2017年5月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

興津晴枝先生のお話

聖書:フイリピの信徒への手紙 4:2~7

「祈りましょう」

興津晴枝

 今朝の学びは「お祈りについて」です。

皆さんは今日も礼拝で、ピアノの前奏を聴きながら黙祷(目を閉じて心の中で)し、賛美歌を歌い、みんなで声を合わせて「主の祈り」を祈りましたね。聖書のみ言葉を学び献金感謝のお祈りもあります。後奏を聴きながら黙とうして教会学校の礼拝はおわります。教会ってたくさんお祈りするところなんだね?って初めて来た人は思うかもしれません。「お祈りするって」どういうことなのでしょうか?「神様とお話しすること」それがお祈りなのです。だから大人の礼拝はもちろんのこと、私たち子供の礼拝でもたくさんのお祈りをします。感謝の祈り、お願い事 他の人たちのための祈りなど。神様とお話しするのです。何をするのにもお祈りで始め、お祈りで終わります。教会ってそういうところです。みなさん一人一人はどんなお祈りをしているのかしら?神様ってお姿を見たことないし、お声を聴いたこともありません。それなのにどうやって私たちは神様とお話(お祈り)できるのでしょうか?どうして私たちのお祈りを聴いていて下さるってわかるのでしょう、不思議だと思いませんか。

じつは神様とお話し出来るのは「イエスさま」のおかげなのです。思い出して下さい。お祈りの最後の言葉を。私たちは必ず「イエスさまのお名前によって」と祈っています。これは祈るときとても大切な言葉なのです。私たちは先週イエスさまのご復活を祝うイースターの礼拝をささげましたね。私たちの罪の身代わりとなって十字架上で死なれ3日目によみがえられたイエスさまを信じる信仰によって私たちの罪はゆるされました。イエスさまが神様と私たちの間をつないで下さっているのです。私たちのすべてを知りとりなして下さっているイエスさまなしでは神様とのお話しはできないのです。上手にお祈りできなくても少しまちがったお祈りをしたとしても「イエスさまのお名前によって」と祈る時神様に喜んで頂けるのです。お祈りの最後にアーメンというのは「そのとうりです」という意味があります。一人で祈る時、またみんなで声を合わせてアーメンといえる「祈りの仲間」をもっているのも神様からの大きな恵みです。

今日の聖書のみ言葉は、パウロさんがフイリピの教会の信者さんたちに牢屋の中から書き送った手紙です。パウロさんは、一人でも多くの人たちにイエスさまのことを知って欲しいと話していたところをパウロさんを妬んでいた人たちによって牢屋に入れられてしまっていたのです。殺されてしまうかもしれない絶望的な状況の中での手紙でした。フィリピの信徒への手紙4章4節。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。どんなことでも思い煩うのはやめなさい。何ごとにつけて感謝を込めて祈りと願いをささげ、神にうちあけなさい。」パウロさんは本当に信仰のあつい人だったのですね。

またマタイ6;5~8には「あなたがたの父は願う前から私たちに必要なものをご存じでいて下さる方」という御言葉があります。それなら、もうわざわざ祈る必要はないのでは?そんな疑問が湧いたかも知れませんね。でもたとえ私たちが神様を忘れたり、自分勝手に生きているときにも、イエスさまはひと時も私たちのことを忘れることなく、神様にとりなしてくださっているのです。それほどの大きな愛だからこそ、祈らずにいられないし感謝せずにはいられないのではないでしょうか。お祈り(特に人前での)が苦手だったり、心に思っていても言葉が出てこない、そんな時はイエスさまが教えて下さった「主の祈り」で祈りましょう。お願い事ばかり多く、不平や不満だらけの私たちですが、感謝の気持ちを忘れずに「イエスさまのお名前によって」とお祈りしましょう。

5月の教会学校礼拝 (毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

◎ 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。

◎ お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

5月7日 (日)   詩編119:145-146       お話の担当… 並木せつ子

14日(日)  マタイ18:1-5             勝田令子

21日(日)   使徒言行録3:1-10          並木せつ子

28日(日)   ローマ8:21-25           興津晴枝

 

教会・教会学校からお知らせ・お祈り・報告

  • 5月14日(日)は母の日、活動の時間はプレゼントのカードを作ります。
  • 今年のペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝は6月4日(日)です。どんな記念日なのかお話を聞いて下さい。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方も参加できます。また、中学生以上の方には、10時半~11時半の一般の礼拝もお勧めしています。親子連れの方も、どうぞいらしてください。
  • 真の神は、イエス・キリストの御生涯に表されました。イエス様を通して、私たちは、神の真実を知ることができます。
  • 礼拝でのお話は小学校高学年~中学生にもわかりやすく語られます。礼拝後の活動は幼少~小学生向きですが、何歳でも楽しく参加することができます。

5月の御言葉

詩編119篇145節「心を尽くして求めます。主よ、わたしに答えてください。わたしはあなたの掟を守ります。」

神による悲しみ

聖書:エゼキエル18章30-32節, コリントの信徒への手紙二 7章10-16節

先週、成宗教会は2017年度の教会総会を開催し、前年度の活動と決算の報告を行い、そして今年度の活動と予算の計画を明らかにしました。すべて承認されました。東日本連合長老会に属するわたしたちだけではなく、日本基督教団のすべての教会は会議制を取っておりますので、定期総会によって教会の方針が決められます。また細かい日常的なことについては、すべて総会を開いて決めるのではなく、全体を代表する長老たちを選挙によって選び、長老会議に教会の礼拝から牧会まで委ねているのであります。

そこで、毎年行われる長老選挙は重要な意味を持っています。それは、教会に所属する者が祈りをもって長老にふさわしい人々を選び出さなければならないからです。祈りをもって、とは何を祈るのでしょうか。それは自分の気に入った人が当選するようにという祈りではありません。それは教会を建てて行くためにふさわしい人を求める祈りです。みんながふさわしいと思っていても、自分はふさわしくないと思うことがあります。そういう思いはむしろ自然なことで、ほとんど誰にでもある思いです。しかし、もしみんながふさわしいとは思わないのに、自分がふさわしいと思って長老になりたがる人がいたとしたら、こういう場合の方が問題です。

