イエス・キリストの恵み

聖書:出エジプト16章12-18節, コリントの信徒への手紙二 8章8-15節

 コリントの信徒への手紙が書かれた時代に、エルサレム教会の地方では飢饉が起こったと言われます。そのことから考えると、パウロが教会に要請している募金活動は災害支援のようにも考えられます。私たちも最近のところでは、2011年に東日本大震災の被災地救援のための募金に応じて献げました。その時は教区教団に献金を送りました。しかし、昨年起こった熊本大分地震の救援募金については、教区教団に送ったのではなく、全国連合長老会を通じて被災地の教会に届くようにしたのです。

教区教団に送っても、連合長老会に送っても、同じように使われるのかどうかについて、わたしたちは自分の目で確かめることはできません。被災地に対する救援募金は自治体でも、赤十字でも、また報道機関でも行っていました。しかし、教会が、教会の名前で救援募金を集めることは、特別な意味があると思います。それは、今までわたしたちが読んで参りました聖書のみ言葉によって分かるのです。パウロは募金を呼び掛けています。パウロはエルサレム教会の人々に贈り物を送ろうとしています。しかし、それは飢饉があった地方全体の人々を助けようというのではないのです。だれでも助けようというのではないのです。「そんな狭量な、」とか、「心が狭いですね」とか言う人々がいます。「だれでもあまねく分け隔てなく、助けようと、募金するべきではないか」と言う人々もいます。教会の外の人々だけではなく、教区、教団の中にもそういう考えを述べる人々がいます。

しかし、聖書がわたしたちに教えているのはそうではありません。パウロは聖なる者たちを助けようと呼びかけているのです。聖なる者、すなわち神さまが御自分のもの、御自分の民として選び分けてくださった者たちです。何を基準にして選び分けられたのでしょうか。神さまの基準は何でしょうか。能力でしょうか。いいえ。年齢でしょうか。いいえ。人種でしょうか。いいえ。健康状態でしょうか。貧富によってでしょうか。もちろん違います。聖なる者とは、ただ神様にしか分からない基準によって聖なる者とされたのです。では、わたしたちには聖徒と呼ばれる人々は全く見分けがつかないのでしょうか。

いいえ。そんなことは決してありません。聖なる者とされるのは、イエス・キリストに出会い、その福音を聞き、この方こそ真に自分を救ってくださる救い主であると信じることによってであります。更に信じたことを口で言い表し、自分のこれまでの背きを悔い改めて洗礼を受けることによって、聖徒とされるのです。主が御自身の贖いの十字架の業によってわたしたちの罪を赦し、主の命に結んで下さったからです。主に結ばれて、わたしたちはキリストの生きた体の部分、肢と呼ばれます。ですから聖徒を助けるということはキリストの体の一部が他の一部を助けるということに他なりません。

パウロは、正にそのことをコリントの信徒への前の手紙で教会に教えています。コリントの信徒への手紙一、12章26節、27節。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」316下。パウロはエルサレム教会の困窮する人々を援助しましょうと、コリントの教会の人々に呼びかけているのですが、この呼びかけの目的は、実はエルサレム教会が満たされれば、それで終わり、というものではなく、またコリント教会が献金してくれれば、それで終わりというものでもないのです。なぜなら、キリストの教会を建てることは神の御心でありますから、それはある一つの教会だけが建てられればそれで良い、ということであるはずがないからです。然しながら、わたしたちはどうでしょうか。本当になかなかそのことに思いが及ばないのではないでしょうか。

昔、越路吹雪かだれかのシャンソンだったと思うのですが「たとえ、太陽が海に落ちてしまおうとも、あなたさえいれば生きていける・・・」というような愛の歌がありましたが、しかし教会はそうではない。他の教会がひっくり返ってなくなろうが、この教会さえあれば生きていける・・・」と思うのは、全く御心に反逆しています。みんな滅びても、自分だけ生きていることができるなどという考えは全くの非現実的妄想に過ぎません。初代教会の歴史資料を見る限り、迫害があったり、災害があったりする度に、人々はあちこち、移り住み、逃げたり、戻って来たりしながら、交流を続け、援助し合っていたことを知ることができます。教会がこのように現実的に具体的に助け合っていたことこそ、聖徒の交わりとしてパウロが勧めている言葉の内容ではなかったでしょうか。

8節です。「わたしたちは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心さに照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。」神は、確かに兄弟姉妹の窮迫に対し援助の手を差し伸べるようにと、わたしたちに対して至るところで命令しておられますが、いつ、どこで、どのぐらい援助しなさい、ということはどこにも言われていないのです。細かい事まできっちり指定され、強いられていやいや捧げるような援助を、神が喜ばれるはずがないからです。ですから、ここで神が求めておられることは、愛の原則です。

9節。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」パウロは、慈愛の最も完全な、最も優れた模範として、キリストを指し示しています。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」キリストは本来神に等しい方であられます。この方がわたしたちのために一切の豊かさを捨てて、マリアに生まれた時、この方がどのような困窮の中にいらしたかを、わたしたちは知らされています。正に、宿る家も枕するところもない中に人となられたのは、なぜでしょうか。「それは、彼の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」とパウロは宣言しました。

更に宗教改革者はこう述べています。「主の貧しさの目的は、キリストを信じる者たちがもはや貧しさを恐れることがないためであった」と。主は御自身の貧しさによってわたしたち皆を富む者にしてくださったのだと。だから、この模範によって励まされ、広い心を持つようになること、兄弟の窮迫を援助することが問題である場合に、物惜しみなどしてはならないこと。このことを悟る人ほど幸いな人は無いのです。

だから、自分たちの有り余る分から切り取って兄弟たちに分かち与えることが、わたしたちに辛いことであるとしたら、わたしたちは本当に不幸ではないでしょうか。くり返して申しますが、これは、世のすべての人々に対する援助を勧めている言葉ではありません。

これは教会を建設するための言葉なのです。だから、この言葉が理解できるためには、教会とは何かが分からなければなりません。主の体の教会。主が私たちのために命を犠牲にして罪の赦しを与えてくださったと信じる者はキリストと結ばれるのです。このことを知る、悟るということは、人間的な思いではできません。このことが分からなければ、自分の懐にあるものを取って、他人に与えることが恵みであるかも理解できないでしょう。

ですから、教会は御言葉を宣べ伝えて、教会の恵みに招いているのですが、この招きを聖霊が行ってくださるように祈るのです。さて、コリントの人々はこの度の慈善の業において、既に相当進んだ段階にいました。だからこそ、もしそれを途中でやめてしまったり、中途半端な状態にしておくならば、それは神の御前に彼らの不名誉となり、神の喜び給う事業であるだけに、せっかくの業が無駄にならないことをパウロは願っています。良い志を持つことは素晴らしいことです。しかし、それを更に実行することは、志すことよりもはるかに素晴らしいことです。

11節で「自分が持っているものでやり遂げる」という勧めによって、パウロは強調しているのです。神は、あなたの力では負うことができないような分までも、「あなたは献げなさい」と要求し給わないと。わたしたちは献金感謝の祈りのなかで、「献身のしるしとして捧げます」と祈ります。献身と言うと、どうやら神学校に入って牧師になる道を進むことをいうのだと理解することが多いのですが、実は、わたしたちすべての信者は、主に従う者となった者であって、本来の意味では、すべての信者が献身者なのです。ただ、私については自発的に教師(牧師)になることを志しました。あれから19年、今日の聖句「進んで実行しようと思った通りに、自分が持っているものでやり遂げることです」を読むと、考えさせられます。

私にとって、献身するということは、進んで実行しようと思ったなどということからは程遠いものでした。むしろひどく急き立てられ、強いられて献身したというのが実感でありました。ですから人の目にはどう映ったか分かりません。よほど無謀か傲慢かと思われたかもしれません。家族にとっては、私の献身は計り知れない衝撃であったでしょう。しかし、一度たりとも後悔したことはありません。なぜならわたくしを厳しく急き立てて、献身せざるを得ないようになさったのは、主なる父なる神様、御子イエス・キリスト、そして聖霊の三位一体の神様に他ならない。私はそのことを確信したからでした。

