キリストの優しさと寛大さをもって

聖書:イザヤ42章1-4節, コリントの信徒への手紙二 10章1-6

 先週の月曜日、夕暮れ時の横浜、馬車道から歩いて指路教会に向かいました。そこを会場にして開かれる全国連合長老会の教会会議に先立つ礼拝でした。旅行鞄を引いて全国から集まって来る94教会の議員たちで会堂は満席でした。日本基督教団の長老派の教会は改革長老教会協議会という運動体をもっていますが、その中心を担っているのが、連合長老会です。普段は地域長老会の中で活動していますが、年に一度こうして集まり、礼拝を捧げ、会議に望みます。

牧師たちが顔を合わせるのは、年に一度か二度なので、お互いに少しずつ年を取って行くことがよく分かります。苦労がにじみ出ている。自分の教会のことだけでも本当に大変です。教会員の安否、求道者のこと。災害を経験した教会も数多くあります。会堂の保全。地域社会とのこと。家族のこと。嬉しい騒ぎならば良いのですが、そうでないトラブルも沢山あります。子育てや教育で悩みを抱えながら、親の介護で、中には寝たきりの配偶者の介護で苦労しながら、という教師もいます。自分のことだけで手いっぱいの教会、そしてそれぞれの教会でも、自分の悩み、困難を抱えていない人はほとんどないかもしれません。

それなのに、集まって来る。遠くから来る人々のために交通費補助をしますと言って、集められるのです。教会は不思議なところです。疲れ果てている月曜日の夕方、電灯の明かりの下での礼拝で聞く招きの言葉。最初の方にいきなり唱和する十戒。熊本錦が丘教会の牧師が司式、説教、聖餐のすべてをつかさどりました。そして信仰告白はニカイアコンスタンチノーポリス信条を唱和しました。これは使徒信条と並ぶ基本信条です。その成立は古く4世紀です。シーンと静まり返った会堂に響く、司式者の祈り、御言葉を聴き、賛美する時、私たちはただ、今を生きているだけでなく、キリストと共に生きたすべての時代に連なっている心地がしました。苦労の山、問題の山の中で、同労の教師と出会う。長老と出会う。今回は赤ちゃんをあやしながらの教職が二組いました。不思議な力を受け、慰められて、また全国に散って行ったことでしょう。

そうすると、初代教会に山積する問題も、不思議に身近に感じられるのですが、パウロはこれまでコリント教会の人々に、捧げる心、奉仕について勧めをなしてきました。これはコリントの人々がパウロの伝道者としての忠告、教会を建てる者としての忠告を、彼らが聞き入れて、悔い改めを形に表したからです。こうしてパウロは教会の人々と心を通わせることができた。再び信頼関係を回復することができたからこそ、奉仕について勧めをなしたのでした。それは実状を知り、共に悩むからこそ築かれる信頼ですが、その信頼は人対人の信頼でないことは、既に何度も申し上げました。コリントの人々がパウロを信頼するということ。パウロがコリントの人々を信頼するということだけなら、教会は建てられないのです。両方が信頼しているのは、教会の主、イエス・キリストへの信頼です。そしてイエス・キリストが身をもって示してくださった神への信頼です。この信頼、信仰を土台とするからこそ、教会は建てられるのです。

奉仕する側は神に奉仕するのだと思い、奉仕できることを感謝する。また奉仕を受ける側も、神からの恵みだと思い、感謝する。こうして生まれる奉仕は特定の人にだけできるものではなく、また特定の人に対してだけなされるのではない、という理解もまた、わたしたちが神の公平、神の隔てない愛を見上げているからなのです。

同じように、10章でパウロが新たに始めた議論もまた、人間的な思いから出たものではありません。「このわたしパウロが、キリストの優しさと心の広さとをもって、あなたがたに願います」というところに最初に注目しましょう。このわたしパウロが、という主語は大変に強調されています。わたし(エゴー)という主語は普通言わないのですから。わたしパウロは、どんな人でしょう。あなたがたの中にはこう思っているのではありませんか、と彼は言いたいのです。つまり、コリント教会では、パウロを軽く見る人々でこんな陰口が叩かれていたようです。「パウロは面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」と。

「弱腰」という言葉は「慎ましい」という意味です。しかし、「小さくなっている」ともとれるのです。それでパウロを貶めたい人々は、「あの男は気が小さくて、面と向かっては言いたいことも言えないから、犬の遠吠えのように、遠くにいる時に厳しいことを言って我々を指導しようというのか」と批判し、ますます軽蔑していたようです。しかし、教師という者はできるだけ穏やかに教え、受け入れてもらえるのなら、それが一番良い方法です。まして主の教会を建てるのに、脅したり、強権的に抑え込んだりするべきでしょうか。

今日の旧約聖書に読まれましたイザヤ書はイエス・キリストのご性質、お姿を指し示しています。救い主は「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」方です。主イエスも新約聖書マタイ11:29-30で次のように教えられました。21上。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」正にこの柔和さこそ、主イエスが身をもってわたしたちに表してくださったものであります。また日々、御自身の僕たち、すなわち教会を伝道牧会する者たちを通して表してい給うものであります。

ところが、残念ながらコリント教会には、そのようにパウロを見ることができない人々がいました。後から来た指導者たち、パウロに敵意を抱く人々は、パウロが肉に従って歩んでいると思っているのでした。「肉に従って歩む」とは、普通の意味では、不誠実な行為。たとえば汚職、賄賂、今はやりの忖度などでしょう。しかし、この場合は外見のことです。うわべのきらびやかさ、見せびらかしは、自分をよく見せようとする人のすることです。そういう外見しか見ない人は逆に、パウロの目に見えて優れたところのない肉の姿を見て、「あいつは外見通りのみすぼらしい、つまらない人間だ」と見下しているのです。パウロは、この世の人々が称賛するような賜物は何も授かっていなかったようで、群れの中のごく平凡な一人に過ぎないかのように侮られていたというわけです。

しかし穏やかに教えても通用しない人々に対しては、離れている時しかできないだろうと鼻で笑っている強硬な態度を、離れている時ではなく、近くにいる時に取りますよ、というのです。それは最後の手段であって、そうならないように願っているのです。パウロは「肉において歩んでいる」といいます。この肉とは「肉体を持って生きている」ということです。また「世の人々と交わりを持っている」ということです。従って、自分の肉の弱さ、交わりの中での試練をも絶えず経験します。しかし、それがあればこそ、伝道をすることができ、また伝道しなさいと言われているのです。

しかし「肉に従って戦うのではない」とパウロは断言しています。肉に従って戦うとは、人間的な手段を頼りにして戦うことであります。人間的な手段、すなわち、頭がよい、姿がよい、声がよい、地位がある、名誉がある、お金がある、いくらでも挙げられますが、実はこれらも一つとして上からの賜物として人に与えられなかったものはありません。それなのに、少しも天を仰いで感謝することがない。神に栄光を帰すことがない。その中に召し上げられるでしょうが、人は日々、感謝するチャンスを逃しているようなものです。

パウロは戦いと言います。クリスチャンになることは、主の戦いに参加することに他ならないからです。わたしたちはもう戦争はいやだ、平和が良いと思っておりますが、実はキリスト者の生涯とは、絶えざる戦いであります。なぜなら、神に仕える身となるならば、サタンとの間に休戦条約を締結することは決してあり得ないからです。もし、神の僕としての戦いを止めれば、楽になる、平和になると考えるでしょうか。逆に平和になるどころか、サタンから絶えざる攻撃を受けるので、わたしたちには絶えず不安と苦悩が付きまとうことになるでしょう。