ですからふさわしさ、というのは、長老も牧師も含めて、自分で決めることではないことが分かります。「どうぞ、この教会を建てるのにふさわしい長老を与えてください」という祈りがあるかどうか。選挙の直前にあるだけではなく、いつも、いつも祈りに覚えることが、とても重要なことであります。というのも、教会は旅をしている船に例えられるもの。歴史の中を進んでいくものだからです。

2000年前に主イエス・キリストの御復活によって、宣べ伝えられ始めた神の言葉が、全世界の人々を救いに招きました。教会は神の言葉が告げ知らされる所です。教会は救いに招かれた人々が、招きに応えて主に従うものとなった所です。そして何よりも大切なことは、この福音が何時でもどこでも同じ福音だ、ということにあります。このことを、エフェソの信徒への手紙で、パウロは教会の人々に次のように述べています。エフェソ4章3節~6節。356頁。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」

体とはキリストの体の教会です。霊による一致を保つために、聖書があり、聖礼典があり、聖職者が立てられ、信仰告白がなされます。パウロがコリント教会を建設し、このように手紙を送って牧会指導していたのは初代教会の時代ですから、一致のためのしるしはまだまだ整っていませんでした。しかし、霊による一致ということを一つ考えても、今日に至るまで、教会は自分たちの問題として思い当たるような様々な経験をさせられているのであります。

今、日本は観光立国を目指していると聞いております。地方に行くと、以前から外国人観光客で埋め尽くされた観光スポットなどを体験することがありましたが、今は首都圏でも、教会の周りでも、剣道の竹刀のようなものを担いでどこかを目指して行く国籍不明の外国人男性の一団がいきなり通ったりして驚くことがあります。世界中の人々がこんなに旅行好きなのかと思いますが、彼らの目的は自分たちとは違うものを体験することなのでしょうか。しかし、少なくとも、日本が自分たちの国よりも良い所と思うので来るのでしょう。わたしたちは自分が守って来たルールよりもおかしなルールがある場所、あるいはルールなどない無法地帯のような所には住みたくないし、行ってみたいとも思わないでしょう。

パウロがコリントの教会に前に手紙を書いて、厳しく咎めたのも、それと関係があるのです。福音を宣べ伝えているのは、主イエス・キリストの一つの教会を建てるためです。それが教会の主が忘れられて、いつの間にか○○さんの、××先生の教会となってしまっている。しかも、表向きはキリストの教会という看板が掲げてあるなら、どうでしょうか。このような教会に行った人は、○○さん=キリストなのかと、とんでもない誤解をしてしまうかもしれません。その上、キリストの名を使っているのに、キリストの教えとは全然違うことが教えられていたなら・・・、更には、その教会と称する場所が、無法地帯のようになっていたなら、社会の人々に大変なつまずきを与えることになるのです。

パウロは厳しいことをいろいろ書きました。そしてその忠告の手紙は、コリント教会の人々ばかりでなく、驚くべきことに、いくつもの教会に回覧されて共有されました。皆、コリントの問題を他人事とは思わなかったのです。それどころか、いつでも、いつまでも、どこまでも読み継がれて聖書正典として、神の御心を伝える言葉となったのです。そこで本題に入りますが、パウロはコリントの人々にあのような厳しい言葉を書き送ったことを、今は喜んでいると述べています。それは、厳しい言葉によって教会の人々にショックを与えたかったからではないし、心を傷つけ、悲しみに陥れたいと思ったからではありません。

パウロはコリント教会を建て、御言葉を教えた人々に深い愛情を抱いていたに違いありません。キリストの愛を知る者はキリストの愛する人々を愛さずにはいられません。主がこの人たちをお招きになっているのだ、と思うとつくづくうれしいのです。だからこそ、厳しく語った。彼らの不行状を責めたのです。そして、責められて傷ついているだろうと思うと、自分も心が沈んでいたのです。ところが、責められた人々は傷ついただけではなかった。傷ついて、自分たちの非を認め、悔い改めました。パウロはこのことを、コリント教会を訪問したテトスから報告されて初めて知りました。

なかなかこういうことは起こらないものです。人を責めることも勇気が要ります。責められた人は傷ついて怒ることがあっても、それで終わってしまうことが断然多いからです。さらにいつまでも恨まれることもあります。だからなかなか責められません。それが彼らは責められて悲しんで、本当に悔い改めた!それは奇跡的なことだったと思います。

10節に神の御心に適った悲しみは悔い改めを生じさせると、パウロは語ります。パウロはここで世の悲しみとの違いを明らかにしようとしています。まず世の喜びから語りましょう。それは何でしょうか。それは、神を思わず、神をおそれることなく、この世を楽しんでいる喜びです。すなわち、人が空しく過ぎ去って行く幸福に浸りきっている時は、もっぱら、地上のことだけを思い、天を仰ぎ見ようとしないものです。それに対して、神による喜びがあります。それは、人が自分の幸福のすべてを、神のうちに築くことです。自分のすべての喜びを神の恵みのうちに汲み取ることです。何をしても、何があっても「ああ、主が私に良くしてくださったのだ」と感謝できるのです。そういう人は、この世の繁栄を楽しむにあたっても、慎ましくそれを自分のせいにしないで感謝します。また、逆境の時にも喜びを心に持ち、それを言い表すのです。

今度はこの世の悲しみですが、地上にしか心が向いていない人は、地上の苦悩によって意気阻喪し、悲しみよって打ちひしがれてしまいます。それに対して、神による悲しみは、いつの日も、ただひたすら神を見つめている人の悲しみです。「およそ世に生きて惨めなことあっても、神の恵みの外にあることよりも惨めなことはない」と判断する人は、ただひたすら神に従う者、神に恵みを施される者となりたい願い、悔い改めに至るでしょう。だから、こうした悲しみこそ悔い改めの元となります。