わたしたちは同じ教会にいます。わたしたちは唯一のキリストの体である使徒的教会を信じています。この使徒的、という言葉は皆様に余り馴染みがないと思いますが、こうして新約聖書に記されているように、キリストの弟子たち、パウロも含めて使徒たちによって伝えられたキリストの教えに従って福音を宣べ伝える教会は、使徒的教会と呼ばれるのです。それは、使徒信条に「われは教会を信ず」と告白している教会です。この同じ信仰を告白していることによって、わたしたちは全国全世界に出て行くことができ、また全国全世界から人々を招き入れて交わりを与えられることができるのです。聖徒の交わりは、同じ信仰に立つ者の交わりであります。そしてこの交わりをわたしたちは今日の御言葉のように聖書を通して教えられています。

同時に、わたしたちは同じ教会にいるとわたしたちが思う時、それは地上の教会、一つ一つの教会を思うことでもあります。このことは大変重要なことです。わたしたちは東日本連合長老会という目に見える近隣の教会との交わりの中で教会形成を目指しています。目に見える、ということは大変重要なことです。教会は目に見えないキリストの体の教会を信じるところに依って立つのですが、同時にわたしたちは限られた命をいただいて地上の生活をし、この限られた時と所を得て、限られた力を尽くして、心から主を礼拝する教会を建てて行くのです。

限られた命をもって献身しているので、わたしたちは罪を免れません。お金にしても、健康にしても、その他の能力にしても、絶えず「わたしにはあれが足りない、これが足りない、もっとあったら…」とぼやいていることが何と多いことでしょうか。牧師である私自身がそうだったので、本当に15年間を振り返った時に、もっと信仰深かったら、もっと主の恵み深さに心を向けていたら・・・」と反省するときに、主に対しても、成宗教会に対しても申し訳ないという思いで一杯です。

しかしこのことは、こうして共に主の戦いを戦って来た兄弟姉妹がここにいらしたからこそ、今率直に申し述べることができるのです。主の戦いは教会を建てる戦いです。主は年老いて行くわたしたちを大切にして下さいます。これまでそうだったようにこれからも、と祈り願っております。しかし、主は教会そのものを限りあるものとなさいません。すなわち、時が来てわたしたちが主の御許に召されるように、地上の教会を無くすことが御心でしょうか。そうではない。地上の教会は世の終わりまで続くのです。ですから、わたしたちの戦いは、自分による自分のための自分だけの戦いではありません。わたしたちは主の戦いを一緒に戦うために呼び出されているのではないでしょうか。地上に生きている限り、共に集い、共に御言葉を聞き、献身の祈りを捧げる教会を共に建てる時、私たちの後ろ向きで、消極的な姿勢も、また疲れ果てた心身も、丸ごと主のものとされ、罪赦され、キリストの豊かさに結ばれるでしょう。祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を賛美します。本日、わたしたちは恵みによって成宗教会の礼拝に集められ、御言葉を聞き、賛美を捧げることができました。わたしたちの貧しさを共に担って下さり、キリストの計り知れない豊かさの中に招かれておりながら、わたしたちは自分の貧しさ、乏しさを絶えず嘆くことの多いものでありましたことを懺悔いたします。あなたがわたしたちを愛し、キリストの執り成しによって罪を赦してくださったこと。このことに優る豊かさはございません。このことに優る幸いはございません。わたしたちは、主の恵みによって豊かな者とされ、もはや自分の貧しさ、自分の力が乏しいことを嘆き、恥ずかしく思わなくても良いと知らされ感謝します。どうか必要なものを豊かにくださる主が、わたしたちに互いに助け合い、支え合う心を、知恵と力をお与え下さい。特に目に見える隣人を思いやり、共に教会を建てて、その中に招き入れるために祈る者と、わたしたちをなしてください。

本日は墓前礼拝を守るために、越生の成宗教会墓所に出かけて参ります。真に感謝です。すべてが守られ、主の御名がほめたたえられますように。このお墓は主に結ばれて地上の生涯を終えた兄姉をあなたが愛してくださったことを証しする場所です。どうか、この教会とともにあなたの祝福を注いでください。

今週の主の民の歩みのすべてを導き、教会に集えなかった方々をも顧みてください。そして多くの人々に恵みの福音を聞く時をお与え下さい。

この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

貧しさの中に溢れる豊かさ

聖書:申命記12章8-12節, コリントの信徒への手紙二 8章1-7節

 神は全世界のキリストの教会を建てることを求めておられます。人はそれに対して、まず自分を立てなくてはいけない。自分の家族を立てなくてはいけない。自分の関係する地域、社会を立てなくてはいけない、と思うのではないでしょうか。もちろん、神は一人一人を生かし、その人の家族を生かし、地域、社会を生かすことをお考えになっておられないはずありませがありません。このことを、「もちろん!」と言うわたしたちは、神が全世界をお創りになり、すべてを平和の中に守ろうと望んでおられると信じているからであります。

その上で、なお、「全世界にキリストの教会を建てることは、神の御旨、望まれることである」と主張するのはなぜか、と申しますと、神は全世界の人々をキリストの体の肢となるように招いておられるからです。キリストの体に結ばれるということは、罪の赦しに結ばれる、ということです。人生を振り返ってみると、たとえ聖書にほめたたえられているイスラエルの王でさえも、多くの罪、咎、過ちを免れなかった。そのことを聖書は静かに、率直に語るのです。人が悔いても、取り返しのつかない過去を、人に代わって償って下さり、日々新たに罪赦されて生きることができるようにしてくださった方が、わたしたちの主イエス・キリストです。教会を建てるということは、キリストの体を建てることです。教会の一員となるということは、キリストの体のメンバー、肢体、部分となることです。それは、キリストの罪の赦しに結ばれることに他なりません。

使徒パウロは、キリストが十字架の死と復活を果たされた後に、キリストに従う者となりました。他の使徒たちと比べて、自分はいちばん小さい者と、自分を呼んでいたのは、キリストに出会う前の自分の過ちを思うからです。それは大変な過ちであり、教会の人々を死に至らせるほどの罪でした。彼は教会の迫害者でした。しかし神は彼を救われ、今度は教会の救いを宣べ伝える者としてお立てになったのです。

敵であったパウロを、最終的に信頼し伝道者として送り出したのは、エルサレム教会でした。わたしたちはもう間もなくペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えますが、キリストの使徒たちに聖霊が降り、彼らが伝道を開始したのはエルサレムです。しかし、使徒言行録に語られているように、やがてエルサレム教会に対して激しい迫害が起こりました。その時、使徒たちはエルサレムにとどまりましたが、多くの者が迫害を逃れてパレスチナへ、また更に遠方へと散らされて行きました。

使徒パウロは異邦人伝道に召された者として、異邦人の世界へ出て行ったのですが、パレスチナは飢饉に見舞われ、エルサレム教会の人々は非常な困窮に陥っていたと伝えられています。パウロはエルサレムから遠く離れて伝道し、教会を各地に建設して行きましたが、貧しいエルサレムのことを決して忘れてはおりませんでした。「救いはユダヤ人から来る」(ヨハネ4章22節)とイエスさまが言われたように、今、多くのユダヤ人以外の人々が救われ、罪の赦しと永遠の命に生きる者となった。神でないものに支配され、奴隷となっていた者が解放された。この救いにまさる喜びが他にあるでしょうか。しかしながら、その喜びの源となったエルサレム教会は今困窮にあえいでいました。聖霊が注がれた教会、伝道を開始した初めの教会が苦しんでいる。