では、わたしたちの戦いの武器は何でしょうか。それは神に由来する力、聖霊の力であります。従って戦いは霊的な戦いです。パウロは福音の宣教を戦いに例えています。その力は要塞をも破壊することができるのです。このことから、イエス・キリストの真実な僕の特徴が語られていることが分かります。すなわち、主に従う人々はどんなに肉の弱さに包まれているとしても、その弱さによって主の戦いに加わることができないということはありません。なぜなら神の霊的な力は、弱いわたしたちの中に燦然と光輝くからです。Ⅱコリ4:7を思い出しましょう。329上「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」

この戦いに先頭に立って主の旗を掲げる者は、御言葉に仕える者、すなわち牧師職にある者です。とにかく牧者は主の旗を掲げて他の者に先駆けて進む者とならなければならない、と宗教改革者は申しました。サタンが最大の苦痛を与え、最も激しく責め立て、最もしばしば仕掛けてくるのは、これらの仕え人、牧師に対してであると。私もそう思います。成宗教会の77年の歴史の中に大変な試練の時がありました。成宗教会だけではありません。多くの教会が経験したこと。また、今まさに経験していることです。その試練は、貧しさや病苦や災害もありましたでしょう。

しかし、それよりももっと辛いことがあったに違いありません。それは端的に言えば、十戒で与えられている戒めに反することが、世の中に満ちあふれている悪が教会の中にも入り込んで来る。牧師を苦しめ、役員、長老を疲弊させるような罪。それはコリント教会で起こったことであり、全世界の教会でも、起こらなかったと自慢できる教会は恐らくほとんどなかったことでしょう。心を一つにして祈れるなら幸いですが、それもできないような苦しみを経験したのです。

しかし、それにも拘わらず、やはり聖霊の御力は教会の弱さの中に奇跡のごとく現れました。主は成宗教会をも愛してくださいました。主は教会に祈りを残してくださいました。わたしたちは何を祈るでしょうか。すべてを善きことに変えてくださるキリストの執り成しを信じるからこそ、わたしたちは洗礼をいただいたのです。永遠の命をいただくためにキリストと結ばれたのです。それがなければ生きるにも道がなく、それがなければ、死を迎えることは、ただの恐怖にしかすぎません。わたしたちは主に結ばれているからこそ、祈ることができます。祈りがキリストによって聞き上げられることを信じて祈るのです。

あれを、これをと求めることは多くありますが、わたしたちは何を求めるべきか、本当に良いことは、必要なことは何か、さえ分からないものであります。それは社会の混迷、政治の混迷、世界の混迷を見ても分かります。絶対にこれが正しい、というものはわたしたちには見通せないのです。ただ、わたしたちは信仰によって祈ることができます。主は求める者に聖霊をくださると仰いました。わたしたちはこの力によって理屈を打ち破る、とパウロは主張しました。理屈とは神に逆らう人間の知恵です。

人間の知恵、賢さが否定されているのではありません。神の霊に逆らう高慢が打ち破られるために、わたしたちは心を低くするよう命じられているのです。高ぶる者を罰する用意が出来ているとパウロが言うその時とは、いつでしょう。それはあなたがたがキリストに従う者となった時であります。不従順を罰する、その「罰する」とは、「人の正しさを証明してやる」ということでもあるのです。裁きと救い。この両方が主イエス・キリストの教会に委ねられています。わたしたちが絶えず主に従う者となるように、執り成してくださるキリストの優しさと寛大さを思い起こしましょう。

 

父・御子・聖霊なる三位一体の神様

尊き御名をほめたたえます。真にあなたの恵みを忘れる恩知らずと、高慢の罪に絶えずさらされている者をお見捨てになることなく、寛大と忍耐の限りを尽くしてわたしたちを招いて下さる御愛に感謝いたします。

日本の社会の困難をわたしたちは語りますが、世界を思う時、はるかに大きな試練と困難の中を生きている多くの人々が思われます。どんなところにも福音を宣べ伝えて下さり、あなたに従う人々を起こして教会の民としてくださることを感謝します。わたしたちは少子高齢化社会に生きていることを平和と繁栄の結果であると感謝すべきではないでしょうか。主よ、長寿をいただいているわたしたちの多くが多くの感謝を捧げる礼拝を守ることができますよう。礼拝の民として天にも地にも祝福されていることを証しして、教会に希望を与え、社会に希望を与えてください。

主に従うことこそ幸いであることを、身をもって証しすることができますように。教会に若い世代は多くありませんが、どうか、わたしたちが家族、友人、社会のために救いを祈る者でありますように。主よ、わたしたちは多くの恵み、賜物を豊かにいただいておりますが、高慢になって主を忘れ、感謝を忘れ、多くの信仰の先輩の祈りを無駄にすることがありませんように。成宗教会が建てられ、地域の東日本の教会が建てられ、日本基督教団が主の御旨にかなった教会形成ができるようにお助け下さい。

今週の教会の働き、信徒の方々の働きと生活を、恵みを以て御支配ください。ご病気のために、ご高齢のために不調に悩んでおられる方、お仕事で礼拝を守ることができない方々を、その所に在って顧みてください。小さい子どもたち、教会学校の生徒たちの上に主の恵みの導きがございますように。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

感謝が生れる奉仕

聖書:ホセア書10章12節, コリントの信徒への手紙二9章8-15節

 今日の最初の聖句、8節をもう一度読みましょう。「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。分かりやすい文とは言えない気が致します。これを口語訳聖書で見るとこうなります。「神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ちたらせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。」これをカルヴァンの註解書で見ますとこうなります。「神は、あらゆる恵みをあなたがたの内にみち溢れさせる力のある方なのである。それはあなたがたが、常にすべてのことにおいて十分なものをことごとく持ち、あらゆる善い業に富む者となるためである。」

このように聞いていると、この聖句は大きく二つのことを伝えようとしていることが分かるのではないでしょうか。つまり、一つは、神は力ある方であって、わたしたちにあらゆる恵みを満ちあふれさせることができる、というのです。わたしたちに、です。あらゆる恵みを、です。そのことを、一体わたしたちは信じていた、知っていた、と言えるでしょうか。わたしたちは毎日、絶えず、不足を感じている。感じているばかりか、口に出して言うのです。ああ、時間が足りない!健康が足りない!お金が足りない!力が足りない!と。こういうわたしたちが、今日の御言葉に出会っているのです。「神は、あらゆる恵みをあなたがたの内にみち溢れさせる力のある方なのである」と聖書は宣言しています。

これは、わたしたちの現実とあまりにかけ離れているのではないでしょうか。わたしたちの多くは正直、そう告白しない訳には行かないでしょう。先週は今年のペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝を守りました。聖霊が来てくださった日、教会が生れた記念日です。ところで、聖霊はだれのところに来てくださったのでしょうか。主イエスの約束を信じた人々のところに来てくださったのです。信じただけで、バラバラになっていたのでしょうか。そうではありませんでした。彼らは信じたからこそ、一緒に集まりました。集まって祈っていたのです。主の約束が実現することを熱心に祈り、求めて、待っていた。その人々のところに聖霊は降ってくださったのでした。

ルカの福音書11章で主イエスは弟子たちに教えておられます。熱心に祈ることを。11章9節以下を読みます。128頁「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

わたしたちは絶えず思っています。ああ、時間が足りない!健康が足りない!お金が足りない!力が足りない!と。しかし、聖書が「神は、あらゆる恵みをあなたがたの内にみち溢れさせる力のある方なのである」と宣言するとき、わたしたちが、それを信じることができるのは、聖霊の助けによるのです。そうでなければ神がわたしたちに豊かにあらゆる恵みをくださろうとしておられるとは、だれにも信じられないでしょう。だからこそ、何よりもわたしたちが求めるべきことは、聖霊の助けなのではないでしょうか。