キリストは何の功績もないわたしたちを値なしの救いに招いておられます。しかし、同時にそれは悔い改めへの招きであります。わたしたちが罪を捨ててこそ、主は赦しを与え給うのです。ルカ5:31「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」111上。ですから、わたしたちは皆、「自分は神の御前に罪人です」と言い表すときには、それは単なる言葉だけであってはなりません。自分の罪を知って心を痛め、悲しんでこそ、わたしたちは回心して御もとに立ち帰ることができるのです。そういう悔い改めこそ、救いに結び付くのです。しかもそれは、取り消されることのない確かな救いです。

パウロはコリント教会の人々に11節の言葉で祝福を与えています。「神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、憧れ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。」彼らの悲しみは、神による悲しみでした。深く悔い改め、自分たちの中にあった悪い行いを取り除き、よりよいものに変えて行こうと熱心に心がけるようになったのです。ここで言われる弁明とは、くどくどと自己弁護することではなく、自分の非を認め、謙って赦しを乞うことにより、身の証しを立てることです。憤りは罪への怒りであり、自分たちの過ちを激しく責めているのです。それというのも、自分が神の御前に申し開きできないことを恐れているからでした。

また「懲らしめをもたらした」とパウロは述べています。懲らしめ、つまり処罰は、悔い改めを表す重要な一つのしるしとなります。それは、神がお許しにならないと思われる罪を、まず、自分たちの間で神の裁きを先んじて来させることで、わたしたちがわたしたちの中にある罪を罰するということです。それは、まず自分自身から始めなければならない。コリント教会の人々の罪の中で最も深刻なものとして指摘されていたのは、近親相姦の罪でした。このことは教会の一部の人の罪でありましたが、そのことに対して、教会は気づいても何も対処することがなく、見過ごしにしていたのでした。しかし、パウロの厳しい指摘を受けたことで、教会の人々はその罪を一人の個人の問題として放置してはならないことを悟りました。そして罪を認めたばかりでなく、教会からこのような問題を取り除くために立ち上がったのでした。

このような熱意が示されたことをパウロは非常に喜んでいます。これは単に使徒が叱ったので、教会が悔い改めた、ということではありません。このような痛ましい事件を通して、コリント教会一同が悔い改め、悲しみの中から立ち上がって、使徒の教えに熱心に応える者となった。そのことによって、コリント教会の信仰が神の御前で証明されたのだ、とパウロは確信しました。そして彼は伝道者として深く慰められたのでした。

「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一」であるという教会の霊の一致は、揺るがされかねない事件が度々、各教会を襲いました。それはこんにちに至るまでそうなのです。いざ教会に事件が起こると、コリント教会のように、個人的な不正行為から、牧師、長老の不行状、権威の濫用、誤った教えなどによって教会が蝕まれても、解決には大変な労力を費やし、人々を疲弊させかねません。その上に外から降りかかる時代の嵐、怒涛があります。歴史を進む旅する教会はこうして難船難破の危機にさらされ続けて来ました。

それにもかかわらず、教会は今も歩みを続けています。今も世界中で、目新しいものを捜している観光客にではなく、主に招かれた人々と共に生きるために、御言葉を宣べ伝え続けています。わたしたちの教会も創立から77年を迎えました。目標は昔も今も変わっていません。それは、主のご復活の時から変らないのです。主の教会に結ばれて、わたしたちは悔い改めに生きています。教会が悔い改めに生きる時、高慢な者も自分を悲しみ謙る者とされます。その時、かつて厳しく咎めた者が、咎められた者に「あなたがたのことを誇りに思う」と言うことができるのです。「あなたがたを信頼できる」と言うことができるのです。なぜでしょう。なぜ、このような奇跡が起こるのでしょう。わたしたちは主に結ばれているからです。主の執り成しに結ばれているからです。悔い改めて、イエス・キリストの執り成しに信頼する教会にこそ、真の教会を建てる希望があります。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま、

御名をほめたたえます。成宗教会にわたしたちを集め、御言葉によって悔い改めと罪の赦しを新たに与えてくださいましたことを感謝します。先週わたしたちは教会総会を開くことができました。また新たに長老を選出することができました。力足りない者に力を与え、心弱い者に勇気を与える神様、どうかわたしたちにこの小さな群れを通してご栄光を顕し、慈しみ深い御心を顕してくださるあなた様の御声に耳を傾ける教会とならせてください。初代教会の時代に右も左も分からず、また何の見通しも無く困難に満ちていながら、心はあなたへの感謝、キリストへの愛に満たされていた教会のことを思います。わたしたちも一人一人は後何十年も生きられる者は少ない群れですが、教会の長い歴史、そこに与えられた一筋の信仰に連なって参りたいと思います。

成宗教会の77年の歴史の中に多くの労苦がありましたが、主に結ばれて生涯を全うした教師、信徒にわたしたちも続くものでありますように。悔い改めを起こし、救い主イエス・キリストの贖いの恵みにすがらせてくださるのは、ただ主の御力、聖霊のお働きです。わたしたちは喜びの中に、感謝の中に、主の御業を待ち望みます。

どうか総会で決議された諸計画、諸行事の上にあなたの導きをお与えください。そしてわたしたちすべての者が祈りによって伝道の御業のために働く者とならせてください。今日もいろいろな事情で教会に集うことのできないでいる方々に深い顧みをお願い致します。

この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

復活の主に出会う時

聖書:イザヤ書12章1-6節, マタイによる福音書28章1-10

 主イエス・キリストは陰府の支配を打ち破り、ご復活されて、不滅の命を顕してくださいました。今から二千年前エルサレムで起こった出来事であります。神は主の御復活の善き知らせを、だれに最初に知らせることを望まれたのでしょうか。主イエスの弟子たちには、真っ先にお知らせくださったというならば、だれでも納得したことでしょう。ところが、弟子たちではなかった。最初に復活を知らされたのは、婦人たちでした。彼女たちはガリラヤから主イエスに従って、主と弟子たちの世話をしていた人々でした。厳密に言えば、彼女たちも弟子ではありますけれども、この時代の婦人たちは数に入っていない存在でありました。神はしかし、彼女たちにご復活の主を最初に示してくださったのです。