パウロはこのことを片時も忘れていなかったに違いありません。彼自身も未知の土地に入って伝道する、新しい教会を建てる。それには予想をはるかに越える困難が次々と起こりました。コリント教会のように豊かな人もいて順調な教会形成がなされたかと思えば、パウロが去った後、たちまち傲慢な人々の支配するところとなってしまう。「前の教師は駄目だ」とこき下ろし、「我こそは…」と自己宣伝するのが指導者だとしたら、そうなると、教会の有り様は、主の体とは程遠いものに変って行くのです。神の御心、キリストの恵みが正しく宣べ伝えられないということは、実に恐ろしいことであります。

パウロはコリント教会に手紙を送って問題点を厳しく指摘しました。厳しく、ですが同時に誠意を尽くして、愛を込めて指摘したのでした。誠意を尽くすのは人に対してというよりも、神に対してです。たとえ言われた人には、厳しすぎる言葉であっても、神の御前に誠意をもって語る時、彼は必ず言わなければならないことを言いました。なぜなら、パウロの目的は教会を建てることだからです。ですから、愛を込めてというのも、神の御心に結び付いた愛なのです。神の愛は必ず教会に現れるはずであり、キリストの体に結ばれているところに現れるはずだからです。

そういうパウロの願いは、神に聞かれました。厳しく戒められたコリントの人々は悔い改めたからです。彼らは非常な熱意をもって、自らの間違いを正し、使徒の教えに忠実になろうとしました。このことを知らされた時のパウロの喜びは計りしれません。キリストの執り成しがここにある!だからこそ、誠実に神の御前で戒めを与え、だからこそ、誠実に神の御前で自ら悔い改める。だからこそ、今まで何事もなかったかのように、ではなく、多くの不安、不信、高慢の誤りを乗り越えた教会が、ここに建っているのです。キリストの執り成し、罪の赦しに結ばれているとは、正にこういうことです。

だから、使徒パウロは喜びに満ちあふれています。主に結ばれた者が喜びにあふれている時、自ずから心に浮かぶことがあります。それは何でしょう。それは感謝です。それは讃美です。ああ、有り難い。わたしたちはこんなに満たされている。平安と愛で満たされている。今まで、不安だったのに。またまた間違いを起こすのではないか、と。またまたひどく互いに傷つけ合い、争い合っているのではないか、と。しかし、主が助けてくださいました。これは全く主の恵みなのだ、と思ったとき、パウロはすぐに心にある計画について話し始めるのです。

それは、いつでも忘れていないエルサレム教会のことです。敵であった自分を味方と認めて、福音伝道者として認めて送り出してくれた教会。「エルサレムは、異邦人のあなたがたにとっても、また母なる教会ではないでしょうか。その教会が困窮しているのです。皆さん援助しましょう!」というのがパウロの呼びかけの趣旨です。しかし、パウロはこの呼びかけの前にマケドニア人の諸教会の話をし始めました。この援助の計画は、単にエルサレム教会が困っているから、コリントに助けを求める、ということではないのです。これは、あちらの教会、こちらの教会、どの教会も関係ある計画であります。なぜなら、どの教会もキリストの体に結ばれた教会の建設を目指しているからです。

コリントの教会はアカイア州にあり、マケドニアのフィリピ教会やテサロニケ教会はその北側にありました。パウロはマケドニアの諸教会のことをコリントの人々に称賛していますが、それは、彼らが豊かな、この世的な意味で豊かな教会であったからではありません。たとえば、礼拝出席が多いとか、建物が立派だとか、経済的に豊かな人々が多いということをわたしたちはついつい思いがちですが、フィリピ教会もテサロニケ教会もそうではなく、苦しみ、大変な試練の中にあったようです。使徒言行録にも、現地の人々や宗教との問題、ユダヤ人社会との問題、ローマ帝国の支配下での問題など、様々なことがあったでしょう。

その困難、苦難の中にあって、しかし彼らは救いの喜びにあふれていたというのです。彼らは生活に全く余裕なく、どん底状態であったにも関わらず、喜びがどん底の貧しさをついに呑み込んでしまうほどにあふれ出ました。「そんなことはあり得ないだろう」とわたしたちは思うのではないでしょうか。だからこそ、パウロは語り始めたのです。これは、マケドニアの諸教会に与えられた恵みです。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」2節で、「人に惜しまず施す豊かさ」と訳されている言葉は、「単一、単純」という意味です。それが「誠実。真心」という意味になり、「物惜しみしないこと。犠牲をいとわない気前の良さ」を表す言葉になりました。

あれこれ、考えすぎない単純さ。これが真心なのです。今の時代は何でも数値で表し、細かく計算する。80歳までにいくらいくらお金がかかる。それが100歳まで生きると・・・。いやいや、これからは120歳まで生きるかもしれない、などと計算するならば、「人に惜しまず施すほど、家にお金があるものか!」という結論に至るのは、当然かもしれません。それが全く不思議なことに、金持ちだから慈善に参加するのではなく、貧しいにも拘わらず、力に応じて、いや力以上に、慈善の業に参加したいと、進んで願い出たというのです。頼まれたから仕方なく、ではなく、自発的に、喜んで、「是非参加させてください」と熱心に頼んできたと、パウロは報告しました。

慈善事業というと、この頃はあまり聞かれない言葉かもしれません。慈善は、金持ちのするもの、というイメージを持っている人が多いかもしれません。そうすると「金持ちでない自分はしなくてよいのだ」という言い訳が立つからです。さらには、少しでも多く寄付金をする人には、「アナタはお金持ちですね」というレッテルを貼る人もいます。しかし、これはキリストの体を建てる業のことなのです。教会を建てるということが神の御心であり、キリストを信じる者に命じられている事業であることを、今日の冒頭でお話ししました。

20世紀は先進国で社会福祉が政府、自治体の事業として大々的に発展した時代でした。日本でも基本的人権という思想が定着し、だれでも思想、信条、性別、人種によって差別を受けず、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有することが憲法で定められたのです。そして、収入に応じて税金を払いますので、一般の勤労者は特に慈善事業に参加しなくても、自分が納税したお金の一部が貧しい人々の生活と健康を支えるために用いられていると考えることができて来たのです。しかし、これからはどうなって行くのか、将来が見えにくくなっていると感じる人は非常に多いと思います。格差社会と言われて久しく、目に見えない所に莫大な富が集まって行く一方、目に見えない所で大変な困窮があると言われています。しかも多くの人が豊かな方へ、ではなく、困窮の方へ落ちて行くことが懸念されているのです。

しかし、このような時代に生きる私たちだからこそ、地上に教会を建てることが目指されなくてはなりません。4節の「聖なる者たちを助けるための慈善の業、奉仕」とは、すなわち教会を建てる働きなのです。それは、神の御心ですから、私たちに与えられた義務なのでしょうか。いいえ、それは義務ではありません。カルヴァンは「援助の恵み、協力」と訳しています。パウロは施しの業を「神の恵み」と呼んで讃えているからです。わたしたちが豊かに暮らすことができるのは、恵み深い神が天から豊かに施してくださる結果であることを思う時、私たちもまた神の恵みの業によってキリストの教会を建てる業に参加できるならば、それこそは、クリスチャンに与えられた義務ではなくて、恵みであり、特別な権利であると言えるのです。

マケドニアの諸教会は極度の貧しさの中で、乏しい自分たちを捧げることを喜びとし、神の恵みとし、光栄とするほど豊かになりました。そのようにコリントの教会も、そしてわたしたちの教会も、教会を建てるために心を高く上げて、頭(かしら)であるキリストに祈り求めることが勧められています。信仰において、言葉において、知識において、熱意において、主からいただいている、また代々の伝道者から受けている愛において豊かであることを思い起こし、わたしたちも豊かな者となるようにと勧められているのです。祈ります。

 