そして、今日の8節が伝えようとしているもう一つのことを申しましょう。それは、神がわたしたちにあらゆる恵みを満ちあふれさせてくださる目的です。神がわたしたちに賜物をくださる目的は何でしょうか。それはあなたがたが、常にすべてのことにおいて十分なものをことごとく持ち、あらゆる良い業に富む者となるため」であるというのです。あらゆる良い業に富む者となるために。しかし、もしわたしたちが時間も、健康も、お金も、力も用いて、思う存分自分のために何でもしようと思うなら、実際いくらあっても足りない。「もっと、もっと!」と思うばかりでしょう。その結果、「神さまは私にあらゆる恵みを満ちあふれさせてくださった」と満足することは、とてもできないことでしょう。

このことからも、神の御心はわたしたちが善い業を豊かに行う者となることであることがよく分かるのではないでしょうか。9節にパウロが引用しているのは、詩編112篇9節の言葉です。「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。惜しみなく分け与え、という言葉は、一部の人々に惜しみなく与えたのではなく、散らして与えた、という言葉です。貧しい人々の隅々に届くように、という意味が伝わってきます。神は憐れみと慈しみに富む方であると信じているわたしたちは、弱り果てている人々を思いやる心が求められているのです。

新鮮な水源をもつ泉からは絶えず水が流れ出るものです。同様に信仰者の寛容な心も、泉の水の流れのように永久に枯れないはずではないでしょうか。パウロは、わたしたちが良き業を果たすのに倦み疲れないように、この預言者の言葉を掲げています。私も若い頃には良き業をしようと大変頑張った時代がありました。しかし、自分の力で頑張るならば、すぐに行き詰ってしまうことが多いものです。良き業を果たしたいという志もまた、自分に期待するのではなく、ひたすら主に期待をかけるものでなければなりません。

10節はこの聖書のように未来形として訳すこともできますが、これは祈りの言葉として解釈する方を宗教改革者は勧めています。キングジェイムズ版の聖書もカルヴァンと大体同じです。「さて、種蒔く人に種を備えてくださる方が、あなたがたにもまた、食べるべきパンを与え、あなたがたの種を増やし、そしてあなたがたの義の実りを増し加えてくださるようにと祈ります。」

大変慰めに満ちた祈りです。なぜなら、種を与え、糧を備えてくださるのは、神の恵みなのだ、と断言されているからです。働き人は自分の労働だけによって、自分や他の人々を養っていると思いがちだが、そうではありません。自分の頑張りでこれが出来たと考える人は、元気な時は良いかもしれませんが、常に自分の努力だけが頼りというのは絶えず不安にさらされている状態でもあります。元気な時は神を忘れて高慢になり、そして弱り果てた時には、頼るべき方を思い出すこともできないことほど不幸なことはありません。

申命記8章17節で、モーセは神に救われた民に向かって、次の戒めの言葉を伝えました。「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」295上。神は、種を蒔く人には、蒔くべき奉仕の種を与えてくださる方であり、そして同時にその人には自分が生きるために必要なパンをも備えてくださる。神はその両方をくださる方なのです。

このことをわたしたちは心から信じているでしょうか。人間は生来自分のものを自分のものとしていつまでもいつまでも取って置こうとするほど狭量な者に過ぎません。しかし、神はイエス・キリストによって、御自身がどのようなお方であるかを知らされました。ヨハネ福音書3章16節が証しするとおりです。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」わたしたちは、主キリストが御自身の血によって贖い取った教会の中に入れられ、キリストの体の教会を建てる働きを与えられています。

そこで、コリントの信徒への手紙二、8章9節を思い出しましょう。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」ですから、その結果をパウロは今述べています。今日の11節。「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。」この訳では、「すべてのことに富む者とされて」となっていますが、元々は「すべての純真さの故にすべてにおいて豊かにされて」という意味です。つまり、豊かさの源は、単純に主を信頼する信仰であり、そこから物惜しみしない、まごころ、寛容な心が生れて来るのです。主のわたしたちに対する真心に出会って、わたしたちは真心をもって主に応えるのです。

そうすると、このコリントの手紙で、取り上げられている奉仕の働きは、ただ、この時代にパレスチナで起こった飢饉の問題ではなくなりました。エルサレム教会の聖なる者たち(すなわち、信者の人々)を助けよう、不足を補うために募金をしようという一つの運動、一つの活動にとどまることではないことが分かります。この活動はただ豊かな教会の人々から、困っている教会の人々へ、この時だけたまたま行われるのではありません。なぜなら、助ける人々も、助けられる人々もお互いだけを見ているのではないからです。

では彼らは何を見ているのでしょうか。彼らは皆、これらの活動を通して、神を見上げているのでした。この奉仕を捧げる者たちは、この奉仕を通して神を見るのです。「ああ、わたしたちは、人に何かを上げているのではない。本当は神様に献げているのだ。神様が喜んでくださるのが分かるから」と彼らは言うことでしょう。そして一方、困窮の時に援助を受ける人々も、「ああ、コリント教会さんはありがたい、親切な人々だ」では決して終わらないでしょう。この感謝を、彼らは神様に捧げずにはいられないでしょう。主の教会だから。主の贖い。主の罪の赦し、主の命に結ばれているからこそ、この助けが与えられるのだ。「何と有り難いことか。主よ、どうか、わたしたちの感謝が遠くの教会にも近くの教会にも届きますように。今はわたしたちには何もできないけれど、何の力もないけれど、あなたが自ら、彼らの奉仕に、愛の業に報いてください」という祈りが必ず生れることでしょう。

13節で、パウロが特に強調していることは、これらの教会の間の奉仕の土台になっているものについてです。エルサレムの教会はペンテコステの教会、聖霊が降った最初の教会です。キリストの福音が公然と宣べ伝えられた最初の教会です。彼らは伝道者が送り出され、世界に教会が建てられたことを知りました。エルサレム教会の困窮の時に遠くの教会から、異邦人の教会から援助の手が差し伸べられたことを感謝すると思います。しかし何と言っても彼らの喜びは、これらの異邦人たちがキリストの福音を聞いて、信じて従う者となったこと。それを、堂々と公言する教会となったことであったに違いありません。

そして、エルサレムの人々は「自分たちだけが助かれば良い」とは思わず、この施しがエルサレム教会だけでなく、必要が起これば、どこにでも助けを惜しまず分け与えられると分かれば、どんなに喜ぶことでしょうか。なぜなら、彼らも、コリントの教会も、そしてもちろん、迫害の中にあるマケドニアの諸教会も、主に在って一つだ、と心底実感するからです。そしてもちろん彼らも、このすべてのことを、神の素晴らしい恵みと信じて感謝するでしょう。そして、大きな励ましを主から受けて、コリント教会をはじめ、他の教会のために祈るでしょう。

パウロはこのように述べました。これは既に起こったことではなく、これから起ころうとしていること。必ずこのように教会が教会同士、助け合い、祈り合い、支え合う未来が今実現しようとしていることを、パウロは確信しているのです。振り返ってみれば、使徒たちの伝道には困難につぐ困難。迫害に次ぐ迫害がありました。これからも、大変な苦難が待ち受けていることをパウロは知っていたと思います。しかし、その中で、語られた美しいヴィジョンは、決して幻には終わりませんでした。主の御心に適うことは、聖霊の助けによって、必ず実現されて行くからです。

わたしたちの時代も同じです。祈りは聞かれます。「祈ることしかできない」などといいますが、本当に主を信頼し、祈り求めることこそ、わたしたちにできる最良の業の始まりです。善き業に先立つ祈りが在ってこそ、善き業から感謝が生れるのです。主の教会を建て、主の救いに入れられて生きる者となりましょう。祈ります。

 

