イエス様のお誕生

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌90番
讃美歌96番
讃美歌234A

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 7章14節 (旧約聖書1,071ページ)

7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。

新約聖書:マタイによる福音書 1章18-25節 (新約聖書1ページ)

1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

《説教》『イエス様のお誕生』

今日は、教会学校との合同礼拝ですので、教会学校のテキストからマタイによる福音書1章18節から25節のイエス様がお生まれになった時の大切なお話をしましょう。

私は去年の4月から、この成宗教会の牧師として皆さんとご一緒して来ましたが、昨年度2020年はクリスマスイヴ礼拝を含めて52回の礼拝中で皆様と集まって普通に礼拝できたのは32回でした。何と今年度2021年に至っては17回中のたった2回だけです。何としても神様の御言葉を皆様にお届けしようとライブ配信をしていますが、残念ながらキチンとはお届け出来ていないと反省しています。

ところが、この1年3ヵ月ほどの間に、何と5人の兄弟姉妹を神様の御許にお送りしています。そのお一人が野田妙子姉妹です。葬儀は明日午後、荻窪河南の葬儀社斎場で執り行われます。成宗教会で葬儀をと願いましたが、喪主様のご意向で教会ではなく、斎場に私が赴いての葬儀となりました。

葬儀は教会でないといけないとは言いませんが、天の神様に向かって旅立つに際して、葬儀とは、その方が、それまでどう生きて、どう神様を証してきたかを思う一つの大きな機会と思います。私たちにとってこの世の家でもある教会とは何なのかといった思いで今日のイエス様のお誕生物語を、「生まれる・誕生」の中からも「葬儀・死」を思って、お聞きいただければと思います。

実はイエス様の生誕物語は四つの福音書のうち、このマタイ福音書とルカ福音書の二つの福音書にしかありません。二つの福音書の生誕物語は、夫々特徴があります。主イエスの誕生を父親ヨセフの側から語り始める今日のマタイ福音書では母親マリアの言葉はなく、父親ヨセフと天使との夢の中でのやり取りが中心です。一方のルカ福音書では母親マリアを中心としたマリア賛歌も含まれた主イエスの生誕に関連する物語が母マリアの立場から長く記されているのとは大変対照的であると言えましょう。

当時のユダヤ人の結婚に関する決まりでは婚約中の2人はすでに夫婦とされていたので、20節と24節でマリヤは婚約者ではなく「妻」と呼ばれています。婚約者同士は通常1年程度の婚約期間を経て結婚生活に入りますが、その婚約期間中にマリヤの妊娠が明らかになりました。ルカ福音書では、マリヤ自身が大天使ガブリエルから妊娠は聖霊によるのであると告知を受けましたが、今日のマタイ福音書では、主の天使が父親ヨセフの夢に現れたとしています。ここに母マリヤの言葉はなく、マリアの沈黙を敢えて示そうとしているとも言えましょう。しかし、如何に聖霊によって身ごもったとしても、周囲の人々がマリアの妊娠に気付くのは時間の問題であった筈でした。

マリアが身ごもったことは、ヨセフにはまったく身に覚えがないことでした。そこで、マリアの妊娠を知ったヨセフは、密かに縁を切ろうと決心します。19節にあるように、夫ヨセフは、「正しい人」でした。しかし、その「正しさ」とは、マリアを疑い、それが表沙汰になることを恐れた、いわば世間体を気にしてのことでした。このことについて、神に御旨を尋ねようとすることなく、自分の考えだけでマリアと縁を切ろうとした、この時のヨセフの思いは、人間の「正しさ」の限界を示していると言えましょう。人間の「正しさ」とは、自分の罪について自覚できなくなる危険性をいつも孕んでいます。ヨセフはこの時、神の御旨を尋ねるべきでした。しかし、それをしないで、自分だけで判断してマリアと別れよう、縁を切ろうとしていたのです。絶対的な義の存在である神の前では、どんな人間でも一人の罪人に過ぎません。いくら私たちが正しさを主張したとしても、それは神の前に完全な「義」正しさとはなりません。私たちが「真の義」を求めるには、神の導きが必要なのです。

