あなたこそキリストです

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌56番
讃美歌162番
讃美歌525番

《聖書箇所》

旧約聖書:マラキ書 3章23節 (旧約聖書1,501ページ)

3:23 見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。

新約聖書:マルコによる福音書 8章27-30節 (新約聖書77ページ)

8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。
8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」
8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

《説教》『あなたこそキリストです』

ご一緒に読んできたマルコによる福音書は、大きな分岐点にさしかかって来ました。主イエスは多くの人々に囲まれ教えられた「ガリラヤの春」と呼ばれる華やかな日々を終えられ、十字架が待つエルサレムへと向かう苦難の時期を迎えられることになります。

27節のフィリポ・カイサリア地方とは、パレスティナの最も北部であるヘルモン山の麓の辺りの湖面より520メートルの高台です。エルサレムから北北東に直線距離で200キロも離れていて、ガリラヤ湖から北に60キロ、の辺りを指します。ヘルモン山とは、パレスティナの北方のレバノンから32キロにわたって連なるアンティ・レバノン山脈の南端にある海抜2800メートルを越える最高峰を指します。このヘルモン山の雪解け水が地中に入り、豊かな泉となって湧き出てヨルダン川の水源の一つとなっています。この地方は水が豊富で洞窟が沢山あり、有史以来、人類が住み着き、ギリシア神話のパンの神が祀られたことから「パニアス」とも呼ばれました。ヘロデ時代には、ローマ皇帝カイザルを神とする神殿が建設され、町の名を「カイサリア」と変え、地中海岸のカイサリアと区別するために「フィリポ・カイサリア」としました。ガリラヤ地方におけるユダヤ人居住地の北限であり、主イエスが足を踏み入れたパレスティナの最北部でした。

主イエスの歩まれた道筋を辿ってみると、実に長い距離を歩き続けられていることが分かります。ガリラヤから西の地中海側を北へ150キロ、ユダヤ人の居住地を離れ、遠くレバノンのティルス・シドンに行き、次は、全く逆方向に150キロ南下し、ガリラヤ湖の東デカポリス地方、そして再びガリラヤ湖西の故郷ガリラヤに戻り、さらにガリラヤ湖の北方50キロにあった本日のフィリポ・カイサリアへと歩かれました。直線距離を繋いだだけでも400キロにもなる大変な旅と言えるでしょう。

このような主イエスの異常とも思える道筋の旅は、神の御子を受け入れようとしないユダヤ人たちの憎しみを避けるためであったと、聖書は何度か記して来ました。特に、ガリラヤ地方を東西南北と旅をしながら、故郷のナザレを避けておられることからも、如何に激しい憎しみが主イエスの上に注がれていたかが想像できます。

そして、ユダヤ人の「憎しみ」を主イエスと共に担い、追われる神の御子と旅を共にしたのが、弟子たちでした。主イエスの行くところ、何処までも従って行く弟子たちの姿に、キリスト者の生きる姿を見ることが出来るでしょう。マタイによる福音書(8:20)には、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」とあります。これが御子キリストのお姿です。そして、その「枕する所もない」旅を、敢えて「共にする」のが弟子たちであるキリスト者なのです。

主イエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているのか」と尋ねられました。

主イエスに従う者は、常に、このような問いかけを受け続けなければならないのです。そしてその問いかけは、何時も、「思いがけない時」になされ、私たちの心の眼を覚まさせるのです。

主イエスの問いの中心は、「人は、私のことを何者だと言っているか」ということです。これは重要なことです。ここには「主イエスが、どのようなことを教えられたのか?」、あるいは「主イエスが、どのような御業をなさったのか?」といったことが問題にされているのではありません。大切なことは、御言葉を語り、驚くべき御業をなさるナザレのイエスとは、「一体、何者か」ということです。これこそ、主イエスに従う者にとって、まさに本質的・根本的な問題です。ナザレのイエスとは「私にとって、一体、何であるのか」。私たちは、ナザレのイエスを「どのような方」として見ているのでしょうか。

当時の人々は自分自身の眼や耳で主イエスを知ることができました。現代の私たちは聖書を通して主イエスの姿を知らされていますが、問われていることは同じです。主に従う者は全て、「私たちにとって、主イエスとは何者か」と問いかけられているのです。

主イエスは、その語られた「御言葉」でも、行われた「御業」でもなく、「私を誰だと思うのか」と、主イエス・キリスト御自身が重要なことを問われているのです。私たちもまた、聖書を読む時、ただひたすらに主イエス・キリストの御姿のみを追い求めて行くべきです。28節で弟子たちでさえ主イエスを。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」と言っています。弟子たちは、口々に答えました。彼らは、問われたことに容易に答えることが出来ました。何故なら、主イエスは、「あなたたちは」ではなく、先ず「人々は」と尋ねられたからです。私たちもまた、人々の意見を取り次ぐ時には、ごく気軽に答えることが出来ます。世間の噂話や人々の評判を語ることは気楽です。「あのひとはこう言っている」「こんなことを言っている人がいる」「こんな話を聞いたことがある」など、自分の責任が問われない時、私たちは語り易くなります。弟子たちもまた、主イエスについての「人々の評判」「噂話」などを答えたのでした。