主なる父なる神様

御名をほめたたえます。あなたは主イエス・キリストによって、計り知れない慈しみをわたしたちにお示しになり、恵みによって救いに招いて下さいました。あなたの喜ばれる奉仕は、わたしたちの交わりの中に感謝を生み出すことを教えられました。どうかわたしたちが自分の力を頼ることなく、あなたの助けによって、主の喜ばれる活動をし、すべてをあなたに委ねることができますように。すべてを通して、御名が崇められますように。

わたしたちの多くのものが高齢になっており、奉仕と言っても何もできないと思うわたしたちですが、奉仕は何よりもまず、聖霊の主の助けを祈り求めることから始まることを知る者でありますように。どうか、成宗教会の今年度の歩みの上に、主の聖霊の御支配、お導きを切に願います。わたしたちは小さな群れですが、東日本連合長老会の中で共に教会を建てて行くことができる希望を感謝します。また今週横浜指路教会で開かれる全国連合長老会の教会会議があなたの御心に適って、用いられますように祈ります。また、日本基督教団の様々な困難と課題を抱える諸教会が、主の教会を信じる信仰の交わりの中で、希望を持って福音に仕えることができますよう、お導きください。

教会の諸活動、特に教会学校に豊かな働きをさせてくださることを感謝します。また聖研祈祷会、ナオミ会も恵まれて活動出来ていますことを感謝します。今、礼拝に出られない事情の教会員を顧みて恵んでください。

この感謝と願いとを、尊き主イエスの御名によって祈ります。アーメン。

福音を世界に!

聖書:エゼキエル書37章1-10節, 使徒言行録2章1-13節

 世界中で起こっている痛ましい無差別殺人事件は、世界が今は形の見えない戦争状態にあることを示しています。人が集まるところ、しかも平和を楽しんでいる人々の所に、あるいは恵まれた人々、社会の中枢にいる人々が集まる場所がテロの標的になっている。これは本当に恐ろしいことです。太平洋戦争の末期には特攻隊が編成され、片道だけのガソリンで敵地に飛び立つということが行われました。つまり、国家の命令で行われた自爆テロのようなものです。日本人はあのようなことは二度と起こしてはならないし、二度と起きないと思っていたのです。ところが今、自分の命もろとも、多くの人々の命を滅ぼすことを実行する人々が世界中にいるということですから、わたしたちは明らかに、見えない戦争という狂気の世界の中に、生きています。

しかし、わたしたちは形の見えないものを恐れて隠れて生きてはいません。それどころか苦労して出かけるのです。行き先に幸いがあると信じるからです。ペンテコステの礼拝は、2000年前エルサレムで起こった奇跡を記念する日です。2000年前のその日、それは主イエス・キリストが十字架の死を遂げられた過越しの祭から50日目の五旬祭というもう一つのユダヤの祭りでした。主イエス・キリストによって招かれ、12使徒とされた弟子たちの一人は主を裏切って敵に売り渡しました。しかし他の11人も自分の志や力によって主に従うことができませんでした。

最初の弟子たちとはそのような人々だったのです。そして、わたしたちはどうかと言えば、わたしたちもそうではないでしょうか。従おうとして従えなかった。何か不都合なことがあると逃げてしまうような者。主はそのような者たちをご存じでした。昔も今も。そのような者たちの罪を赦して再び主に従う者としてくださるために、主は復活してくださったのではないでしょうか。再び主に出会った使徒たちは喜びました。主は40日、彼らと共にいらして、聖書について教え、神の国について説き明かしてくださいました。そして約束してくださったのです。使徒言行録1章8節。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」213下。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」この約束の意味を使徒たちは理解したでしょうか。いつ、どこで、何が、どうやって、ということは何も明らかではありませんでした。彼らは復活の主にお会いした後も、主が天に昇られるお姿を見送った後も、今までの彼らに過ぎませんでした。つまり、臆病な、弱い弟子たちの群れでありました。かつてたくさんの預言者が迫害を受けたように、そして彼らの主イエスさまが迫害を受けたように、彼らもいつ何時、憎まれ、叩かれるかもしれないと思っていました。敵を恐れて目立たないようにしていたかもしれません。

そんなに消極的な彼らが、ただ一つ一生懸命、熱心にしたことがあります。それは皆で集まって祈ることでした。使徒言行録1章15節によると、百二十人ほどが一つになって集まっていたようです。弱い人々が一つになって集まる。それは、一つになって集まる理由があるからこそ集まるのです。何ができるわけでもない。見通しも無い。ただ、一つになっているのは、ただ一つの約束を信じているからではないでしょうか。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」

時は五旬祭の日でした。主が十字架の死を遂げた過越しの祭の時と同じく、大勢の人々がエルサレムに集まっていました。世界中から祭りを祝うためです。観光旅行なのでしょうか。ユダヤのお祭りは人気の観光スポットなのでしょうか。そうではないのです。世界中から集まる人々の多くが離散のユダヤ人とその子孫でありました。イスラエル民族はソロモン王の次の世代には早くも分裂し、弱体化し、周辺の国々に攻め込まれ、また大国に滅ぼされた歴史を持ちます。その度に人々が国を追われ、奴隷にされ、異国の地で嘲りの種とされながら、世界中に散らされて行ったのです。そのような風前の灯のような民族でありながら、彼らは不思議に生き残りました。彼らはどこにいても、一つの信仰を守ったからです。どこにいても、一人の神を礼拝することを忘れない。そしてユダヤ教の祭の時には、遠くから近くから、人々はエルサレムに帰って来ました。

神は、この民のただ中に、全世界の救い主をお遣わしになりました。主イエス・キリストが十字架に贖いの死を遂げられたのは、過越しの祭の時でした。神は、エルサレムに全世界から人々の集まる時を選んで、この業を成し遂げられたのです。ですから、同じように、エルサレムに全世界から人々の集まる五旬祭の日に、天から聖霊が与えられたのも、神の深いご計画によるものであったに違いありません。今日読んでいただきましたエゼキエル書37章9節で、主なる神はこう言われます。「主はわたしに言われた。『霊(breath)に預言せよ。人の子よ(mortal)、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ(Come from four winds, O breath,)。霊よ、これらの殺されたものの上に吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る。』」

霊よ、と呼びかけられているのは、息のことです。神の息(breath)です。霊よ、四方から吹き来れ、というのは四つの風から来なさい、という意味です。このように、聖霊は神の息であり、風として表現されています。わたしたちは聖霊を見ることができません。そして物理的な音として聴くことも、普通は全くできません。しかし、主なる神は御自身の神秘的なご性質をわたしたちに知らせることを望まれたからこそ、このようなしるしによってお示しになったのです。大勢の人々が集まるこの時をお選びになり、多くの人々の五感に知られる、このような激しい風の音で聖霊の降臨をお知らせくださいました。

炎のような舌という不思議なものが弟子たち一人一人の頭の上にとどまった、というのも、同様に神が奇跡によって表してくださった聖霊降臨のしるしでした。炎のような舌によって表されるのは、天下のあらゆる国のさまざまな言語のことではないでしょうか。使徒たちの声の中に、言葉の中に神の尊い力が示された。わたしたちはこのことを決して疑ってはならないと思います。炎の舌という言葉は、わたしたちに神の真理を理解させるために、真理をわたしたちの感覚によって示している。神はここでもまた、わたしたちの限界と能力に寄り添ってくださっているのです。

もう一度エゼキエル書の先程の言葉を思い出してください。主は言われました。「霊よ、これらの殺されたものの上に吹き付けよ。そうすれば彼らは生き返る。」枯れた骨は殺された人々の骨です。彼らは戦争で殺されたのでしょうか。卑劣なテロの犠牲者なのでしょうか。それなら、ただただ犠牲者だ、彼らは何も悪くない、ということになるでしょう。しかし、実は、そうではないのです。では人々は、しかも神の教会の人々です。人々は何に殺されたのでしょうか。だれに殺されたのでしょうか。彼らは自分の欲に殺されたのです。自分自身の中にいる、他ならぬ神の敵に殺されたのだ。すなわち、人々は罪のために死んでいるのです。エゼキエルの時代にそうであったように、主イエスの時代にも神の教会の民が罪のために、神の敵に支配され、殺されてしまっています。そして、これは決して他人事ではない。昔のことではない。今の時代のことでもあります。