ヨセフが、このようにマリアのことで思い悩んでいるとき、夢を見ます。それこそが、ヨセフにとっての「神の助け」でした。夢の中に天使が現れ、恐れないで妻マリアを迎え入れること、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったこと、その子は男の子で、イエスと名付けること、イエスは自分の民を罪から救う救い主となることが天使から告げられます。夢の中で、今起こっていることの意味を、主なる神が天使を通して、ヨセフに告げ知らせたのです。それまで、ヨセフはマリアを妻とすることを恐れていました。しかし、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだから恐れることはないとの、天使の告げることを聞いて、全能の神の力によって、マリアの胎に男の子が宿ったことを知り、ヨセフは主なる神に信頼して安心することが出来たのです。また、生まれてくる男の子をイエスと名付けるように命じられました。命名は子供の認知を意味します。イエスとはギリシヤ語の呼び名です。ヘブライ語ではヨシュア、「神は救い」を意昧する名前で、よくあるユダヤ人男性の名前でした。「ヨシュア」と呼ばれた人物は主イエスの他に聖書に10人程登場しますが、最も有名なのはモーセの後継者でエリコを陥落させ、カナンの地を占領し、その地を12部族に分け与え、イスラエルの定住の地を確保したヨシュアでしょう。この「ヨシュア」という名は、自分だけの力ではどうしようもない罪の中にある人間を、確かに救ってくださる救い主の名前として、相応しいものでした。しかし、その「救い」とは「罪からの救い」であり、ローマ帝国の支配からの解放を望んでいた当時のユダヤ人の期待とは異なるものでした。従って、21節の「ご自分の民を」という表現は、「新しいイスラエルの民」、「新しい神の民の創造」という視点から理解されなければならないでしょう。ここにもイスラエルを「ご自分の民」とされた旧約の「主なる神」と主イエスの姿が重なってきます。マタイ福音書は主イエスの生涯が旧約聖書の預言の成就であることを示すため「主が預言者を通して言われた事が成就するためであった」という表現で旧約聖書を度々引用しています。

ここではマリヤの聖霊による妊娠がイザヤ書7章14節の「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」との旧約聖書の預言の成就とされています。

23節にあるように主イエスは「インマヌエル」という名で呼ばれるとありますが、ご生涯は「イエス」と名乗り、「イエス」と呼ばれ、「インマヌエル」というお名前では呼ばれませんでした。主イエスの人格とご生涯そのものが「インマヌエル:神は私たちとともにおられる」であったと、マタイ福音書全体を通して、現実の主イエスのお姿を現しているのです。

ヨセフは夢で告げられたことを主なる神の啓示と信じて、妊娠したマリヤを迎え入れました。場合によっては人の好奇の目を浴びるリスクも引き受けたと言えましょう。こうして主イエスはヨセフとマリヤという人間の両親のもとで、人として生れることになったのです。

ヨセフは、主の天使が夢で語った神の御言葉を聞いてから、劇的な変化を遂げています。ヨセフは、信じることができなかったものから、信じるものへと変えられ、受け入れることのできなかったものから、受け入れるものへと変えられたのです。

妻マリアのお腹の中に主イエスが宿ってから、夫ヨセフは愛する人も、主なる神も信じることのできない自分の弱さと罪を知りました。神様は、そのヨセフを見捨てることなく、言葉を投げかけて下さり、彼にその言葉を信じる信仰を与えてくださいました。ヨセフは、その神様を信じる信仰によって、自分からは受け入れられることのできなかったマリアを受け入れ、お腹の子に、名前を付け、自分の子として、受け入れることができるようになったのです。

この子、主イエス・キリストがマリアのお腹の中に来て下さった時から、救いが始まりました。この方が来られてから、闇は光に照らされ、闇の中にいた私たち人間が光に照らされ、罪が明らかになると同時に、その光がどんどん近づいてこられて、私たちの心の内側に入ってきてくださったのです。その光によって、私たちは、新たにされるのです。その希望の光が、私たちの内側に来てくださって、いつも共にいてくださる。「インマヌエル:神はわれわれと共におられる」というのは、このことです。

今日のこの聖書箇所に書かれている主イエスの誕生、キリストの受肉の神秘については、様々な批判や意見のあることは事実でしょう。私たち現代人の高度な科学的知識では、処女降誕など、考えられないといった意見や、妥協して生物界には雌雄両性生殖ではなく、単性生殖も見られるので人間の単性生殖もあり得るのではないかといった議論など、この出来事を無理矢理説明しようとする努力する人もいます。歴史上、数えきれない程の多くの憶測が述べられて来ました。聖書をよく読んでいるキリスト者でも、これは神話なので、実際に起こった事ではないと、この出来事を彼方に遠ざけてしまい、正面から取り上げようとしない人が少なくありません。