なぜでしょうか。人類の歴史はほとんど男性優位社会であったのですが、神はそれを覆して、女性の方が値打ちがある、と言われるのでしょうか。そうではないと思います。キリストの弟子たちは皆逃げ去ってしまい、主の葬られた墓に近づくことも恐れていました。自分たちも主の弟子であったことを咎められ、危害を加えられるのではないか、と怖かったのです。ところが、婦人たちは彼らとは全く違う行動に出ました。彼女たちも嘆き悲しみの中にありました。しかし彼女たちはなすべき務めを思いました。主のご遺体に対して香油を塗って差し上げなければならない。そこで立ち上り、てきぱきと出て行きました。お墓がどうなっているのか分からない。そこに入れるかどうか分からない。それでも主にお会いしに行く。正確に言うと、主のご遺体に会うために行ったのです。

その時大きな地震が起こりました。神がイエス・キリストを復活させてくださった。その恐るべき出来事の重さを地震によって、神は彼女たちにお示しになったのではないでしょうか。その時、主の天使が天から降って、墓を塞いでいた大きな石を転がした。その石の上に座った。それらは、主が復活されたことを告げる出来事の重大さを物語っているのです。その稲妻のように輝く姿を見た見張りの者たちは、恐ろしさのあまり死人のようになった。正に死ぬほどの恐ろしさであったのです。これらの証言を、信じるとか信じられないとか論じる人々は、この二千年あとを絶たず、いつの時代にもいます。しかし、主がご復活されたことを世に知らせるのに、このような方法を選ばれたのは、神御自身であります。すなわち、主は御自分が生きておられることを、天使たちによって婦人たちに宣言されました。次に、その後すぐ主御自身が彼女たちにお姿を現されました。そして最後に使徒たちに、様々な機会に御自身を現されたのです。

使徒たちは、自分の身の安全ばかり思って外に出ることを恐れ、閉じこもり、ますます自分たちの裏切りを思い、落ち込むばかりでした。それに比べると、婦人たちは主のご復活を信じていなかった点では使徒たちと何も変わらなかったのですが、それでも落ち込んでばかりはいられなかった。彼女たちは主に対する愛と感謝を忘れませんでした。だから主の死を悲しみ痛む思いをどうしても形に表さずにはいられませんでした。信仰の弱さにおいては同じであっても、主は主に近づこうと行動する婦人たちの愛と感謝の姿に報われました。そして天使を遣わされ、この言葉を与えたのです。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、(見よ)あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」と。

婦人たちは、彼女たちは天使の言葉に心底喜んだのでしたが、同時に非常な恐れに打たれたので、歓喜と恐怖で心が混乱していました。もし、彼女たちの信仰が優っていたのなら、心は恐怖に打ち勝って平静になれたことでしょう。しかしこの時はどうしても、歓喜に溢れると同時に、恐ろしさも心にこみ上げて、まだ天使の証言を完全に信頼していたのではなかったのでした。そんな状態でも、取るものも取りあえず、彼女たちは素直に従順に天使の命令に従っていました。すなわち、弟子たちの居る所に走って行きました。人の数にも入っていないという女性たちが弟子たちのところに行って「あの方は死者の中から復活されました」と報告したとしても、果たして「女の言葉なんか信じられるか」という男社会であったかもしれないのです。しかし、彼女たちはそういうことを心配する、あれこれ考えるゆとりはありませんでした。ただ、天使が命じる言葉を届けようとする一心で走ったのです。

このように最初の福音の伝道者は、実は使徒たちではなく、女性たちでありました。そして、それは彼女たちが何か進んでその務めを果たすことを引き受けたのではありません。信仰弱い者、体も頑健ではない、そのような婦人たちに、主は一時的にせよ、福音を伝える務めをお与えになりました。「イエスさまは生きておられます!」と告げるために彼女たちは一生懸命走って行きます。こんなに嬉しい知らせはありません。でも、よく考えてみると、彼女たちは天使に聞いただけなのです。本当にそうなのだろうか、という疑いが少しも起こらないでしょうか。

わたしたちも弱い者だから、心も体も魂も丈夫な者ではないから、同じような経験をしているのではないでしょうか。わたしたちは教会にいる。教会の主は生きておられる、と宣べ伝えるために頑張っているはずではなかったでしょうか。それなのに、主を喜びながら、しかし、どこかで半信半疑なのではないでしょうか。大体、一生懸命走っているうちに、わたしたちは忘れてしまってはいないでしょうか。何のために走っているのか。どこに走って行くのかを。そしていつの間にか思っていること、心にかけていることは、自分の弱さのこと。自分の力不足のこと。そして人と比べ合うこと。人と比べてがっかりすることばかり、等々。しかし更に、人と比べて「自分の方がまだましだ」と思うならば、わたしたちはますます教会の本来の目的から大きく外れてしまっているのです。

本来の目的。それは福音であります。福音は「イエス・キリストは死者の中から復活されました」と告げ知らせることから始まりました。そして、この知らせを信じるか、信じないかに、わたしたちの救いがかかっています。教会の救いは、わたしたちが、十字架に死んで甦られた主を、今も生きておられる主を信じるかどうかにかかっているのです。

さて、わたしたちは今日の復活の物語の中で、主がどんなに恵み深い方であるかを知らなければなりません。婦人たちは天使の言葉に従ってこの素晴らしい喜びを伝えるために走ったのですが、やはり心は弱く、喜びながら怖がり、怖がりながら喜ぶという、気が変になったかのような状態でした。その時主が現れてくださったのです。そして一言、新共同訳では「おはよう」と言われました。この言葉はユダヤの人々の普通の挨拶であったから、このように訳したのでしょうが、口語訳では「平安あれ」と言われました。文字通りのギリシャ語の意味は、「喜びなさい」です。そして宗教改革者カルヴァンも、平安があるようにと訳しています。半笑い、半泣き状態の彼女たちに平安を賜るために、そして何よりも確信を賜るために、主は御自身を喜んで与えられたのです。一番初めに。一番弱い者たちに。