教会の頭であるイエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。あなたは大きな者にも小さな者にも恵みを豊かにお与えになり、主イエスの贖いに結んで下さいました。私たちは今日も礼拝に参加し、聖餐の恵みに与ります。どうか、いつも教会の頭(かしら)である主を見上げ、主が私たちのために命を捨ててくださるほどに、愛して下さり、救ってくださったことを感謝する者とならせてください。

私たちは貧しさの中に豊かさがあふれ出た初代教会の信仰を、御言葉によって学びました。どうか、時代が変わり、地上の有様が変っても、変らない救いの喜びで私たちを満たしてください。苦難の中にある人々があなたを信じ、あなたを愛し、あなたに従ったという奇跡の不思議は今も変わりません。どうか私たちの小さな群れが、乏しいことにばかり目を向ける不信仰を打ち砕かれ、あなたの豊かな恵みを喜ぶ群れとなりますように。

本日は長老会議が行われます。教会を建てるために選ばれた長老たちを助け、あなたの知恵と力によってお導きください。今年度の行事が御心に従って行われますように。そしてすべての活動を通して、御言葉の豊かな御支配がありますように。総会が終わったので、教会員の方々に報告を送っています。どうか、この教会が多くの方々の祈りによって奉仕によって、助け合いによって建設されますように、大きな者も、小さな者も、強い者も弱い者も、主の聖霊によって奮い立たせてください。

そして、連合長老会の諸教会の上に、教師、信徒の皆様の上に、主のお守り、お導きを祈ります。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によってお献げします。アーメン。

神による悲しみ

聖書:エゼキエル18章30-32節, コリントの信徒への手紙二 7章10-16節

先週、成宗教会は2017年度の教会総会を開催し、前年度の活動と決算の報告を行い、そして今年度の活動と予算の計画を明らかにしました。すべて承認されました。東日本連合長老会に属するわたしたちだけではなく、日本基督教団のすべての教会は会議制を取っておりますので、定期総会によって教会の方針が決められます。また細かい日常的なことについては、すべて総会を開いて決めるのではなく、全体を代表する長老たちを選挙によって選び、長老会議に教会の礼拝から牧会まで委ねているのであります。

そこで、毎年行われる長老選挙は重要な意味を持っています。それは、教会に所属する者が祈りをもって長老にふさわしい人々を選び出さなければならないからです。祈りをもって、とは何を祈るのでしょうか。それは自分の気に入った人が当選するようにという祈りではありません。それは教会を建てて行くためにふさわしい人を求める祈りです。みんながふさわしいと思っていても、自分はふさわしくないと思うことがあります。そういう思いはむしろ自然なことで、ほとんど誰にでもある思いです。しかし、もしみんながふさわしいとは思わないのに、自分がふさわしいと思って長老になりたがる人がいたとしたら、こういう場合の方が問題です。

ですからふさわしさ、というのは、長老も牧師も含めて、自分で決めることではないことが分かります。「どうぞ、この教会を建てるのにふさわしい長老を与えてください」という祈りがあるかどうか。選挙の直前にあるだけではなく、いつも、いつも祈りに覚えることが、とても重要なことであります。というのも、教会は旅をしている船に例えられるもの。歴史の中を進んでいくものだからです。

2000年前に主イエス・キリストの御復活によって、宣べ伝えられ始めた神の言葉が、全世界の人々を救いに招きました。教会は神の言葉が告げ知らされる所です。教会は救いに招かれた人々が、招きに応えて主に従うものとなった所です。そして何よりも大切なことは、この福音が何時でもどこでも同じ福音だ、ということにあります。このことを、エフェソの信徒への手紙で、パウロは教会の人々に次のように述べています。エフェソ4章3節~6節。356頁。「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」

体とはキリストの体の教会です。霊による一致を保つために、聖書があり、聖礼典があり、聖職者が立てられ、信仰告白がなされます。パウロがコリント教会を建設し、このように手紙を送って牧会指導していたのは初代教会の時代ですから、一致のためのしるしはまだまだ整っていませんでした。しかし、霊による一致ということを一つ考えても、今日に至るまで、教会は自分たちの問題として思い当たるような様々な経験をさせられているのであります。

今、日本は観光立国を目指していると聞いております。地方に行くと、以前から外国人観光客で埋め尽くされた観光スポットなどを体験することがありましたが、今は首都圏でも、教会の周りでも、剣道の竹刀のようなものを担いでどこかを目指して行く国籍不明の外国人男性の一団がいきなり通ったりして驚くことがあります。世界中の人々がこんなに旅行好きなのかと思いますが、彼らの目的は自分たちとは違うものを体験することなのでしょうか。しかし、少なくとも、日本が自分たちの国よりも良い所と思うので来るのでしょう。わたしたちは自分が守って来たルールよりもおかしなルールがある場所、あるいはルールなどない無法地帯のような所には住みたくないし、行ってみたいとも思わないでしょう。

パウロがコリントの教会に前に手紙を書いて、厳しく咎めたのも、それと関係があるのです。福音を宣べ伝えているのは、主イエス・キリストの一つの教会を建てるためです。それが教会の主が忘れられて、いつの間にか○○さんの、××先生の教会となってしまっている。しかも、表向きはキリストの教会という看板が掲げてあるなら、どうでしょうか。このような教会に行った人は、○○さん=キリストなのかと、とんでもない誤解をしてしまうかもしれません。その上、キリストの名を使っているのに、キリストの教えとは全然違うことが教えられていたなら・・・、更には、その教会と称する場所が、無法地帯のようになっていたなら、社会の人々に大変なつまずきを与えることになるのです。

パウロは厳しいことをいろいろ書きました。そしてその忠告の手紙は、コリント教会の人々ばかりでなく、驚くべきことに、いくつもの教会に回覧されて共有されました。皆、コリントの問題を他人事とは思わなかったのです。それどころか、いつでも、いつまでも、どこまでも読み継がれて聖書正典として、神の御心を伝える言葉となったのです。そこで本題に入りますが、パウロはコリントの人々にあのような厳しい言葉を書き送ったことを、今は喜んでいると述べています。それは、厳しい言葉によって教会の人々にショックを与えたかったからではないし、心を傷つけ、悲しみに陥れたいと思ったからではありません。

パウロはコリント教会を建て、御言葉を教えた人々に深い愛情を抱いていたに違いありません。キリストの愛を知る者はキリストの愛する人々を愛さずにはいられません。主がこの人たちをお招きになっているのだ、と思うとつくづくうれしいのです。だからこそ、厳しく語った。彼らの不行状を責めたのです。そして、責められて傷ついているだろうと思うと、自分も心が沈んでいたのです。ところが、責められた人々は傷ついただけではなかった。傷ついて、自分たちの非を認め、悔い改めました。パウロはこのことを、コリント教会を訪問したテトスから報告されて初めて知りました。

なかなかこういうことは起こらないものです。人を責めることも勇気が要ります。責められた人は傷ついて怒ることがあっても、それで終わってしまうことが断然多いからです。さらにいつまでも恨まれることもあります。だからなかなか責められません。それが彼らは責められて悲しんで、本当に悔い改めた!それは奇跡的なことだったと思います。

10節に神の御心に適った悲しみは悔い改めを生じさせると、パウロは語ります。パウロはここで世の悲しみとの違いを明らかにしようとしています。まず世の喜びから語りましょう。それは何でしょうか。それは、神を思わず、神をおそれることなく、この世を楽しんでいる喜びです。すなわち、人が空しく過ぎ去って行く幸福に浸りきっている時は、もっぱら、地上のことだけを思い、天を仰ぎ見ようとしないものです。それに対して、神による喜びがあります。それは、人が自分の幸福のすべてを、神のうちに築くことです。自分のすべての喜びを神の恵みのうちに汲み取ることです。何をしても、何があっても「ああ、主が私に良くしてくださったのだ」と感謝できるのです。そういう人は、この世の繁栄を楽しむにあたっても、慎ましくそれを自分のせいにしないで感謝します。また、逆境の時にも喜びを心に持ち、それを言い表すのです。