しかし、主イエスの生誕において起こったことは、今日のマタイ福音書によれば、神御自身が主イエスとして人となって、人々の間にとどまり「インマヌエル」、その民にとっての「救い主イエス」となるのであり、救い主・キリストが人々を救うためにここに生まれる、ということを述べているのです。

その中心をなしているものは、主イエスにおいて実現する神の人間に向けての救いの実現であり、人間はそれに応答することしかないのです。

信じて従う、それが信仰です。神の御業を信じることから信仰が始まるのです。主イエス・キリストを真の神であり救い主と信じる私たちはこの生誕物語を信仰として受け止め、神の救いの実現に際して、欠くことの出来ない大切な出来事として捉え、信じて伝え続けなければなりません。神の右に座して、神と等しいお方が、肉を取って、私たちと同じ人間となって下さったからこそ、私たちの救いがあるのです。

イエス様が救い主としてお生まれになることは、昔から旧約聖書の預言者によって伝えられて来たことでした。神様ご自身が創造され、何よりも愛された人間が、神様から離れて罪の中で悲しみ・苦しむのを見て、何とか人間を罪の中から救おうとされました。その神様の救いのご計画の中心がイエス様の誕生でした。

昔から、神様を信じる沢山の人々が、神様が一緒にいてくださることで励まされ、辛く苦しいことを乗り越えることが出来ました。乗り越えられれば乗り越えられる程、神様を信じる気持ちを強く持てるようになっていきました。このように神様が共にいて下さり、守ってくださることは、神様の働きとして、今も私たちにも向けられています。

私たちは、聖書を通して神様の御言葉を聞き「天のお父様」と、親しく神様にお祈りすると、神様は、「インマヌエル:神様が私たちと一緒にいてくださる」ために聖霊を私たちのもとに遣わして下さり、私たちが健やかに成長する力を下さいます。

このイエス様の生誕によって、人々が罪から救われて神の国に入るという、確かな救いへの希望が与えられるようになりました。

このようにして始まったイエス様のこの世でのご生涯は、私たちと同じ肉を取られ、私たちと同じ人としてお生まれになり、私たちの救いのために歩まれたものでした。仮の姿ではなく、真の人として、痛みを感じて、苦しみ、十字架にかかり、自分たちでは決して拭い去ることの出来ない私たちの罪を負って下さいました。それは、まさに私たちを愛してくださっている神の御計画そのものなのです。

今日のこの、イエス様の生誕物語「キリストの受肉の神秘」こそ、その内容と意味を、大切な信仰の事柄として、家族や子どもたち・孫たちに伝え続ける責務を、私たちは託されているのです。

そのおひとりお一人の家族への伝道の働きが、一生を通しての天国への旅立ちの準備を形作っていくのです。

お祈りを致します。

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恩寵

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌122番
讃美歌420番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 56章6-7節 (旧約聖書1,154ページ)

56:6 また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら
56:7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

新約聖書:マルコによる福音書 7章24-30節 (新約聖書75ページ)

7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

《説教》『恩寵』

本日の聖書箇所、7章24節以下には、主イエスが人々から身を隠すように、「ティルスの地方」に行かれたことが語られています。この新共同訳聖書の後ろにある緑色の地図の「6.新約時代のパレスチナ」というのを見ていただきますと、地中海沿岸を北にずっと上って行ったフェニキア地方にティルスという町があります。ここはユダヤ人の国ではなくて異邦人の地です。主イエスは「だれにも知られたくないと思っておられた」と24節にあるように、ユダヤ人たちの目を避けて、ゆっくり弟子たちと語り合い、交わるためにこの地に逃れて来られたのです。それなのに「人々に気づかれてしまった」とあります。これは「隠れていることが出来なかった」と読むべきでしょう。主イエスの評判がこのティルスの町にまで伝わっており「隠れようとしても隠れられなかった」のです。
そこに、一人の女性が訪ねて来ました。26節によれば「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」とあります。ユダヤ人ではなくてギリシア人、つまり異邦人です。