ご復活の主に出会った婦人たちの喜びは想像することができません。彼女たちは主イエスに近寄って主の御足を抱いたと書かれています。それは、この当時の慣わしで、普通、王、支配者に対する服従と恭順の表現であったそうです。ヨハネの福音書では、マグダラのマリアがあまりに地上的な思いで主に縋り付くので、主は「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われ、御自分に触れることを禁じられたのでしたが、最初はそうではなかったと思われます。このように足に触れさせることによって、主は婦人たちに、御自分が決して夢幻ではなく、現実に生きておられることを確信させようとされたのであります。すると、彼女たちはひれ伏して主を礼拝しました。なぜなら彼女たちは、その時こそ主がよみがえられたことを知ったからでありました。このようにして主は信仰弱い者の疑いの雲を吹き払ってくださるために、弱い者のために現れてくださったのであります。

それから主は言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」もはや彼女たちは恐ろしいと思ってはいません。ですから、むしろ「主は恐れるな、と言われたのではなく、喜びなさい、すべての悲しみを投げ捨てなさいと言われたのだ」と宗教改革者は論じます。信仰の平和を得て、わたしたちは「キリストに心を高め、死を克服した主に向かって自分を高くするのだから、快活に元気になりなさい」と命じられているのです。

しかしながら、わたしたちが本当に主のご復活を知ることになるためには、主イエスを救い主と信じ、洗礼によってわたしたちの罪を言い表し、主のご復活の命を分かち合う者とされなければなりません。わたしたちは真に疑いと不安に支配されやすく、信仰の確信に満ちた状態からは程遠いと言わなければなりません。だからこそ、主の御語りくださる御言葉にこの肉の耳を傾けることが必要なのであり、肉の耳を傾けて礼拝し、肉の唇から信仰の告白と賛美の言葉を捧げて礼拝することが、実に大きな恵みとして、地上に生きるわたしたちに与えられているのです。

主は、婦人たちを励まして、彼女たちに役割、務めをくださいました。それは、使徒たちに福音を告げ知らせることです。こうして弱い者である婦人たちが、役割を与えられてやがて強い者となる使徒たちを助け、支えていく。これこそ、主の御心。神の愛の働きであります。ご覧ください。主が使徒たちを「わたしの兄弟たち」と呼んでいるのを。復活の主イエスは、御自分の苦難の時に、見捨てて逃亡してしまった弟子たちを「兄弟たち」と呼ぶのです。復活の主は、なお彼らと兄弟の絆で結ばれていると言ってくださいます。

キリストが彼女たちにこの知らせを弟子たちに告げるように命じた時、この知らせによって主は再び彼らを集め、散らされ、倒されていた教会を起こされました。なぜならわたしたちが倒れてしまっても、絶望的な状態に陥っても、再び燃え立たせられることができるとすれば、その力はこの復活の信仰によってのみ与えられるのですから。弟子たちが滅びるばかりの状態から、命を回復させられたのは当然のことでありました。

わたしたちは、ここでも、キリストの驚くべき御好意に注目するべきであります。弟子たちに、卑怯にも主を見捨ててしまっていた者らに、兄弟の名をお与えになるほどの御好意に!主はそんなにも好意的な呼称を、意図的にお与えになったことは疑いありません。主は彼らが非常な悲しみに苦しんでいることを御存の上で、彼らを慰めてくださったのです。このように使徒たちを「わたしの兄弟」と認めてくださる主イエスは、この二千年の歴史の中でわたしたちに至るまで、そして世の終わりまで、教会の主に結ばれる者に「わたしの兄弟姉妹」という名をお与え下さっています。

真に畏れ多いことであり、また感謝に絶えないことであります。ですからわたしたちは復活の物語を無関心に聞いてはならないのです。また、兄弟姉妹と呼び合っているのは血縁でも地縁でもないわたしたちが主の兄弟姉妹とされていることを決して疎かにしてはならないのです。そして、何よりも大切なことは、キリストが御自身の口によってわたしたちをお招きくださり、主の兄弟姉妹となるようにと御好意をお与えくださるのです。この主の恵み深さを知り、死をも命に変えることのお出来になるキリストを礼拝し、主と共に生かされますように。イースターおめでとうございます。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

2017年のイースター聖餐礼拝を感謝いたします。主はわたしたちの弱さ、心の頑なさ、思い上がりの故に十字架に掛かり、わたしたちに代わって罪を償ってくださいました。わたしたちは神の御好意、慈しみを信頼せず、自分を頼り、さ迷っておりましたが、主は御復活の命をもってわたしたちを呼び集めてくださり、罪を悔いる者に御自分の執り成しによる赦しをお与えくださいました。

真に感謝申し上げます。わたしたちは今日、あなたが復活の最初の証人として弱い者を立てて用いてくださったことを学びました。今、多くの人々が弱さを覚え、貧しさを覚えております。教会にいる小さな者を用いて福音のために務めを与えてくださりありがとうございます。わたしたちの主のご復活によって、あなたは死ぬ者をも生かす神であることを知りました。打ちひしがれた者、弱り果てた者と共にいらして立ち上がらせてくださる神であることを知りました。どうかわたしたちを用いて聖霊の御力によって、主のご用に生きる者としてください。

来週は教会総会が予定されています。そこで行われる報告の上に、計画の上に、あなたの恵みの導きを祈ります。また長老選挙の上に御心を行ってください。教会員の皆が教会を建てるために奉仕する志を与えられますように祈ります。真に集まることさえ困難な方々が増えている中、あなたの御心があれば、健やかな教会が建てられることをわたしたちは確信し、祈ります。どうか、わたしたちが主イエスの命に結ばれ、あなたの御心、ご栄光を映し出す教会となりますように。そのためにわたしたちも、家族も、仕事も整えてください。良いものすべてをわたしたちのために備え、下さろうとしておられる主よ、わたしたちの罪、咎、過ちを取り去り、共に助け合って、終わりの日まで主の許にとどまる幸いな者としてください。