使徒たちの上に聖霊が降った時、彼らは立ち上がりました。主が彼らの心を燃え立たせ、この世の虚栄を焼き尽くし、すべてのものを清め、一新するための日、それがペンテコステであります。神はこうして歴史に残るこの日、聖霊を一度だけ、目に見える形でお示しになりました。このことは、聖霊の助けという神の目に見えない隠れた恵みは、今も決して教会に欠乏してはいないことを、わたしたちに確信させるためなのです。

先週、日本基督教団の西東京教区総会が行われました。教団は30ほどの異なる教派の合同教会でありますが、1970年頃から教団の外のクリスチャンから物笑いの種となるほどの問題を抱えていました。信仰共同体としての一致が損なわれる危機的な状況が続いていたのです。私が献身に至った大きな理由の一つでもありました。特に10年近く前には聖餐を巡る対立が激化しました。それまで非常に楽観的な人々、何よりも和気あいあいの交わりを第一とする人々も、これは大変だと危機感を持ったようです。二年か、三年前ですか、国分寺教会で行われた教区総会の際、かつてないことが起こりました。

教区総会は開会礼拝の時、聖餐式を執行し、日本基督教団信仰告白を全員で告白することになったのです。私が印象的だったのは、教団信仰告白をいい加減に(ただ読み上げているだけなのに)しか言えない人々が近くに居たことでした。使徒信条も礼拝では告白していないかと思うほどで、このような人々が牧師として、信徒議員として出席していたのか、と驚きました。また、聖餐の時、退席した人もいたようです。そして今年の教会総会、聖餐式を執行し、日本基督教団信仰告白を全員で告白し、教会の代表者の集まりとして整然と行われ、ヤジも怒号も飛びませんでした。

わたしたちは何を教会の旗印とするのか、について改めて考えさせられるのではないでしょうか。主の制定された聖餐を正しく執行すること。そして教団信仰告白に表された、世々の教会の受け継いだ信仰を表明すること無しに、教会は建てられないことを思わされます。けれども一方で、主は聖霊を降して、最初に教会にさせたことは、言葉による証しでした。全世界の人々の集まったところで、使徒たちは聖霊に満たされ、他の国々の言葉で話し出したのです。

聞いた人々はびっくり仰天しました。それは一つには、使徒たちがガリラヤの無学な田舎出身者ばかりであったからです。そしてもう一つの驚きは、無学なはずの彼らが、大勢の人々の前で、一斉に異なった言葉を話す人々に理解できるように、神の偉大な御業を語り出したからです。すなわち、ある者はラテン語を話し、ある者はギリシャ語を、他の者はアラビア語を話したとしたら、これこそ神の御業による奇跡でなくて何であったでしょう。

この奇跡については、あり得ないとして退けるものから、様々な解釈をするものまで諸説あるのでしょうが、奇跡物語を神の御業として受け止めることもわたしたちの信仰です。言葉が通じるという奇跡です。日本聖書協会によりますと、世界には約6600のもの言語があり、現在も500近くの言語の聖書翻訳プログラムが進められているとのことです。相手に分かる言葉で話すということは、伝えたい良い知らせがあるからです。そして、福音がまだ届かない人々へ、是非届けたいと願うのは、何よりも神の愛がわたしたちに迫っているからに他なりません。神の働きと知恵について堂々と語った使徒たち。小さな者、弱い者、取るに足りない者の上に降りたもうた聖霊の御業を思う時、私たちもその計り知れない力に驚く者となりましょう。御業に驚く。御業を信じる。そしてこの奇跡を成し遂げて福音を世界に宣べ伝える教会を開始した主の聖霊は、今もわたしたちに働いてくださることを信じて、その御業を待ち望みましょう。祈ります。

 

教会の頭であるイエス・キリストの父なる神様

ペンテコステ、聖霊降臨日の聖餐礼拝を感謝します。御言葉によってあなたの御業を知らされる時、私たちは自分たちの力の不足、知恵の不足を嘆くことから解放されます。真に感謝です。主よ、あなたは聖霊を教会にお遣わしくださって、計り知れない励ましと大きな御業を成し遂げてくださる方であることを知りました。この小さな成宗教会の群れをもこれまで目に見えないお支えと励ましを送って下さいました。わたしたちは不信仰な者で絶えず、祈る代わりに思い煩うことの多い者ですが、悔い改めます。

主の聖餐に与り、罪の贖いに結ばれていることを感謝します。どうか、キリストの執り成しによって、この罪を赦し、わたしたちを新たに造りかえて、聖霊の神様の導きを常に信じ祈る者にしてください。

本日は、今年度初めて長老に選ばれた兄弟に対して、選挙で再選された兄弟姉妹と共に長老任職式を執行しました。主よ、どうぞ、だれよりもあなたに近くいますことを望み、自分の不足を嘆くことなく、豊かに賜物をくださる主に信頼してこの務めを果たすことができますように。また長老を選んだ教会全体も、それぞれの責任を主に対して果たし、教会が御心に適ったキリストの体の肢とされるように、怠りなく祈らせてください。

わたしたちは困難な社会にありますが、真に主なるあなたを拠り所として悪に傾くことなく、怠惰に落ちることなく、目を覚まして祈り、より苦労している兄弟姉妹の上に助けを祈り続ける者でありますように。成宗教会を通して、東日本の諸教会を通して、主の御心が示され、力強い伝道がなされるために、小さな時も所も、奉仕も生かしてください。

礼拝に来られない兄姉の上に、主の慈しみ、顧みが豊かに与えられますように。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

惜しまず豊かに蒔く

聖書:出エジプト25章1-2節, コリントの信徒への手紙二 9章1-7節

 使徒パウロは教会を建てようとしています。なぜなら、地上に教会を建てることは、神の御心であるからです。教会とは主イエス・キリストの体であります。わたしたちも洗礼を受けて教会の一員(メンバー)となりました。教会の中心はイエスさまです。○○牧師ではありません。また××長老でもありません。目に見える教会はコリント教会、マケドニアの諸教会、大きい教会も小さい教会もある。それぞれが違った教会です。

しかし、教会の中心、頭(かしら)は、キリストであります。わたしたちは目に見える教会を通して、目に見えない主イエス・キリストと結ばれている。そしてそれぞれが身近にいる目に見える人々、聖徒と呼ばれる信者を通して、共に礼拝と信仰の生活を守っております。信仰は、見えている、分かっているから信じるのではないのです。ヘブ11:1に次のように言われます。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(414下)

ですから、現実にわたしたちが見ているのは、目に見えるこの教会、あの教会に過ぎないとしても、しかし、目に見えない教会を信じている。主が御自分の血によって罪の支配から解放してくださった人々の群れ。教会はわたしたちはキリストに結ばれてその御体となった教会を信じているのです。現代の人々は気軽に世界中出かけますが、実際にはわたしたちがこの目で見ること、この耳で聞くことはごく限られているでしょう。まして昔は一生涯、自分の町や村を出たことがない人も少なくなかったと思います。コリント教会へ手紙を送っているパウロもほかの使徒たちも、教会から教会へ旅することは命がけでした。

それでも、彼らは旅をしました。手紙を送りました。そして何百キロ離れたエルサレム教会の信徒のために募金を呼び掛けました。こうして何十キロも何百キロも、あるいはもっと離れたところに暮らす人々と交わりを持とうとしたのです。それは、教会を建てるためです。どんなに近くても遠くても、主に在って一つの教会を信じているからこそ、そうするのです。聖書は今に至るまで、この変らない教会の信仰を伝えてわたしたちに励ましているのです。