今度はこの世の悲しみですが、地上にしか心が向いていない人は、地上の苦悩によって意気阻喪し、悲しみよって打ちひしがれてしまいます。それに対して、神による悲しみは、いつの日も、ただひたすら神を見つめている人の悲しみです。「およそ世に生きて惨めなことあっても、神の恵みの外にあることよりも惨めなことはない」と判断する人は、ただひたすら神に従う者、神に恵みを施される者となりたい願い、悔い改めに至るでしょう。だから、こうした悲しみこそ悔い改めの元となります。

キリストは何の功績もないわたしたちを値なしの救いに招いておられます。しかし、同時にそれは悔い改めへの招きであります。わたしたちが罪を捨ててこそ、主は赦しを与え給うのです。ルカ5:31「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」111上。ですから、わたしたちは皆、「自分は神の御前に罪人です」と言い表すときには、それは単なる言葉だけであってはなりません。自分の罪を知って心を痛め、悲しんでこそ、わたしたちは回心して御もとに立ち帰ることができるのです。そういう悔い改めこそ、救いに結び付くのです。しかもそれは、取り消されることのない確かな救いです。

パウロはコリント教会の人々に11節の言葉で祝福を与えています。「神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、憧れ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。」彼らの悲しみは、神による悲しみでした。深く悔い改め、自分たちの中にあった悪い行いを取り除き、よりよいものに変えて行こうと熱心に心がけるようになったのです。ここで言われる弁明とは、くどくどと自己弁護することではなく、自分の非を認め、謙って赦しを乞うことにより、身の証しを立てることです。憤りは罪への怒りであり、自分たちの過ちを激しく責めているのです。それというのも、自分が神の御前に申し開きできないことを恐れているからでした。

また「懲らしめをもたらした」とパウロは述べています。懲らしめ、つまり処罰は、悔い改めを表す重要な一つのしるしとなります。それは、神がお許しにならないと思われる罪を、まず、自分たちの間で神の裁きを先んじて来させることで、わたしたちがわたしたちの中にある罪を罰するということです。それは、まず自分自身から始めなければならない。コリント教会の人々の罪の中で最も深刻なものとして指摘されていたのは、近親相姦の罪でした。このことは教会の一部の人の罪でありましたが、そのことに対して、教会は気づいても何も対処することがなく、見過ごしにしていたのでした。しかし、パウロの厳しい指摘を受けたことで、教会の人々はその罪を一人の個人の問題として放置してはならないことを悟りました。そして罪を認めたばかりでなく、教会からこのような問題を取り除くために立ち上がったのでした。

このような熱意が示されたことをパウロは非常に喜んでいます。これは単に使徒が叱ったので、教会が悔い改めた、ということではありません。このような痛ましい事件を通して、コリント教会一同が悔い改め、悲しみの中から立ち上がって、使徒の教えに熱心に応える者となった。そのことによって、コリント教会の信仰が神の御前で証明されたのだ、とパウロは確信しました。そして彼は伝道者として深く慰められたのでした。

「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一」であるという教会の霊の一致は、揺るがされかねない事件が度々、各教会を襲いました。それはこんにちに至るまでそうなのです。いざ教会に事件が起こると、コリント教会のように、個人的な不正行為から、牧師、長老の不行状、権威の濫用、誤った教えなどによって教会が蝕まれても、解決には大変な労力を費やし、人々を疲弊させかねません。その上に外から降りかかる時代の嵐、怒涛があります。歴史を進む旅する教会はこうして難船難破の危機にさらされ続けて来ました。

それにもかかわらず、教会は今も歩みを続けています。今も世界中で、目新しいものを捜している観光客にではなく、主に招かれた人々と共に生きるために、御言葉を宣べ伝え続けています。わたしたちの教会も創立から77年を迎えました。目標は昔も今も変わっていません。それは、主のご復活の時から変らないのです。主の教会に結ばれて、わたしたちは悔い改めに生きています。教会が悔い改めに生きる時、高慢な者も自分を悲しみ謙る者とされます。その時、かつて厳しく咎めた者が、咎められた者に「あなたがたのことを誇りに思う」と言うことができるのです。「あなたがたを信頼できる」と言うことができるのです。なぜでしょう。なぜ、このような奇跡が起こるのでしょう。わたしたちは主に結ばれているからです。主の執り成しに結ばれているからです。悔い改めて、イエス・キリストの執り成しに信頼する教会にこそ、真の教会を建てる希望があります。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま、

御名をほめたたえます。成宗教会にわたしたちを集め、御言葉によって悔い改めと罪の赦しを新たに与えてくださいましたことを感謝します。先週わたしたちは教会総会を開くことができました。また新たに長老を選出することができました。力足りない者に力を与え、心弱い者に勇気を与える神様、どうかわたしたちにこの小さな群れを通してご栄光を顕し、慈しみ深い御心を顕してくださるあなた様の御声に耳を傾ける教会とならせてください。初代教会の時代に右も左も分からず、また何の見通しも無く困難に満ちていながら、心はあなたへの感謝、キリストへの愛に満たされていた教会のことを思います。わたしたちも一人一人は後何十年も生きられる者は少ない群れですが、教会の長い歴史、そこに与えられた一筋の信仰に連なって参りたいと思います。

成宗教会の77年の歴史の中に多くの労苦がありましたが、主に結ばれて生涯を全うした教師、信徒にわたしたちも続くものでありますように。悔い改めを起こし、救い主イエス・キリストの贖いの恵みにすがらせてくださるのは、ただ主の御力、聖霊のお働きです。わたしたちは喜びの中に、感謝の中に、主の御業を待ち望みます。

どうか総会で決議された諸計画、諸行事の上にあなたの導きをお与えください。そしてわたしたちすべての者が祈りによって伝道の御業のために働く者とならせてください。今日もいろいろな事情で教会に集うことのできないでいる方々に深い顧みをお願い致します。

この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

復活の主に出会う時

聖書:イザヤ書12章1-6節, マタイによる福音書28章1-10

 主イエス・キリストは陰府の支配を打ち破り、ご復活されて、不滅の命を顕してくださいました。今から二千年前エルサレムで起こった出来事であります。神は主の御復活の善き知らせを、だれに最初に知らせることを望まれたのでしょうか。主イエスの弟子たちには、真っ先にお知らせくださったというならば、だれでも納得したことでしょう。ところが、弟子たちではなかった。最初に復活を知らされたのは、婦人たちでした。彼女たちはガリラヤから主イエスに従って、主と弟子たちの世話をしていた人々でした。厳密に言えば、彼女たちも弟子ではありますけれども、この時代の婦人たちは数に入っていない存在でありました。神はしかし、彼女たちにご復活の主を最初に示してくださったのです。

なぜでしょうか。人類の歴史はほとんど男性優位社会であったのですが、神はそれを覆して、女性の方が値打ちがある、と言われるのでしょうか。そうではないと思います。キリストの弟子たちは皆逃げ去ってしまい、主の葬られた墓に近づくことも恐れていました。自分たちも主の弟子であったことを咎められ、危害を加えられるのではないか、と怖かったのです。ところが、婦人たちは彼らとは全く違う行動に出ました。彼女たちも嘆き悲しみの中にありました。しかし彼女たちはなすべき務めを思いました。主のご遺体に対して香油を塗って差し上げなければならない。そこで立ち上り、てきぱきと出て行きました。お墓がどうなっているのか分からない。そこに入れるかどうか分からない。それでも主にお会いしに行く。正確に言うと、主のご遺体に会うために行ったのです。