若い方々、仕事に追われている方々の生活を顧みて、主を礼拝する恵まれた生活へとお導きください。また、高齢の方々の礼拝生活があなたの祝福を豊かに受けますように。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

2017年4月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

並木せつ子先生のお話

聖書:マタイ7章7節-11節

「求めなさい!とイエスさまはおっしゃいます」

4月はワクワクする季節ですね。桜が咲いて、ピカピカの一年生も、もっと上の学年のあなたも、もっと小さい子だって、ドキドキする新しい時です。新しい場所で、新しい先生、新しい友だち、新しい勉強がいっぱいです。ドキドキするのは、心配もあるからでしょう。うまくできるかな、ドキドキ。そういう時には一人で心配しないで、とイエスさまはおっしゃっているのですよ。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とは、イエスさまのことばです。

だれですか?「どうせ、僕なんかに、わたしなんかに、できないよ」といじけている人は。「門をたたいたって、どうせだれもあけてくれないよ」と諦めている人は。おやおや、そうかと思えば、あちらの方では威張っている子がいますね。自信満々、「わたしなんか、だれにも求めなくたって、ちゃんと自分で何でもできるんだから」と思っているのはだれですか。でも、まっすぐに神さまを見上げて、神さまは見えない方ですが、まっすぐに信じることができたら、あなたは大変幸せですよ、とイエスさまは教えてくださっています。

「神さまは天のお父さまです」とイエスさまは言われす。イエスさまがこのお言葉を聞かせてくださったのは、実は皆さんのような子供たちではなく、大人の人たちでした。その人たちには子供がいたのです。だから、その人たちは子供を育てるのに一生懸命だったでしょう。「子供にお腹いっぱい食べさせてあげたい」とか、「欲しがっているものを手に入れてあげたい」とか、病気の子がいたら、「早く治してあげたい。どうしたらよいだろう」と一生懸命考えていたことでしょう。

「あなたがた親がそう考えているのだから、まして神さまはあなたがたを世に生まれさせてくださって、本当に幸せになるように、いつも考えてくださっていますよ」とイエスさまは教えてくださいました。ところで、皆さんは自分が本当にほしいものが何だか分かっていますか。「絶対これ!」と思っていても後で違うと気が付くこともありますね。でもその時は「これだ!」と思っています。皆さんのお父さん、お母さんも一生懸命皆さんのために考えて、本当に良いものをあげたいな、と思うでしょう。それは、皆さんが欲しいと思うものとちがっているかもしれません。それで、親子げんかになったりすることもあるでしょうね。

本当に良いものを求めることが、最初から分かっている人はいないと思います。だれもがみんな、ちがうものを求めて、間違ったと気が付くことがあるでしょう。でも、心配することはないのです。イエスさまはおっしゃいました。天の父である神さまは、あなたがたにとって本当に良いものが何であるか、ご存じだからです。あなたも知らない良いものを。あなたを大事にしてくれるお父さん、お母さんでも知らない良いものを、神さまはご存じなのです。だから心配しないで求めましょう。「どうせ見つからないさ」と言わないで、探しましょう。「だれもあけてくれないかも…」とあきらめないで扉をたたきましょう。

イエスさまは皆さんに「神さまに求めなさい」と勧めてくださいます。神さまに求めることは、神様に祈ることです。教会学校に来て、お祈りできる人になってくださいね。

4月の教会学校礼拝 (毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

◎ 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。

◎ お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

4月2日(日)  マタイ7:7-11   お話の担当…並木せつ子

  9日(日)  マタイ27:11-26        萩原総子

  16日(日) ヨハネ20:11-18        並木せつ子

  23日(日) フィリピ4:2-7         興津晴枝

  30日(日)  サムエル(上)1:10-28       山口智代子

教会・教会学校からお知らせ・お祈り・報告

  • 教会の暦(4月16日はイースター)・・・イエス様は人間の罪の身代わりとなって十字架に掛かられましたが、予告しておられたように三日目によみがえって弟子たちの間に現れて、ご自分が生きておられることを告げ知らせられたのです。神の子、イエス様はわたしたちの罪から救うためにこのような苦難を受けてくださいました。この溢れる愛に感謝しましょう!この時から弟子たちはイエス様の復活された日曜日に集まって礼拝を守るようになりました。それが全世界のイエス様の教会の始まりです。イースターは毎年、春分の日の後の満月を過ぎた最初の日曜日にお祝いすることが全世界で決まっています。
  • 教会学校のイースター礼拝では、今年もイエス様の復活の紙芝居をいたします。その後、卵探し(エッグハンティングと言います)の楽しいゲームがあります。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方も参加できます。また、中学生以上の方には、10時半~11時半の一般の礼拝もお勧めしています。親子連れの方も、どうぞいらしてください。
  • 真の神は、イエス・キリストの御生涯に表されました。イエス様を通して、私たちは、神の真実を知ることができます。
  • 礼拝でのお話は小学校高学年~中学生にもわかりやすく語られます。礼拝後の活動は幼少~小学生向きですが、何歳でも楽しく参加することができます。

4月の御言葉

マタイ7章7節「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

いちばん上になりたい者は

聖書:創世記25章29-34節, マタイ20章20-28節

 受難節も第5の主日となりました。先週の聖書は、主イエスが三人の弟子たちを連れて高い山に登られた話でした。その山の上で主がまばゆく光輝くお姿に変わるのを弟子たちは見ました。主はこれからエルサレムで苦難を受け、十字架につけられ、死ぬことになっている。そして三日目に復活することになっていると言われました。これからの苦難の道は主イエスにとって耐えがたい道でありましたが、それは弟子たちにとっても耐え難い試練となることを、主イエスは良くご存じでした。