この人口減少の国の現実に生きるわたしたちに。この高齢化社会に立つ諸教会に。だから、わたしたちは御言葉を聴きたいと願います。それは、自分が何をしたいかを知るためではありません。主の御心を尋ね求めるためにこそ、わたしたちは御言葉を聴くのではないでしょうか。わたしたちも教会を建てようとしています。わたしたちの教会の先輩の方々、教師も信徒も皆そうだったと思います。一生懸命、教会を大切にし、礼拝を守った方々のことを思い起こします。しかしもし、教会がわたしたちのものであるならば、あの先生は良かった。○○さんは立派な方だったということに終始するならば、それはその人々の教会ではあったでしょうが、主の教会であったかどうかということになります。

なぜなら、あの先生も、○○さんも地上の生活を終えて、過去の人になっているからです。わたしたちもだれ一人として、やがて地上では過去の人とならない人はいないのです。過去の人を思い、感謝することは大切です。わたしたちもそうして来ました。感謝を以て思い出すことほど、主の御心に適って美しいことがあるでしょうか。しかし、問題はそこからです。問題は、わたしたちの教会が主の教会であるのかどうか、ということです。○○先生は良かった、○○さんは良かった、あの人がいなくなったらもうお終いだ、という発言を私は、教会で聞いたことがあります。あるいは自分がいなくなったらこの教会はもう駄目だろう、などと発言する人もいたと思います。

しかし、わたしたちの信仰は、主の教会を信じるところにかかっております。成宗教会をはじめ、小さな教会が沢山あります。都心にある教会ではなく、地方の市町村にある教会があります。人口流出に悩む地域の教会があります。その所でも、またここでも、多くの困難の中で、日々の戦いをしているのは主の教会を信じるからです。もし、この教会が主の教会なら、○○さんの教会ではなくて、主の教会なら、主がここにとどまって教会を建ててくださるでしょう。この希望を、この信仰を、掲げているかいないかが、分かれ道となるでしょう。成宗教会でも、どこの教会でも。パウロがコリント教会への手紙で勧めているのは、献金のことのように見えますが、実はこのテーマは献金ではなくて、献金に象徴されている目的なのです。それは、教会を建てるということです。

1節では、「聖なる者たちへの奉仕」と言われています。つまり献金募集ではなく、奉仕とは、聖なる者たち、すなわち教会の兄弟姉妹に対する援助であると言います。自分と同じ一つの体を作り、キリストの体の部分である人たちに対する信者の義務のことであります。わたしたちが右手を痛めれば、左手で代わりをするように、キリストの肢体は、互いに相手に仕えることを当たり前のようにするでしょう。

この手紙で実際に困窮していたのは、飢饉が起こって日々の生活にも困窮しているパレスチナ地方の教会、エルサレムの教会の人々でありました。コリント教会の人々はこの困窮について知ったとき、募金活動に応じようと立ち上がったようであります。このことを聞いたパウロは、マケドニア州の教会にコリント教会の姿勢を大いにほめたのであります。「アカイア州(コリント教会)では去年から準備が出来ているそうですよ」と言って。そうするとマケドニア州の教会では、コリント教会の熱意を聞いて、自分たちも是非頑張ろうと奮い立ちました。フィリピ教会やテサロニケ教会は決して裕福ではなく、それどころか、8章によれば、彼らは現地の人々や宗教との問題、ユダヤ人社会との問題なども次々と起こり、「激しい試練を受けていた」教会であったのに、その困難、苦難の中にあって、しかし彼らは救いの喜びにあふれていたというのです。彼らは生活に全く余裕なく、どん底状態であったにも関わらず、喜びがどん底の貧しさをついに呑み込んでしまうほどにあふれ出ました。

教会の人々はむしろ、自分たちがどん底だったからこそ、エルサレム教会の人々のどん底の苦しみが他人事ではなかったのでしょう。彼らはただ単純に自分たちの身を削っても真心を尽くしたかったのでした。真心とは単純であり、「物惜しみしないこと。犠牲をいとわない気前の良さ」なのです。

それでは、この苦難、困難の中から奉仕を申し出たマケドニアの教会が、いわば、お手本としたコリント教会の方はどうでしょうか。パウロが誇りに思うと言って自慢して来たコリント教会に対して、パウロは自分が推奨した通りであるようになってくださいと願っているのです。そのために、パウロは自分の訪問の前に、福音宣教者として共に働いた二人を先にコリント教会に向かわせると言っています。そして自分が後からマケドニア州の教会の人々とコリントに到着した時には、「さすが、コリント教会は、立派な贈り物の用意が出来ましたね」と言われるように準備してください、と願っているのです。

これは一見すると、パウロがマケドニアにはコリントをほめ、コリントにはマケドニアの奉仕をほめて、両方から最大限の献金を引き出しているように見えるかもしれません。しかし、貧しい教会が自分たちよりもっと困窮している教会のことを知り、できる限りの援助を申し出る。またコリント教会のように、主の教会にふさわしくない思いと行いを悔い改めた教会が捧げる感謝。このすべての精一杯の努力、労苦は、だれのためでしょうか。エルサレム教会という特定の人々のためでしょうか。いいえ、実はそうではないのです。この労苦はこの奉仕はキリストの体の教会を建てるために用いられて行くのです。

だからこそ、パウロは自分の儲けのためではない、エルサレム教会だけのためではない、ただ主のために、一心に、真心を込めて、協力を呼び掛けています。5節でも、献金という言葉は使われていません。「以前あなたがたが約束した贈り物」と言っています。1節で奉仕という言葉になっていましたが、それは援助のことです。単にお金ではない広い、深い助けであります。そして5節で贈り物(ユーロギア)というのは、広い意味で祝福を表します。また、ほめたたえること。そして贈り物、献金という意味を持っています。祝福は言葉だけでなく、金銭という具体的なもので表現されることも出来るのです。

結局のところ、わたしたちが他の人を祝福することが出来るのは、神さまがわたしたちを祝福してくださっているからです。もし、「神さまは自分に厳しい」とか、「いじわるだ」とか、「ケチだ」とか思っている人は、どうして他の人を祝福することが出来るでしょうか。わたしたちが見返りを期待しないで、人に何か贈り物をすることが出来るのは、わたしたちが神様から祝福されているからにほかなりません。

だからこそパウロは申します。「渋りながらではなく、惜しまず差し出したものとして用意してもらうためです。つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」豊かに蒔くとは、元の意味は「祝福の中に蒔く」という意味です。つまり単純にこう言われています。「けちけちと蒔く者は、またケチな収穫しかしないであろう。しかし、祝福のうちに蒔く者は、また祝福の中に刈り取るであろう」と。

種を手から地面にまき散らし、鍬でならしておくと、種はまるでなくなってしまったも同然に見えますが、施しについても全く同じことが言えるのです。あなたの所から出て、他人の下へと移し去られたと、それだけあなたの財産が減少したかのように見えますが、しかし、時が来れば、蒔いた種の実りを取り入れることが出来るのです。なぜなら、主なる神は、人が貧しい者に施すものは、御自身に対して捧げられたものと見做し給うからです。それだから、主は後には献げ物に大きな利子をつけてその人に報いてくださるでしょう(箴言19:17)。

このように主を見上げて、祝福の種を蒔くことこそ、教会にふさわしい働きです。それでは、ここで言われる豊かな刈り入れとは何でしょうか。それはもちろん、永遠の命という霊的な報いのことであると思われます。しかしそれだけではないでしょう。刈り入れとは、貧しい者に対してもの惜しみせず与えた人々に、神が授け給うこの世の祝福のこととも解釈できるのではないか、と宗教改革者は述べています。なぜなら、神の祝福は天上においてばかりでなく、地上においても与えられているからです。