その時大きな地震が起こりました。神がイエス・キリストを復活させてくださった。その恐るべき出来事の重さを地震によって、神は彼女たちにお示しになったのではないでしょうか。その時、主の天使が天から降って、墓を塞いでいた大きな石を転がした。その石の上に座った。それらは、主が復活されたことを告げる出来事の重大さを物語っているのです。その稲妻のように輝く姿を見た見張りの者たちは、恐ろしさのあまり死人のようになった。正に死ぬほどの恐ろしさであったのです。これらの証言を、信じるとか信じられないとか論じる人々は、この二千年あとを絶たず、いつの時代にもいます。しかし、主がご復活されたことを世に知らせるのに、このような方法を選ばれたのは、神御自身であります。すなわち、主は御自分が生きておられることを、天使たちによって婦人たちに宣言されました。次に、その後すぐ主御自身が彼女たちにお姿を現されました。そして最後に使徒たちに、様々な機会に御自身を現されたのです。

使徒たちは、自分の身の安全ばかり思って外に出ることを恐れ、閉じこもり、ますます自分たちの裏切りを思い、落ち込むばかりでした。それに比べると、婦人たちは主のご復活を信じていなかった点では使徒たちと何も変わらなかったのですが、それでも落ち込んでばかりはいられなかった。彼女たちは主に対する愛と感謝を忘れませんでした。だから主の死を悲しみ痛む思いをどうしても形に表さずにはいられませんでした。信仰の弱さにおいては同じであっても、主は主に近づこうと行動する婦人たちの愛と感謝の姿に報われました。そして天使を遣わされ、この言葉を与えたのです。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、(見よ)あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」と。

婦人たちは、彼女たちは天使の言葉に心底喜んだのでしたが、同時に非常な恐れに打たれたので、歓喜と恐怖で心が混乱していました。もし、彼女たちの信仰が優っていたのなら、心は恐怖に打ち勝って平静になれたことでしょう。しかしこの時はどうしても、歓喜に溢れると同時に、恐ろしさも心にこみ上げて、まだ天使の証言を完全に信頼していたのではなかったのでした。そんな状態でも、取るものも取りあえず、彼女たちは素直に従順に天使の命令に従っていました。すなわち、弟子たちの居る所に走って行きました。人の数にも入っていないという女性たちが弟子たちのところに行って「あの方は死者の中から復活されました」と報告したとしても、果たして「女の言葉なんか信じられるか」という男社会であったかもしれないのです。しかし、彼女たちはそういうことを心配する、あれこれ考えるゆとりはありませんでした。ただ、天使が命じる言葉を届けようとする一心で走ったのです。

このように最初の福音の伝道者は、実は使徒たちではなく、女性たちでありました。そして、それは彼女たちが何か進んでその務めを果たすことを引き受けたのではありません。信仰弱い者、体も頑健ではない、そのような婦人たちに、主は一時的にせよ、福音を伝える務めをお与えになりました。「イエスさまは生きておられます!」と告げるために彼女たちは一生懸命走って行きます。こんなに嬉しい知らせはありません。でも、よく考えてみると、彼女たちは天使に聞いただけなのです。本当にそうなのだろうか、という疑いが少しも起こらないでしょうか。

わたしたちも弱い者だから、心も体も魂も丈夫な者ではないから、同じような経験をしているのではないでしょうか。わたしたちは教会にいる。教会の主は生きておられる、と宣べ伝えるために頑張っているはずではなかったでしょうか。それなのに、主を喜びながら、しかし、どこかで半信半疑なのではないでしょうか。大体、一生懸命走っているうちに、わたしたちは忘れてしまってはいないでしょうか。何のために走っているのか。どこに走って行くのかを。そしていつの間にか思っていること、心にかけていることは、自分の弱さのこと。自分の力不足のこと。そして人と比べ合うこと。人と比べてがっかりすることばかり、等々。しかし更に、人と比べて「自分の方がまだましだ」と思うならば、わたしたちはますます教会の本来の目的から大きく外れてしまっているのです。

本来の目的。それは福音であります。福音は「イエス・キリストは死者の中から復活されました」と告げ知らせることから始まりました。そして、この知らせを信じるか、信じないかに、わたしたちの救いがかかっています。教会の救いは、わたしたちが、十字架に死んで甦られた主を、今も生きておられる主を信じるかどうかにかかっているのです。

さて、わたしたちは今日の復活の物語の中で、主がどんなに恵み深い方であるかを知らなければなりません。婦人たちは天使の言葉に従ってこの素晴らしい喜びを伝えるために走ったのですが、やはり心は弱く、喜びながら怖がり、怖がりながら喜ぶという、気が変になったかのような状態でした。その時主が現れてくださったのです。そして一言、新共同訳では「おはよう」と言われました。この言葉はユダヤの人々の普通の挨拶であったから、このように訳したのでしょうが、口語訳では「平安あれ」と言われました。文字通りのギリシャ語の意味は、「喜びなさい」です。そして宗教改革者カルヴァンも、平安があるようにと訳しています。半笑い、半泣き状態の彼女たちに平安を賜るために、そして何よりも確信を賜るために、主は御自身を喜んで与えられたのです。一番初めに。一番弱い者たちに。

ご復活の主に出会った婦人たちの喜びは想像することができません。彼女たちは主イエスに近寄って主の御足を抱いたと書かれています。それは、この当時の慣わしで、普通、王、支配者に対する服従と恭順の表現であったそうです。ヨハネの福音書では、マグダラのマリアがあまりに地上的な思いで主に縋り付くので、主は「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われ、御自分に触れることを禁じられたのでしたが、最初はそうではなかったと思われます。このように足に触れさせることによって、主は婦人たちに、御自分が決して夢幻ではなく、現実に生きておられることを確信させようとされたのであります。すると、彼女たちはひれ伏して主を礼拝しました。なぜなら彼女たちは、その時こそ主がよみがえられたことを知ったからでありました。このようにして主は信仰弱い者の疑いの雲を吹き払ってくださるために、弱い者のために現れてくださったのであります。

それから主は言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」もはや彼女たちは恐ろしいと思ってはいません。ですから、むしろ「主は恐れるな、と言われたのではなく、喜びなさい、すべての悲しみを投げ捨てなさいと言われたのだ」と宗教改革者は論じます。信仰の平和を得て、わたしたちは「キリストに心を高め、死を克服した主に向かって自分を高くするのだから、快活に元気になりなさい」と命じられているのです。

しかしながら、わたしたちが本当に主のご復活を知ることになるためには、主イエスを救い主と信じ、洗礼によってわたしたちの罪を言い表し、主のご復活の命を分かち合う者とされなければなりません。わたしたちは真に疑いと不安に支配されやすく、信仰の確信に満ちた状態からは程遠いと言わなければなりません。だからこそ、主の御語りくださる御言葉にこの肉の耳を傾けることが必要なのであり、肉の耳を傾けて礼拝し、肉の唇から信仰の告白と賛美の言葉を捧げて礼拝することが、実に大きな恵みとして、地上に生きるわたしたちに与えられているのです。

主は、婦人たちを励まして、彼女たちに役割、務めをくださいました。それは、使徒たちに福音を告げ知らせることです。こうして弱い者である婦人たちが、役割を与えられてやがて強い者となる使徒たちを助け、支えていく。これこそ、主の御心。神の愛の働きであります。ご覧ください。主が使徒たちを「わたしの兄弟たち」と呼んでいるのを。復活の主イエスは、御自分の苦難の時に、見捨てて逃亡してしまった弟子たちを「兄弟たち」と呼ぶのです。復活の主は、なお彼らと兄弟の絆で結ばれていると言ってくださいます。

キリストが彼女たちにこの知らせを弟子たちに告げるように命じた時、この知らせによって主は再び彼らを集め、散らされ、倒されていた教会を起こされました。なぜならわたしたちが倒れてしまっても、絶望的な状態に陥っても、再び燃え立たせられることができるとすれば、その力はこの復活の信仰によってのみ与えられるのですから。弟子たちが滅びるばかりの状態から、命を回復させられたのは当然のことでありました。