洗礼者ヨハネは、ローマの威光を背にしたヘロデ・アンティパスを大胆に批判し、殺害されました。ヘロデ王家の圧政に苦しんだ庶民は、政治的権力者に対抗する第二・第三のヨハネの出現を期待していたのでした。一方の、エリヤは、遥か昔、紀元前九世紀の預言者です。マラキ書には、終末の先触れとしてエリヤが再来すると預言されていました。この主イエスの時代では、希望を失ったユダヤ民衆は、神の裁きが行われる世の終わり「終末」を待ち望み、エリヤの出現を期待していました。罪を指摘する主イエスの厳しい言葉に、神の裁きの前触れ、再来のエリヤを見たのでしょう。また、漠然と言われている「預言者」とは、ここで「誰」とは特定できませんが、かつてイスラエルの危機の時代に、誤った道を行く人々に神の御言葉を語るべく選び出された人々のことでした。主イエスのこの時代、人々は、腐敗し、堕落した宗教的指導者たちへの絶望からナザレのイエスに新しい預言者としての希望を託したと言えるでしょう。

これらの言葉は、当時の人々の、主イエスについての代表的な見方でした。民衆は民衆なりに、苦しみの中から主イエスを見て、それぞれ自分たちの期待を主イエスにかけていたのです。しかしながら、主イエスが、それらの弟子たちの答えに対して何も答えずに、29節で、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と弟子たちに再び尋ねられます。主イエスに従う者に問われているのは、このことです。他の人々が何と言っているかが問題なのではなく、「あなたはどうなのか」ということを強く迫っているのです。

私たちもまた今、主イエス御自身からの問いかけを受けているのです。主イエスに従う者として、「あなたは」と問われ「私は」と応える信仰がここにあります。主イエスの弟子たる者は、従っていることの意味を、明確に答えなければなりません。もし、主イエスのこの問いに対して、応えることが出来なかったとすると、信仰のない「悲惨な姿」を晒してしまうことになります。主イエスに従うこととは、既に「他の人々の群れから分けられている」ということです。弟子たちは決して安易にすべてを捨てて主イエスに従ったのではありません。ユダヤ民衆の憎しみを既に背に受けて、主イエスと共に遠くフィリポ・カイサリアまで来ています。このような旅に未だ出発して間もない時であったなら、引き返すことも容易であったでしよう。しかし、弟子たちは生涯をかけて主イエスに従ってきました。ペトロが主イエスから問われたのは、まさにそのようなときでした。そしてペトロの答えは、「あなたは、メシアです。」でした。このペトロの言葉は強調文です。口語訳は「あなたこそキリストです」と訳し、英訳は大文字で記されています。ペトロが言った「メシア」とは、ギリシア語で「クリストス:油注がれた者」という意味であり、伝統的に、「神によって立てられた者」を指します。言うまでもなく「救い主」という意味です。ペトロは、「もはや後戻り出来ない」という追い詰められた場で、ナザレのイエスを「メシア」即ち「救い主」と告白したのです。この告白は、「ペトロの告白」として長く教会の中で語り伝えられ、初代教会の「信仰告白の原型」となったものですが、その内容は、決して完全なものではありませんでした。何故なら、この告白をした直後の31節以下に於いて、ペトロは、主イエスを正しく理解していなかったことが、あの有名な、「サタン、引き下がれ。」と激しく叱責されたことからも分かります。この時の、ペトロの告白は、彼の心の中でしっかりと固まっていた「確信」ではなく、むしろ「そう言わざるを得ないような」或いは「そう言う以外に言葉が見つからなかった」とも言えましょう。

信仰とは、このペトロの告白のようなものと言えます。私たちの信仰も、「深い思索の結果、自分自身の中に確立した明白な信仰認識」と言った確固たる信念に基づいたものではなく、キリストに囚われ、生涯の全てを費やし、生涯の全てを委ねることの日々の積み重ねと言った方が良いかもしれません。あらゆる困惑と迷いの中で、過ちと錯誤を繰り返し続けても、主イエスに従い続けたペトロのように、全てを投げ出して従い続けるのが信仰です。私たちも自分自身に確認しなければならないことは、「あなたこそ、救い主・キリストです」という告白を、「もはや他に行くところはない」という思いを込めてしているか、ということなのです。

主イエス・キリストは、完全な信仰を求めておられるのではありません。ペトロのように、必ず、幾つもの過ちを犯すであろう私たち人間の愚かさを承知の上で、告白に導いて下さっているのです。新約聖書199ページ、ヨハネによる福音書15章16節で主イエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言われました。主イエス・キリスト御自身による選びによって、私たちがこの告白に招かれていることを、ここに改めて確認いたしましょう。私たちが「あなたこそ救い主です」と告白すること自体、既に、主の恵みの中に生かされていることの証しなのです。

お一人でも多くの方々、とりわけ大切な愛する家族と共に主イエスに選ばれ「救われた者」として、手を取り合って「天の御国」を目指していきましょう。

お祈りを致しましょう。