そういうことから、パウロが用意をしておきなさいと勧めている贈り物とは祝福であることが分かりました。祝福とは、すなわち、他人の栄えを願い祈ることであります。また恩恵を施し、与えることであります。祝福とは、本来神だけがおできになるもの。人間は人にたとえ祝福を与えても、神のなさり給うようには到底与えることはできません。だから、パウロは決して無理強いはしません。「仕方なく与える」とか、「強制されて与える」という贈り物では、祝福にはならないでしょう。

パウロは先に「あふれるばかりに施しをしなさい」と教えましたが、この言葉を付け加えました。すなわち「神に喜ばれる施しは、金額によるのではなく、心映えによるのですから、自分でこうしようと心に決めたとおりにしなさい」と勧めたのです。

最後にもう一度思い出しましょう。教会が、そしてわたしたちが、互いに援助し合うことの最も深い意義は、Ⅱコリ8:9の言葉にあります。334上。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っていますすなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」わたしたちが建てるのはこの主の教会です。主の貧しさによって豊かにされたわたしたちが、主に結ばれて救われるために。また主に結ばれて救われる人々を教会に招き入れるために。それは主の命と共に生きる教会、世の終わりまで続く教会です。祈ります。

 

主なる父なる神さま

5月の最後の主日礼拝の恵みを感謝し、御名をほめたたえます。5月のたくさんの行事、会議をも守り導いていただき、ありがとうございます。先週は東日本連合長老会の教会会議を感謝します。自由が丘教会、十貫坂教会では新しい教職を迎えました。また、成宗教会を会場に教職の集まりが開かれました。主の体の教会を建てるために、共に学び、共に助け合っていくことが出来ますことを感謝いたします。教会は小さな群れですが、主のご委託に応え時代の悩みを共に負い、助け合って主にお仕えできることを望んでおります。

来週はペンテコステ礼拝を守ります。主の聖霊の助けによって、主を愛し、主に従う者に、力強い福音の言葉を与えてください。また、教会は教会の始まりからそうであったように、いろいろな奉仕や社会活動によってではなく、まず御言葉を教えて教会を建てる働きにあることを多くの人々が悟るものでありますように。諸教会に主の霊によって命の御言葉をお与え下さい。そしてそれを聴く人々をお与えください。そして成宗教会においても、長老会を励まし、種々の奉仕に当たる人々を励ましてください。皆、強制されてではなく、喜んで主に奉仕し、感謝する者となりますように。教会に新しい長老を立ててくださった主の御心を感謝します。どうかこの兄弟が様々な困難を乗り越えてこの務めを全うすることが出来ますよう、上からの力によってお支えください。

今、礼拝に足を運ぶことが出来ない方々に、あなたの深い顧みがございますように。また新しい世代の方々が、喜んでできる奉仕に向かって道を開いて下さい。大変多忙な生活を送っている方々のご健康を祝してください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神にも人にも公正に

聖書:箴言3章1-7節, コリントの信徒への手紙二 8章16-24節

 成宗教会は毎年5月に墓前礼拝を行っています。教会墓地のある越生の霊園は緑豊かな美しい景色に囲まれ、桜の花の季節にどんなに良いだろうと思います。教会墓地に眠る方々は全く異なった生涯を送られ、共通点は何もありません。ただ一つのことを除いては、何もないのです。その一つとは主イエス・キリストの執り成しに結ばれているということです。そしてそのたった一つの共通点のために、その方々は何と恵まれた者とされていることでしょう。わたしたちも、今日もこうして地上で礼拝を守るために教会に集まっているわたしたちも、同じです。たった一つの共通点のために集まっています。その共通点とは、主によって呼び集められたことです。

教会、それは日本語では「教える会」と訳されていますが、元々の意味は「呼び集められた者の群れ」という意味です。神さまに呼ばれた者が、その呼びかけに応えて集まる時、そこに教会が目に見えて在ることが分かるのです。パウロはユダヤ教徒でした。教会の迫害をするほど熱心なユダヤ教徒でしたが、キリストに呼び出されました。そして、キリストの呼びかけに応えたのです。彼は自分の迫害して来た教会の一員となりました。彼の回心は、人々にはなかなか信じてもらえなかったのですが、最初に彼を信用し教会に連れて行ったのは、バルナバという人でした。この人は使徒言行録の4章に初めて登場します(4:36…220末)。彼はレビ族の人で、本名はヨセフ。使徒たちからバルナバ「慰めの子」と呼ばれていました。

今日の聖書には直接名前は出て来ませんが、18節でパウロが「一人の兄弟を同伴させます」と言っているのは、おそらくバルナバのことだろうと一般的に考えられています。バルナバ自身、ユダヤ教の神殿に仕える祭司階級の出身からキリストを信じる者となったのですから、パウロの回心に至る苦悩を真っ先に理解し、教会に招き入れる執り成しの務めを果たしたのです。なぜなら、教会は自分たちのものではない。教会は主の体だから。主が招いておられるなら、人は悔い改めることができるのです。どんなにそれ以前の行状が悪くても、主は頑なな人の心を打ち破ってくださることがお出来になります。反対にどんなに素晴らしい人でも、こんな人が教会の中にいたら、さぞ教会の評判が良くなるだろう、とか、さぞ福音伝道に役立つだろうとわたしたちが思い描いても、主が悔い改めさせてくださらなければ、だれも主の体に結ばれることはできないでしょう。

コリント教会の中にいろいろな問題があった。深刻な問題があった。こんな教会は駄目だ、と評判が立ったかもしれません。しかし、彼らはパウロの手紙を読みました。すると、奇跡的なことが起こりました。あれほど思い上がっている人々が中心を担っていた教会が悔い改めたのです。そして自分たちの教会の恥となるような個人の行いを教会から取り除いたのです。自分が自分の悪行を認めるということはなかなか起こらないことです。これこそが、主の御支配のある教会、主の恵みの御支配のあるところを証ししています。すなわち主の体に結ばれ、主の執り成しによって罪赦されるからこそ、悔い改めが起こるのです。

パウロは喜びのあまり、かつては苦言を呈し、厳しく問題を指摘したコリント教会を、誇りに思うというまでになりました。このような変化。人々に対する不信から、同じ人々に対する信頼へと一変することもまた、主に結ばれた教会だからこそ与えられた恵みに他なりません。互いの信頼が成り立つところで、初めて勧められることが、慈善の業、奉仕であります。これは、逆ではないのです。慈善の業、奉仕をしているうちに人々の中に信頼が生れると考える人々は多いのかもしれません。しかし、実際に行ってみるとそれは逆だということが分かるでしょう。何か善い業を始めようとするなら、その前提となるものは、互いの信頼なのです。今でもあるでしょうが、街頭募金で「恵まれない子供たちに」とか、「アフリカの子供に」と呼びかけられますが、一番の問題は募金をしている人々が本当に信用できる団体なのだろうかということであります。

前にも申しましたように、パウロが呼びかけているのは、一般論的に恵まれない人々に、という名目での募金ではありません。そうではなく困窮する聖徒のために、すなわち聖なる者たちとは教会の人々のことですから、この目的は明らかに教会を建てることにあります。しかも、自分の教会を建てれば良い、ということではないのです。キリストの体の教会を建てるのです。まして、自分が生きている間だけ、教会が自分のところにあれば良い、ということであるはずがないのです。キリストの体の教会は、時間と空間の中にあり、具体的に今も建っている教会です。しかし同時に、キリストの体の教会は時間と空間を超えて、永遠に存在する。わたしたちはそれを信じ告白しているのです。