先週の「けがれ」と題した説教で、主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わないことを律法学者たちが責めたことについてお話ししました。これは主イエス御自身による新しい時代の始まりを告げるものであり、もはや、全ての人間が一切の差別もなく、神の御前で「赦しの御言葉を聴く時が来た」という宣言でした。
しかし、これが、逆に律法を堅く守る伝統的なユダヤ人の憎しみと拒絶を生み出しました。何故なら、ナザレのイエスの評判は既にこの異邦人の地にまで響いており、大勢の人々が集まって来たからです。25節から「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」とあります。これまでと同じような、病気の癒しを求める物語とよく似ています。確かに、幾度も繰り返されて来たお姿です。しかしながら、今ここで、マルコ福音書は、これまでとは決定的に異なる「何か」を語ろうとしています。「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と記されています。この女性はユダヤ人ではなく、異邦人のギリシア人だったのです。汚れた霊によって、この女性とその娘、そして家族全体が、大きな苦しみを負っていたことは確かです。そういう苦しみ悲しみをかかえていたからこそ彼女は、ユダヤ人たちの間で病気を癒し、悪霊を追い出しておられる力ある主イエスがこの町に来ていることを「すぐに聞きつけ」やって来たのです。彼女は主イエスのもとに来るとその足もとにひれ伏して、娘から悪霊を追い出してくださいと頼みました。これは随分大胆なことです。主イエスの足もとにひれ伏して願うことが大胆なのではなくて、異邦人である彼女が、ユダヤ人である主イエスにこのように救いを願うことがまことに大胆なことなのです。
ユダヤ人と異邦人の間には、私たちにはちょっと想像できないような深い隔たりがありました。それは主にユダヤ人側が、異邦人を汚れた者として付き合おうとしなかったこと、それがユダヤ人と異邦人との「分離」であると先週お話ししました。そのことから両者の間には基本的に敵意があったのです。だから、異邦人であるこの女性が、ユダヤ人である主イエスに救いを願うことは普通はあり得ないし、そもそも願ったとしても聞き入れられる筈はない、というのが当時の常識だったのです。彼女はそのことをよく知りながら、それでも主イエスに救いを求めました。それが彼女の大胆さでした。
遠い昔、父なる神は多くの人々の中からアブラハムを選び出されました。そして、アブラハムに連なるイスラエル民族を神の民として定め、歴史の中で守り続けられました。長い時の後に、イスラエル民族の中に、神の御子が「人として」お生まれになりました。これはただ、「恩寵」と言う以外、説明のしようがない出来事です。何故なら、何の優位も誉れもない「イスラエル民族の一人」として神の御子を迎えることが出来たからです。
しかし、その結果はどうであったでしょう。彼らは、世に来られた神の御子キリストを追い払ってしまったのです。神の御心に背を向け、自分たちの思いの中に閉じこもり、福音を自ら遠ざけてしまったのが、この時代のユダヤ人でした。
そして今、遠く離れた異教の地ティルスの町で、「神の選びの外に置かれたと見做されて来た異邦人の女が、キリストの足下にひれ伏した」という場面を語るマルコ福音書は何を伝えようとしているか。
ユダヤ人たちは、神から与えられた律法を自分たちの生き方の基準にして来ました。しかし、長い時の中で御心を忘れ、「神の民として生きよ」という律法本来の目的を忘れて、自分たちの社会生活を正当化するために利用し続けたのです。それ故に、今、その律法が「本来の役目を取り戻す時が来た」という、まさに歴史的な瞬間に遭遇しても、自分たちのこれ迄の生き方を守るために、新しい時の到来を告げる神の御子の言葉を聞かず、イスラエルの地での宣教を拒否したのです。
しかしながら、そこに予想外の出来事が生じました。神に選ばれたユダヤ人が追い出した御子キリストの前に、異邦人の女性、ユダヤ人から見れば救いの外に置かれ、哀れな民族と蔑まれて来た異邦人の女性が、「ひれ伏した」というのです。ユダヤ人の頑なさは、この世に来られた御子キリストを追い払って、かえって皮肉にも、福音を求める人間、キリストを求める人間を、新たに異邦人の中から生み出す結果となったのです。それが、27節にある主イエスの『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。』との御言葉です。このたとえでは、「子供たち」はイスラエルを表し、「子犬」が異邦人を表しています。ユダヤ人が異邦人を「犬」と呼んで軽蔑していたことは事実であり、そのため「イエスもそのような差別をするのか」と非難する人があります。ここでは、主イエスは異邦人を差別しておられるのではありません。長い歴史を貫く神の愛の確かさを語られたのです。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」。この言葉の中に父なる神の御心の実現に仕える主イエスの姿が示されていると言えるでしょう。かつて主なる神は、救いを実現するために、あらゆる人々の中からユダヤ人を選ばれたのであり、それが歴史を貫く神の御業でありました。
しかしユダヤ人は、選ばれた恩寵を、いつの間にか「恩寵として受け止めること」を忘れたのです。愛されたことに感謝を忘れる時、神の民は「神の民としての最も大切なあり方」を失ってしまいました。イスラエルの民は、「この世に来られた御子に導かれ、神の国に入る人々の先頭に立つ」という使命を捨ててしまったのです。