わたしたちは、ここでも、キリストの驚くべき御好意に注目するべきであります。弟子たちに、卑怯にも主を見捨ててしまっていた者らに、兄弟の名をお与えになるほどの御好意に!主はそんなにも好意的な呼称を、意図的にお与えになったことは疑いありません。主は彼らが非常な悲しみに苦しんでいることを御存の上で、彼らを慰めてくださったのです。このように使徒たちを「わたしの兄弟」と認めてくださる主イエスは、この二千年の歴史の中でわたしたちに至るまで、そして世の終わりまで、教会の主に結ばれる者に「わたしの兄弟姉妹」という名をお与え下さっています。

真に畏れ多いことであり、また感謝に絶えないことであります。ですからわたしたちは復活の物語を無関心に聞いてはならないのです。また、兄弟姉妹と呼び合っているのは血縁でも地縁でもないわたしたちが主の兄弟姉妹とされていることを決して疎かにしてはならないのです。そして、何よりも大切なことは、キリストが御自身の口によってわたしたちをお招きくださり、主の兄弟姉妹となるようにと御好意をお与えくださるのです。この主の恵み深さを知り、死をも命に変えることのお出来になるキリストを礼拝し、主と共に生かされますように。イースターおめでとうございます。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

2017年のイースター聖餐礼拝を感謝いたします。主はわたしたちの弱さ、心の頑なさ、思い上がりの故に十字架に掛かり、わたしたちに代わって罪を償ってくださいました。わたしたちは神の御好意、慈しみを信頼せず、自分を頼り、さ迷っておりましたが、主は御復活の命をもってわたしたちを呼び集めてくださり、罪を悔いる者に御自分の執り成しによる赦しをお与えくださいました。

真に感謝申し上げます。わたしたちは今日、あなたが復活の最初の証人として弱い者を立てて用いてくださったことを学びました。今、多くの人々が弱さを覚え、貧しさを覚えております。教会にいる小さな者を用いて福音のために務めを与えてくださりありがとうございます。わたしたちの主のご復活によって、あなたは死ぬ者をも生かす神であることを知りました。打ちひしがれた者、弱り果てた者と共にいらして立ち上がらせてくださる神であることを知りました。どうかわたしたちを用いて聖霊の御力によって、主のご用に生きる者としてください。

来週は教会総会が予定されています。そこで行われる報告の上に、計画の上に、あなたの恵みの導きを祈ります。また長老選挙の上に御心を行ってください。教会員の皆が教会を建てるために奉仕する志を与えられますように祈ります。真に集まることさえ困難な方々が増えている中、あなたの御心があれば、健やかな教会が建てられることをわたしたちは確信し、祈ります。どうか、わたしたちが主イエスの命に結ばれ、あなたの御心、ご栄光を映し出す教会となりますように。そのためにわたしたちも、家族も、仕事も整えてください。良いものすべてをわたしたちのために備え、下さろうとしておられる主よ、わたしたちの罪、咎、過ちを取り去り、共に助け合って、終わりの日まで主の許にとどまる幸いな者としてください。

若い方々、仕事に追われている方々の生活を顧みて、主を礼拝する恵まれた生活へとお導きください。また、高齢の方々の礼拝生活があなたの祝福を豊かに受けますように。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

いちばん上になりたい者は

聖書:創世記25章29-34節, マタイ20章20-28節

 受難節も第5の主日となりました。先週の聖書は、主イエスが三人の弟子たちを連れて高い山に登られた話でした。その山の上で主がまばゆく光輝くお姿に変わるのを弟子たちは見ました。主はこれからエルサレムで苦難を受け、十字架につけられ、死ぬことになっている。そして三日目に復活することになっていると言われました。これからの苦難の道は主イエスにとって耐えがたい道でありましたが、それは弟子たちにとっても耐え難い試練となることを、主イエスは良くご存じでした。

そこで主はこの三人を連れて山に登られたのです。その目的は、弟子たちの中から特に選ばれた三人に、御自分の栄光のお姿を見せて、彼らをその証人とさせることであったのです。その三人とはペトロ、ヤコブヨハネでありました。ペトロは御存じのとおり、主から岩、ペトロというあだ名をいただいたシモン・ペトロであります。彼は主イエスに信仰を告白しました。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。

主はこの告白を大変喜んで下さり、「わたしはこの岩の上に教会を建てる」と宣言なさいました。「その教会は陰府の力もこれに対抗することはできない。」こんなにまでほめられたペトロですが、しかし、すぐさま大変なお叱りを受けたことも、聖書に書かれています。ペトロは叱られました。「サタン、引き下がれ」と。いくら何でもサタンとまで言われるとは。しかし、ペトロはそれほどの間違いをしたからです。すなわち、彼は主がこれから受けようとしている苦難を否定し、十字架の死を阻止しようとしました。ですから、主の御怒りはごもっともだったのです。「あなたはわたしの邪魔をする者。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」神のご計画を阻止しようとする者は、だれでもこのように大変なお叱りを受けるでしょう。

わたしたちは果たして神様のご計画を知っているでしょうか。いちばん弟子と見なされていたペトロでさえも、こうなのですから、本当にわたしたちもまた、神様のご計画、主の御心から遠いこと、外れたことを言ったり、したりしているかもしれません。ですから、このようなわたしたちが礼拝に参加して、聖書を読み、教えを受け、心新たに学ぶことができますことは、真に幸いなことです。さて、今日は続いて、ペトロと共に、主に招かれて御一緒に山に登ったあとの二人、ヤコブとヨハネが登場します。すなわち20節にゼベダイの息子たちとあるのは彼らのことです。

マタイ福音書では本人たちではなく、母親が願い事をしているように語られています。しかし、これはやはり、本人たちの願いなのであります。それは、主イエスが母親に答えないで、直接本人たちにお尋ねになっておられることからも真実でありましょう。「一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に」座らせてくださいということは、要するに一番上の地位をくださいと願っているのです。実にここには人間の虚栄心がまざまざと姿を現しているのではないでしょうか。忠実に熱心にキリストに従っている人々の心に、思いがけないこの世的な、自己中心的な野心が混ぜ合わさっている。

「教会の中で立派な人だと思われたい。」「あの人はいちばん重要な人物だと認められたい。」「あの人抜きの教会は考えられないと言われたい。」このような思いが牧師の中にも、長老、信徒の中にも起こって来る。それがキリストを悲しませ、悩ませる教会の欠陥となりかねないのです。そういう人々は、単純にキリストに従うこと、キリストと共にいることだけでは満足しないからです。主に従って来たのだから、何か特別なもの、自分の希望のものがもらえるのでは、と考え始めます。

ヤコブとヨハネは、ペトロと共に熱心にキリストに従って来た人々でした。主イエスもまた、彼らを愛して特に親しく傍に置いたように思われます。しかし、愛する主から「神の国が近い」と言われた時(神の国、という言葉は、王国という言葉ですから、キリストが王として御支配してくださる王国です)、彼らはにわかに心が騒ぎました。その王国で自分たちはいちばんの地位を得たい!この野心は一体何なのでしょうか。なぜ、一番になりたいと思うのでしょうか。ただ、老いも若きも男も女も、主に従って幸せなのではないでしょうか。主が救い主であるのですから、そう信じて、信じた通りに救われて――それだけで幸せなのではなかったでしょうか。

わたしたちが教会の主に出会うということは、教会で一番になるためだったのでしょうか。そんなはずはありません。私は15年成宗教会に仕えて参りました。ここで、多くの方々に出会いました。今はここにいない方々、天に召された方々も含めて多くの方々が、私に証しを残してくださいました。すべてを詳しくお伝えすることはできませんが、戦後の貧しい時代から、高度成長期の時代から、成宗教会を通して、主が御自分に招いてくださった方々は、沢山おられます。わたしたちは、ごく一部の方々を覚えているに過ぎないのですが、キリストに出会い、救われた人々は、必死で生きていたようでした。日々の生きる戦いの中で、主が共にいてくださることだけに光を見い出した方々でした。彼らは主につき従って行くことだけを求めていたと思います。