そこで主はこの三人を連れて山に登られたのです。その目的は、弟子たちの中から特に選ばれた三人に、御自分の栄光のお姿を見せて、彼らをその証人とさせることであったのです。その三人とはペトロ、ヤコブヨハネでありました。ペトロは御存じのとおり、主から岩、ペトロというあだ名をいただいたシモン・ペトロであります。彼は主イエスに信仰を告白しました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。

主はこの告白を大変喜んで下さり、「わたしはこの岩の上に教会を建てる」と宣言なさいました。「その教会は陰府の力もこれに対抗することはできない。」こんなにまでほめられたペトロですが、しかし、すぐさま大変なお叱りを受けたことも、聖書に書かれています。ペトロは叱られました。「サタン、引き下がれ」と。いくら何でもサタンとまで言われるとは。しかし、ペトロはそれほどの間違いをしたからです。すなわち、彼は主がこれから受けようとしている苦難を否定し、十字架の死を阻止しようとしました。ですから、主の御怒りはごもっともだったのです。「あなたはわたしの邪魔をする者。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」神のご計画を阻止しようとする者は、だれでもこのように大変なお叱りを受けるでしょう。

わたしたちは果たして神様のご計画を知っているでしょうか。いちばん弟子と見なされていたペトロでさえも、こうなのですから、本当にわたしたちもまた、神様のご計画、主の御心から遠いこと、外れたことを言ったり、したりしているかもしれません。ですから、このようなわたしたちが礼拝に参加して、聖書を読み、教えを受け、心新たに学ぶことができますことは、真に幸いなことです。さて、今日は続いて、ペトロと共に、主に招かれて御一緒に山に登ったあとの二人、ヤコブとヨハネが登場します。すなわち20節にゼベダイの息子たちとあるのは彼らのことです。

マタイ福音書では本人たちではなく、母親が願い事をしているように語られています。しかし、これはやはり、本人たちの願いなのであります。それは、主イエスが母親に答えないで、直接本人たちにお尋ねになっておられることからも真実でありましょう。「一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に」座らせてくださいということは、要するに一番上の地位をくださいと願っているのです。実にここには人間の虚栄心がまざまざと姿を現しているのではないでしょうか。忠実に熱心にキリストに従っている人々の心に、思いがけないこの世的な、自己中心的な野心が混ぜ合わさっている。

「教会の中で立派な人だと思われたい。」「あの人はいちばん重要な人物だと認められたい。」「あの人抜きの教会は考えられないと言われたい。」このような思いが牧師の中にも、長老、信徒の中にも起こって来る。それがキリストを悲しませ、悩ませる教会の欠陥となりかねないのです。そういう人々は、単純にキリストに従うこと、キリストと共にいることだけでは満足しないからです。主に従って来たのだから、何か特別なもの、自分の希望のものがもらえるのでは、と考え始めます。

ヤコブとヨハネは、ペトロと共に熱心にキリストに従って来た人々でした。主イエスもまた、彼らを愛して特に親しく傍に置いたように思われます。しかし、愛する主から「神の国が近い」と言われた時(神の国、という言葉は、王国という言葉ですから、キリストが王として御支配してくださる王国です)、彼らはにわかに心が騒ぎました。その王国で自分たちはいちばんの地位を得たい!この野心は一体何なのでしょうか。なぜ、一番になりたいと思うのでしょうか。ただ、老いも若きも男も女も、主に従って幸せなのではないでしょうか。主が救い主であるのですから、そう信じて、信じた通りに救われて――それだけで幸せなのではなかったでしょうか。

わたしたちが教会の主に出会うということは、教会で一番になるためだったのでしょうか。そんなはずはありません。私は15年成宗教会に仕えて参りました。ここで、多くの方々に出会いました。今はここにいない方々、天に召された方々も含めて多くの方々が、私に証しを残してくださいました。すべてを詳しくお伝えすることはできませんが、戦後の貧しい時代から、高度成長期の時代から、成宗教会を通して、主が御自分に招いてくださった方々は、沢山おられます。わたしたちは、ごく一部の方々を覚えているに過ぎないのですが、キリストに出会い、救われた人々は、必死で生きていたようでした。日々の生きる戦いの中で、主が共にいてくださることだけに光を見い出した方々でした。彼らは主につき従って行くことだけを求めていたと思います。

それが、少し生きることにゆとりができると、キリストに従い以外のことに目がそれ、心が向くようになるのかもしれません。いちばんになりたい。自分がほめられたいという自分中心の価値観。教会の外では当たり前のようになっている欲望が心に首をもたげ、もっともらしいチャンスが与えられた時に、名誉を求める欲望が前面に出て来る。そして、せっかくわたしたちが歩み始めた信仰の原点を、出発点を忘れてしまうようなことにならないようにしなければなりません。主はわたしたちに尋ねておられるのです。「あなたは一体どこを向いているのか、どこに歩いて行こうとしているのか。わたしに従っているのではなかったのか」と。

22節に、主は言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」本当に彼らは自分たちが願っていることが分かっていないのです。ところが、自分では分かっている、と思っているのですから、問題は深刻です。キリストの王国で一番に、というヨハネとヤコブの願いは愚かな願いでありました。いちばんになるか、ならないかは、神様が自由にお決めになることです。御心のままになることを喜ばない、満足しないで、自分の思いのままになることを望む者は、神に喜ばれる者とはならないでしょうから。そして、もう一つの問題は、彼らはキリストの王国がどんなものか分からないのに、勝手に空想していることです。この世の王国のイメージの延長線上で考えているのでしょうか。

主は既に御自分の受けるべき苦難をお示しになっていました。十字架と復活を予告されました。その上で、「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と言われたのです。「これから受ける苦難をできるならば避けたい。自分に定められた杯を避けられるものなら・・・」と主は苦しまれるのです。しかし、主イエス・キリストの務めは、多くの人々の救いのために、道を開くことであります。