神の御子を追い出して福音を自ら締め出したユダヤ人。その現実にも拘らず、「選ばれた民を見詰める御心は変わっていない」と主イエスはこの譬えで言われているのです。ここが大切なところです。主イエスは、ティルスという遠く国境の彼方に追われながらも、そこで明らかにしたのは、御自身が選び出した者、即ち、ユダヤ人への変わることのない神の愛でした。神の愛は、何処までも愛する者への愛を変えない永遠の愛です。
それ故に、「まず、子供たち(イスラエル)のために」という「初めの愛」の神の御心を想う時、その愛を拒否する人間の罪が、更に、明らかにされて来ます。28節には、「女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。』」。
この女性は、主イエスの御言葉を正しく受け止め、御心に相応しく答えました。28節の女性の言葉は、原文では「主よ」という言葉の後ろに「そのとおりです」という意味のギリシャ語の「カイ」という言葉が記されています。この言葉は地味な言葉で、新共同訳聖書では省略されてしまっていますが、内容的には極めて重要であり、口語訳では「主よ、お言葉どおりです」と訳されています。彼女は、「主よ、お言葉どおりです」と御前にひれ伏した上で、憐れみを求めているのです。
27節で主イエスが言われたのは、今見て来たように、先ずユダヤ人への愛でした。病気に苦しむ幼い娘を抱えた女性を前にして、キリストは、父なる神が選ばれたユダヤ人への愛を、まず明らかにされたのです。病気で苦しむ娘を持つ親の気持ちを考えれば、冷たい仕打ちと思われるかもしれません。眼の前で助けを求める者を差し置いて、ユダヤ人のことを思っているからです。
しかし、驚くべきことは、その主イエスに対する女性の態度です。彼女は、それでもなお、「主よ、そのとおりです」と御心に服従し、自分の立場をへりくだっています。神への祈りは、「主よ、お言葉のとおりです」という「キリストへのまったき服従」の後に初めて意味を持つのです。この女性の告白した神の御心への服従こそ、本来、ユダヤ人が告白すべきことであった筈です。ユダヤ人は、その告白をするための民族として選ばれていたからです。
しかし、そのユダヤ人が御言葉に背を向け、異邦人の女がユダヤ人に代わって御心への服従を告白しているということこそ、実は、新しい神の民、新しいイスラエルの誕生が、ここに暗示されているのです
そして29節から30節で、主イエスは言われました。「『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出て行ってしまった。』女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出て行ってしまっていた。」とあります。
奇跡は起こりました。そしてそこで起こった奇跡とは、「娘の病気が治った」という「出来事」だけではなく、「まず、ユダヤ人に」という「神の救いの御計画」に等しく異邦人も加えられたのです。神の恵みの御業が、等しく異邦人へも向けられたのです。マルコ福音書が告げるのは、29節の「それほど言うなら」という主イエスの御言葉が異邦人にも向けられるのだという大きな転換の出来事なのです。
キリストの愛に分け隔てはないのです。ただ、キリストを受け入れる者だけが、その愛を「驚くべき奇跡」として喜ぶことが出来るのです。救われた喜びを十分に受け止めることが出来るのです。
今、私たちは福音のもとにいます。救いの御業の中にあります。
私たちを憐れまれるキリストの愛が、私たち異邦人にも注がれたという事実を忘れてはなりません。ただ、キリストの愛に基く恩寵によってのみ、私たちは生きているのです。
悪霊から解放された娘を見詰める女性の喜びが、今、私たちの心にも甦って来るでしよう。その驚きと喜び、そして感謝を共有するのがキリスト者という者の姿なのです。
この素晴らしい救いの喜びを、教会の皆様共々に、お一人でも多くの方々と共にしようではありませんか。
お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>

