来たと思います。しかし、神は人の目に見ることもできない御自身のご性質を、イエス・キリストを通して知ることができるようにしてくださいました。聖書はそのことを証ししています。すなわち、神はわたしたち人間が「神はどなたであるか」を知ることができるために、キリストを人間の姿でわたしたちの世界にお遣わしになったのです。
今日はヨハネの手紙一4章によって、そのことを学びましょう。7節にこの書簡を送ったヨハネは次のように言います。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出る者で、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」ヨハネの手紙には、
ヨハネ福音書と同様に、「互いに愛し合う」愛の勧めが繰り返し語られます。この愛は、自分に親切にしてくれる人々に自分も恩返しをする(それはもちろん大事なことですが)とか、自分を愛してくれる人々を愛するということで済んでしまう愛ではありません。「互いに愛し合う」とヨハネが言う時、彼はすべてのキリスト教徒に対して共通に公平に語っているのです。なぜでしょうか。ここは大切なところです。
わたしたちが生きるために一番大切なことは、神を知ることでありますが、その真の神を知る知識をわたしたちが得るならば、それは必ずわたしたちの内に神への愛を生み出さずにはいられないからです。つまり、神がどのような方か分かれば分かるほど、ますます神を愛さずにはいられなくなるに違いないというのです。逆に言えば、「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」とヨハネは語ります。神は愛の源でありますから、この愛情は神の知識の達するところには、どこにでも、どこまでも広がって行くのです。
そして神はどなたであるかを本当に知る、この真の知識こそが、わたしたちを造り変えて新しい被造物とさせるのです。ヨハネ福音書には、ニコデモという人がイエス様に教えを受けた話が語られています。ヨハネ3:3-5「イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』ニコデモは言った。『年を取った者がどうして生まれることができましょう。もう一度母の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」167頁上。
わたしたちの多くは、特に何も成功しなかった人ではなく、名誉ある仕事をした人ともなるとそうでしょうが、自分の罪については分からないのです。わたしたちはこのように、神から離れ、しかも、神からすべてをいただいているという事実を認めない罪人でありますが、水と霊とによって新たに生まれる希望、神の国に招き入れられる希望についてイエス様は教えられました。この救いを実現するためにイエス・キリストは地上に遣わされたのです。9節「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」
わたしたちが生きるようになるために、神はその独り子を死にさらしてまでわたしたちを愛されたのです。ここに神の愛がはっきりと明らかにされました。その愛がどんなに大きいかは、神の御子の十字架の贖いによってわたしたちに示されたのです。10節。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ヨハネの言葉によって、わたしたちは罪人であって、神に敵対する者であったことが語られます。それなのに、御自分の敵となっている人間のために、神はわたしたちに御子を賜ったというのです。これほど不思議なことがあるでしょうか。これこそ、神のわたしたちに対する愛の証しなのです。ローマ5:6「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心なもののために死んでくださった。」279下
不信心な者の救いのために御子をも惜しまなかった神。その愛をわたしたちは測り知ることができません。しかし、それでは神に気に入られようとする者たちが、いろいろ巧みな言動によって神に愛されようと近づいても、神はそういう人間の企てに一切左右されないのです。ただ純粋に御自身のご好意によって人を愛し慈しんでくださったのです。キリストが来られたのは、わたしたちの罪を償ういけにえとなるために他なりません。わたしたちは皆罪によって救いの道を閉ざされている者でしたが、神が御子の死によって和解され(宥められ)恩恵によって、わたしたちを受け入れてくださった時、その時にわたしたちの内に、御子と結ばれた新しい生(新しい命)が始まりました。ですから、わたしたちは、神に愛されていると確信できるためには、必ずその前にキリストの許に赴かなければなりません。ただキリストの働きによって、わたしたちは罪赦され、正しい者とされるのですから。
だからこそ、わたしたちは礼拝に集められ、主イエス・キリストによってわたしたちを救いに招いてくださった神の愛をほめたたえるのです。そして聖餐に与って、わたしたちのために犠牲となってくださったことを思い起こし、救いを確信する者となりましょう。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」教会に受け継がれた信仰を告白し、洗礼を受けて教会の中に入る者は、キリストの体のうちに生きる者とされます。神は聖霊を送ってわたしたちの内に住まわせ、聖霊によってわたしたちの心を新たに造り直して、隣人を愛する者としてくださるでしょう。わたしたちはこの希望に生きるのです。祈ります。
教会の主イエス・キリストの父なる神さま
御子イエス・キリストを遣わされ、わたしたちの罪を赦して救いの道を開いてくださった、あなたの愛に感謝し、御名をほめたたえます。どうか、全国全世界の人々があなたの深い慈しみを知ることができますように。多くの困難に苦しみ、生きるに生きられないで苦しんでいる人々にこの良い知らせが届きますように。また人生の終わりに近づきながら、あなたの真に慈しみ深い御心を知ることがなく、自分をうやむやにし、人からもうやむやにされて生きるに生きられず、死ぬに死ねない思いでいる多くの高齢者の方々に、この良い知らせが届きますように。主よ、今苦しんでいる多くの高齢者、多くの子供たちが施設で暮らしています。そしてこれらの人々のお世話をする人々も、その苦しみを知りながら、どうすることもできず、苦しんでいると思います。
主よ、どうかわたしたちがわたしたちの救いだけで満足することがありませんように、あなたを知る知識が増し加わり、あなたの愛もわたしたちの心に増し加わりますように。どうぞ和解の使者として、救い主として世にいらしたキリストの恵みに応えて、わたしたちもまた、あなたの御心を宣べ伝える者となりますように。主よ、あなたが愛し、救おうと招いておられる方々の内、だれよりもまずわたしたちの身近な隣人に、親しい者たちに善き知らせを告げる者としてください。
10月に入りました。わたしたちに多くの行事計画をお与え下さり、真に感謝です。良い業は皆あなたの聖霊によっていただくものです。どうかわたしたちの内にある計画を良き業として造り上げてください。すべての人々が祈りをもって参加し、主の御名が崇められますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。