それだから、主イエスはこのことを彼らにお示しになりました。もし人間が自分の落ち度、自分の過ちのために罪を負わなければならないとしたら、落ち度のない人、過ちのない人はいないのですから、だれも救われないでしょう。その上に、自分の落ち度、自分の過ちを他人に負わせ、家族友人社会の罪を互いに負わせている世界であります。そこにどうして救いがあるでしょうか。誰がこの罪の世から救い出されることができるでしょうか。キリストは世の罪を贖うために苦難を受けてくださるのです。「わたしに従うことができるのか」と主は問われました。するとヤコブとヨハネはすぐに「できます」と言いました。

何も考えずに即答できる単純さ、そして傲慢さがそこにありました。イエスは言われました。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」確かに彼らは何も分かっていなかったのです。主は戦いに備えようとしておられます。その戦いは、直接的にはこの時代のユダヤ人指導者たちとの戦い、王侯貴族との戦いであったかもしれませんが、彼らを支配している傲慢さ、神に対する不信仰、神のお遣わしになった救い主に対する妬みと怒りと軽蔑。すなわち、この世の罪、神への反逆との戦いであったのです。確かにこの戦いは勝利に終わります。主は必ず三日目に復活され、わたしたちの救いと成り給うのです。

しかしながら、今は戦いの時でした。今、なすべきことは何でしょうか。弟子たちに与えられている職務、与えられている賜物を総動員して、どうしたらこの世の罪と戦うか、それを必死に考え、また実行に移していくべき時。一日一日に勝ちがかかっている。一瞬一瞬が勝負の時なのです。それなのに…です。ヤコブとヨハネは母親まで利用して、御前に願い出たのです。彼らの願いはまるで「勝利の行進パレードでは、主と並んで凱旋の先頭に立たせてくださいよ」などと頼んでいるに等しいのに。悪魔の火の矢が飛んで来るさ中に、いったいそんなことを考える余裕があるのか。そのことを主は厳しく指摘されたのではないでしょうか。

さて、この時は、ヤコブとヨハネの思い上がりによって、彼らの虚栄心はあからさまになったわけですが、では、「他の十人にはそれがなかったのか」と言えば、事実は全くその反対でありました。24節。「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」彼らの怒りは、彼らもまた口にこそ出さないけれども、その野望を持っていたからこそ、腹を立てたのでした。

私が洗礼を受けた40年前は、クリスチャンというのは立派な人間だという印象が日本の社会にありました。そのおかげで、私は父から事あるごとに「お前はそれでもクリスチャンか」と批判されて、いやだなあと思ったことでした。今日の聖書の話を読むならば、世の人々は「何だ、クリスチャンも世の中の人も全然変わらないじゃないか」と失望するでしょうか。それともそれ見たことか、と軽蔑するでしょうか。私たちは常日頃、教会の中で共に教会の主にお仕えしたいと思っておりますので、ヤコブにもヨハネにもペトロにも、慰めを受けるのではないかと思います。「こんなに偉い聖人として2千年も教会に記憶されている使徒たちも、何だか、わたしたちとほとんど変わりないなあ」と。

ですから、そんな使徒たちも、こんなわたしたちも、確かに自分の力で救われたのではないことがよく分かります。ただただ、主を信頼して、闇雲に従って行った弟子たち。自分の言っていることの意味も分らない。まして、キリストの御復活のことなど、どうして分るでしょうか。しかしこのような弟子たちを主は愛して、その愚かさを忍んでくださいました。ここに語られているのは、ただ恵みによる救いです。そればかりでなく、主は彼らを救い、彼らを教育して、宣べ伝える者、福音を教える務めをお授けになったのです。

主は御自分の王国と、この世の王国の違いを教えられました。この世界には序列があります。いちばんがあり、上があり、下があるのです。王様がいて僕がいるのです。社長がいて平社員がいるのです。そのことを主は否定されたのではありません。しかし、教会に与えられている職務はそれとは全く違うのです。キリストはこの上なく高い所から降られ、この上なく低い所にいる者の救いとなられました。キリストは救いの土台となってくださった。土台はいちばん低い所にしっかりと上に建てられたものを支えているのです。

それだから、キリストの体である教会では、「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と主は命じられました。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」ローマ5:15を読みます。「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」280上。キリストの死こそは、多くの人を救う恵みの賜物となったのです。祈ります。

 

主なる父なる神さま

わたしたちの心の頑なさにも拘わらず、慈しみを注いで下さり、十字架の苦難を耐え忍んでくださった恵みの主イエス・キリストを感謝いたします。わたしたちの小さな群れにも多くの救いの歴史を残してくださり、ありがとうございます。あなたの御子救い主の宣べ伝えた福音がこの教会を建て、キリストの御体の肢とされて、77年が過ぎました。2017年度、新たに歩み出す教会の歩みを、聖霊の御力によって守り導いてください。新年度も御言葉が豊かに与えられ、わたしたちが新たに主に従う者と作り変えられますように。

初代の教会から今に至るまで、主は従う者を見捨て給わず、主のご栄光を証しする者として喜びの生涯をお与え下さいました。どうかわたしたちも、この教会を通して主の救いに結ばれ、ご復活の命をいただくものとしてください。連合長老会に加盟して4年が経過しました。教会が地域ごとに学び合い、助け合っていくことを知り、感謝します。あなたの恵みの高さ、深さ、長さ、広さを教えられ、感謝の中に成長させてください。礼拝に集うことの大切さを実感しながらも、集うことが困難な方々が多くおられます。どうかこの時こそ、互いに支え合い、聖霊の神様の助けを祈り合うことができますように。どうか日々、主の戦いを共に戦い、主の勝利の列に加えられる群れでありますように。わたしたちそれぞれの家に、職場に、施設に、病院に、主の恵みの御支配が輝きますように。来週は受難週、そしてイースターを喜び迎えます。2017年度の教会総会まで、どうかその準備を祝し道筋を整えてください。

この感謝と願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。