さあ、そうなると、わたしたちの生きる目標はにわかに大きくならないでしょうか。若者は未来を語るけれども、老人になれば、もう先がないので大した目標は持てない。今日を穏やかに生きることが目標だ、と言うかもしれません。確かにその通りです。しかし、わたしたちにできることがわたしたちの目標でしょうか。わたしたちはキリストに結ばれています。それならば、わたしたちにできることが目標ではないでしょう。キリストの望まれること、神の御心こそが、わたしたちの目標なのではないでしょうか。わたしたちはキリストの中に生きて、神の御心をわたしたちの心とする、それこそが目標なのです。そして、神の御心は、世を愛し、世に福音を告げ知らせ、キリストの教会を建設することなのです。皆、共にキリストの執り成しの下に罪赦されて、神の国の市民となることこそ目標です。

このような途方もない大きな広い、美しい目標を抱かせる神にパウロは感謝をささげます。神の御心によって力づけられ、テトスはコリント教会にやって来たのだ、とパウロは人々に知らせるのです。福音伝道のための働き人を起こし、その人々の必要を満たすための財源を探す人々、会計担当者のような務めを行う人々も起こしてくださるのは、教会を建てるために、神様がご配慮くださっている結果なのです。人々が自分の力でどんなに頑張っても、神の聖霊の助けによらなければ、どんな良い働きもできないのです。今や、テトスはパウロや他の人々から勧められたから、ではなく、自分から進んで、この慈善の業の先頭に立って奉仕しようとしています。

パウロはテトスのほかに二人の同伴者を紹介します。その一人は恐らくバルナバであります。彼は、「福音のことで至るところの教会で評判の高い人」と言われています。どうして彼は誉れを受けたのでしょうか。それは有能、雄弁などではありません。彼は何よりも、

福音を伝えること、そのもので高い評判を得たのです。このように初代教会の人々は福音を聞くことによって教会を建てて行ったことが分かります。だからこそ、福音を伝える働きにおいて有名な人が信頼を得たということが分かります。

しかも彼は、一つの教会の中だけで有名だったというのではなく、全教会でほめられたのでした。また19節で、この人はこの慈善の業に参加するために、パウロたちと一緒に働く者として、「諸教会から任命された」と語られています。そこにあるのは、自分のところだけで主に結ばれていれば良いというような各個教会主義ではなく、全世界に福音を宣べ伝える働きこそが考えられていたのでした。「任命する」という言葉は、ギリシャ語で「手を伸ばす」という意味から来ます。古代ギリシャの市議会で賛成の意志表示に挙手をしたことから、諸教会で特別の使命を与えるために神に選ばれた人は、教会の人々の意志表示によって承認されて任命されたということが推測されます。

しかし教会を建てるためであっても、とにかく献金を集めること、保管すること、それを送金することには大きな困難が伴います。金融のシステムが発達した現代でも、難しいことは多いのに、ましてこの時代は大変なリスクが伴うことだったと思います。「無くした。盗まれた」では済む話ではありません。一般的に公金の取り扱いほど、世の人々の中傷と悪評の種になるものはないのですが、それは「教会だから心配はない」ということには決してなりません。サタンはありとあらゆる手段を使って、教会の評判を落とし、キリストに従おうとする群れを蹴散らそうと虎視眈々と狙っております。

キリストの僕として正しければ正しいほど、サタンは攻撃を仕掛けたいのです。もし攻撃がうまく行って、評判の立派な人につまずきが起こったならば、それは他の人に起こった場合よりも、はるかにもっと甚だしいものになり、教会に大きな打撃となるでしょうから。パウロという人には高ぶったところは少しもなく、仲間の中の取るに足らない者と同じように、諭されたり、責められたりされることも厭わない、福音のためなら、何事も耐え忍ぶ人でありました。しかし、お金のことや、その他の行状のことでも、人に中傷されても、気にかけない。「自分は実際献金を誤魔化したり、人のものを取ったりしていないのだから、何を言われても構わない。神様はすべてご存じなのだから・・・」という風には、決して考えてはいません。

それどころか、用心深く気をつけて、おかしな疑いをもたれる危険を避けようとしているのであります。「わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。わたしたちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています。」おそらく、コリント教会の中には、パウロがこのように釘を刺しておかないと、何かと悪口を言い出しかねない連中がいたのかもしれません。しかし、それはすべての教会について心がけるべきことなのです。

彼は、自分が神の御前において正しい良心を持とうと心がけているばかりでなく、人の前においても、立派な評判を得られるように心がけているのだと言い切っています。なぜなら、福音伝道のために働く者は、すべての人々に教えることについて、また正しい行い人々に勧め、自分もそれを行うことについて、他からそのことをどう見られるかということを、決して無視してはならないのです。その用心のためなのでしょうか、もう一人の兄弟を同伴させると伝えています。この人は医者のルカではないかと推測があります。これらの兄弟たちをパウロは諸教会の使者であり、キリストの栄光であると紹介しています。宗教改革者は言います。およそ敬虔な信仰者、神によって聖なる者とされた人は皆、キリストの栄光なのだと。なぜなら、その人々は全く神に依り頼んで、生きているのですから、その人たちが持っているものでキリストの賜物でないものは何もないのですから。こうして諸教会の使者と呼ばれる人々が立てられ、全教会に信頼される伝道者、奉仕者が建てられる。このことは初代教会の時代から始まっていたことが分かります。

今日の聖書では、わたしたちがもしキリストの栄光を表す者であるのならば、神様の前に正しいと認められればそれでよい、ということであってはならない、ということを学んだのではないでしょうか。日頃から大きな事でも小さな事でも、人々から誤解され、中傷される危険があることを避けるべきだということです。パウロは自分がほめたたえられることを求めてはいませんでしたが、自分の働き、その目的を高く評価し、人々にも知らせていました。なぜなら、自分が主の体に属する者、主に従う者である限り、福音を宣べ伝える自分の働きが素晴らしくないはずはないのですから。

そのように、わたしたちもまた、主に従う者である限り、すべての働きを主からの賜物として高く上げ、主のご栄光を表す者として、神にも人にも公正な者としてふるまうことを目標とすべきだからです。わたしたちは主の教会を建てるために、熱心に生きる者となりましょう。24節は、正にわたしたちに対するメッセージです。「だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。」祈ります。

 

御在天の父なる神様

尊き御名をほめたたえます。あなたはわたしたちをイエス・キリストの贖いによって、救いに招いて下さいました。ご復活の出来事から2000年の年月が流れ、今、教会は全国全世界に建てられていますことを感謝申し上げます。しかし、同時に、教会が真実に建てられているかどうかを思わず、あなたに従うことを忘れ、真の教会から離れ去る人々も絶えません。しかし、いつの時代にも、小さな者をお見捨てにならず、希望のない所に、希望を生み出してくださる主の愛に感謝を捧げます。初代教会では、全く道なきところに福音を宣べ伝え兄弟姉妹を助けるために、どのような労苦がなされたことでしょうか。わたしたちは本日も御言葉より多くの励ましをいただきました。御霊の助けなしに良い業を成すことはできないことを思い、ただ上よりの力が注がれることを待ち望みます。また、時には自分を思い上がるかと思えば、ひどく卑下してしまい、あなたのご栄光を表すために生かされていることを忘れてしまうわたしたちの罪を、どうか憐れんでください。御言葉によって新たに造りかえられ、主の体の肢として生きる教会となりますように。またわたしたちの背後にある家族、友人、社会に在って、わたしたちがあなたの御心を伝えるために用いられますように。世の光、地の塩として生かしてください。

東日本連合長老会の諸教会、与えられている恵みを感謝します。本日は青山教会で今年度最初の会議が行われます。どうか、共に教会を建てるためのこの労苦のすべてが、あなたの御業によって祝され、支えられますように。

 今日も、礼拝を覚えながら、参加することのできない多くの方々を覚えます。あなたの慈しみが豊かに注がれ、その日々が恵みによって支えられますように。この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。