それが、少し生きることにゆとりができると、キリストに従い以外のことに目がそれ、心が向くようになるのかもしれません。いちばんになりたい。自分がほめられたいという自分中心の価値観。教会の外では当たり前のようになっている欲望が心に首をもたげ、もっともらしいチャンスが与えられた時に、名誉を求める欲望が前面に出て来る。そして、せっかくわたしたちが歩み始めた信仰の原点を、出発点を忘れてしまうようなことにならないようにしなければなりません。主はわたしたちに尋ねておられるのです。「あなたは一体どこを向いているのか、どこに歩いて行こうとしているのか。わたしに従っているのではなかったのか」と。

22節に、主は言われました。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」本当に彼らは自分たちが願っていることが分かっていないのです。ところが、自分では分かっている、と思っているのですから、問題は深刻です。キリストの王国で一番に、というヨハネとヤコブの願いは愚かな願いでありました。いちばんになるか、ならないかは、神様が自由にお決めになることです。御心のままになることを喜ばない、満足しないで、自分の思いのままになることを望む者は、神に喜ばれる者とはならないでしょうから。そして、もう一つの問題は、彼らはキリストの王国がどんなものか分からないのに、勝手に空想していることです。この世の王国のイメージの延長線上で考えているのでしょうか。

主は既に御自分の受けるべき苦難をお示しになっていました。十字架と復活を予告されました。その上で、「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と言われたのです。「これから受ける苦難をできるならば避けたい。自分に定められた杯を避けられるものなら・・・」と主は苦しまれるのです。しかし、主イエス・キリストの務めは、多くの人々の救いのために、道を開くことであります。

それだから、主イエスはこのことを彼らにお示しになりました。もし人間が自分の落ち度、自分の過ちのために罪を負わなければならないとしたら、落ち度のない人、過ちのない人はいないのですから、だれも救われないでしょう。その上に、自分の落ち度、自分の過ちを他人に負わせ、家族友人社会の罪を互いに負わせている世界であります。そこにどうして救いがあるでしょうか。誰がこの罪の世から救い出されることができるでしょうか。キリストは世の罪を贖うために苦難を受けてくださるのです。「わたしに従うことができるのか」と主は問われました。するとヤコブとヨハネはすぐに「できます」と言いました。

何も考えずに即答できる単純さ、そして傲慢さがそこにありました。イエスは言われました。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」確かに彼らは何も分かっていなかったのです。主は戦いに備えようとしておられます。その戦いは、直接的にはこの時代のユダヤ人指導者たちとの戦い、王侯貴族との戦いであったかもしれませんが、彼らを支配している傲慢さ、神に対する不信仰、神のお遣わしになった救い主に対する妬みと怒りと軽蔑。すなわち、この世の罪、神への反逆との戦いであったのです。確かにこの戦いは勝利に終わります。主は必ず三日目に復活され、わたしたちの救いと成り給うのです。

しかしながら、今は戦いの時でした。今、なすべきことは何でしょうか。弟子たちに与えられている職務、与えられている賜物を総動員して、どうしたらこの世の罪と戦うか、それを必死に考え、また実行に移していくべき時。一日一日に勝ちがかかっている。一瞬一瞬が勝負の時なのです。それなのに…です。ヤコブとヨハネは母親まで利用して、御前に願い出たのです。彼らの願いはまるで「勝利の行進パレードでは、主と並んで凱旋の先頭に立たせてくださいよ」などと頼んでいるに等しいのに。悪魔の火の矢が飛んで来るさ中に、いったいそんなことを考える余裕があるのか。そのことを主は厳しく指摘されたのではないでしょうか。

さて、この時は、ヤコブとヨハネの思い上がりによって、彼らの虚栄心はあからさまになったわけですが、では、「他の十人にはそれがなかったのか」と言えば、事実は全くその反対でありました。24節。「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。」彼らの怒りは、彼らもまた口にこそ出さないけれども、その野望を持っていたからこそ、腹を立てたのでした。

私が洗礼を受けた40年前は、クリスチャンというのは立派な人間だという印象が日本の社会にありました。そのおかげで、私は父から事あるごとに「お前はそれでもクリスチャンか」と批判されて、いやだなあと思ったことでした。今日の聖書の話を読むならば、世の人々は「何だ、クリスチャンも世の中の人も全然変わらないじゃないか」と失望するでしょうか。それともそれ見たことか、と軽蔑するでしょうか。私たちは常日頃、教会の中で共に教会の主にお仕えしたいと思っておりますので、ヤコブにもヨハネにもペトロにも、慰めを受けるのではないかと思います。「こんなに偉い聖人として2千年も教会に記憶されている使徒たちも、何だか、わたしたちとほとんど変わりないなあ」と。

ですから、そんな使徒たちも、こんなわたしたちも、確かに自分の力で救われたのではないことがよく分かります。ただただ、主を信頼して、闇雲に従って行った弟子たち。自分の言っていることの意味も分らない。まして、キリストの御復活のことなど、どうして分るでしょうか。しかしこのような弟子たちを主は愛して、その愚かさを忍んでくださいました。ここに語られているのは、ただ恵みによる救いです。そればかりでなく、主は彼らを救い、彼らを教育して、宣べ伝える者、福音を教える務めをお授けになったのです。

主は御自分の王国と、この世の王国の違いを教えられました。この世界には序列があります。いちばんがあり、上があり、下があるのです。王様がいて僕がいるのです。社長がいて平社員がいるのです。そのことを主は否定されたのではありません。しかし、教会に与えられている職務はそれとは全く違うのです。キリストはこの上なく高い所から降られ、この上なく低い所にいる者の救いとなられました。キリストは救いの土台となってくださった。土台はいちばん低い所にしっかりと上に建てられたものを支えているのです。

それだから、キリストの体である教会では、「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」と主は命じられました。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」ローマ5:15を読みます。「しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」280上。キリストの死こそは、多くの人を救う恵みの賜物となったのです。祈ります。

 

主なる父なる神さま

わたしたちの心の頑なさにも拘わらず、慈しみを注いで下さり、十字架の苦難を耐え忍んでくださった恵みの主イエス・キリストを感謝いたします。わたしたちの小さな群れにも多くの救いの歴史を残してくださり、ありがとうございます。あなたの御子救い主の宣べ伝えた福音がこの教会を建て、キリストの御体の肢とされて、77年が過ぎました。2017年度、新たに歩み出す教会の歩みを、聖霊の御力によって守り導いてください。新年度も御言葉が豊かに与えられ、わたしたちが新たに主に従う者と作り変えられますように。

初代の教会から今に至るまで、主は従う者を見捨て給わず、主のご栄光を証しする者として喜びの生涯をお与え下さいました。どうかわたしたちも、この教会を通して主の救いに結ばれ、ご復活の命をいただくものとしてください。連合長老会に加盟して4年が経過しました。教会が地域ごとに学び合い、助け合っていくことを知り、感謝します。あなたの恵みの高さ、深さ、長さ、広さを教えられ、感謝の中に成長させてください。礼拝に集うことの大切さを実感しながらも、集うことが困難な方々が多くおられます。どうかこの時こそ、互いに支え合い、聖霊の神様の助けを祈り合うことができますように。どうか日々、主の戦いを共に戦い、主の勝利の列に加えられる群れでありますように。わたしたちそれぞれの家に、職場に、施設に、病院に、主の恵みの御支配が輝きますように。来週は受難週、そしてイースターを喜び迎えます。2017年度の教会総会まで、どうかその準備を祝し道筋を整えてください。

この感謝と願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。