謙遜な神様

CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌19番
讃美歌183番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 45章23-25節 (旧約聖書1,137ページ)・

45:23 わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ/すべての舌は誓いを立て
45:24 恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。主に対して怒りを燃やした者はことごとく/主に服し、恥を受ける。
45:25 イスラエルの子孫はすべて/主によって、正しい者とされて誇る。

新約聖書:フィリピの信徒への手紙 2章6-11節 (新約聖書363ページ)

2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえ

《説教》『謙遜な神様』

今日は「新型コロナウィルス感染症による緊急事態宣言」が解除されましたが、東京は引き続いて「まん延防止等重点措置」となってしまい、折角大変久し振りに礼拝堂に集い、教会学校の生徒さんや父母の方々を含めて教会学校との合同礼拝を守ることが、今日は出来ませんでしたが、ライブ配信を通しても、豊かな御言葉に出会えますことを感謝します。また、早く皆様と一堂に揃って礼拝・賛美の時が与えられます様、祈り願います。

今日の聖書箇所は、使徒パウロがキリスト・イエスの本当のお姿をフィリピ教会の信徒だけでなく私たちに熱く語られた『キリスト賛歌』と呼ばれているところです。

私たちは自分自身を省みる時、へりくだることは全く苦手な者であると言えるでしょう。とりわけ自分が目上であったり、自分が優位な立場にある相手に対しては、とてもへりくだることなどできません。そのような私たちに向かって、パウロは、少し前の5節から、へりくだることの大切さを語っているのです。そこには、「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」とあります。パウロは、信仰者がへりくだることの根拠は、キリスト・イエスのへりくだりにあると言うのです。「へりくだる」とは、自分で何か努力して、自分が頑張ってするのではなく、ただキリストを見つめることだと言うのです。

キリストを見つめるとは、キリストをお手本にして、その素晴らしい生き方を見倣うのではありません。キリストを見つめるとは、キリストを自らの救い主と受け入れ、キリストに救われ、キリストご自身の思いを、周りの人々に対して生かすことです。それは、私たちが自分の力で成し遂げられることではなく、キリストに救われた者が、その救いの恵みに感謝して行く時に自然と生まれてくることなのです。

キリスト信仰者が見つめるべき主イエスのお姿は6節から8節に記されています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で表れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。ここは、パウロ以前の初代教会時代で謳われていたキリスト讃歌として知られていました。その当時の教会でどのような礼拝讃美が行われていたか、また、パウロがこのキリスト讃歌にどのように手を加えたかなどが、大変よく研究されてきた聖書箇所と言えます。

ここには、キリストがどのようなお方かが明確に示されています。教会は、ここに記されているキリストのお姿に触れて、讃美を歌わずにはいられなかったのです。ここで先ず、キリストが神の身分であったとあります。キリストは神と等しい方、神ご自身であったのです。しかし、それに固執せず、拘らずに、神の身分を捨てて、人間と同じ者になられたのです。キリスト・イエスとは、神でありながら人となられた方なのです。この世界を創られた創造主である神は、ご自身が造られた被造物である人間と同じではないと私たちは考えます。しかし、主イエスとは、創造主である神ご自身が人となられたのです。創造主なる神、父なる神が、人であるキリスト・イエスとなって世界に来て下さったのです。それも、ただ神が人となったというだけでなく、へりくだって、十字架の死に至るまで従順だったとあるのです。

主イエスが、人間となって、力強い御言葉を語り、人々を癒し、素晴らしい生き方の見本を見せたと言っているのではありません。「十字架の死」にまで従順だったというのです。ここに「十字架の死」という言葉が出てきます。聖書は主イエスが十字架刑によって死なれたことを記しますが、聖書の中でキリストの死を「十字架の死」と言う概念をもって示すのは、今日のこの箇所だけです。十字架刑は、当時のローマ帝国で、最も重い刑罰でした。しかし、ここでの「十字架の死」とは、神様の裁きとしての死のことです。

私たちは、死と聞くと、私たちがいずれ迎える肉体の滅びとしての死を考えます。しかし、聖書は死にもっともっと深い意味を込めているのです。エデンの園から追われた人間は神様から離れて、神様ではなく自分自身が、自分の主人として生きてしまいます。そのように神様から離れることを罪と呼びます。その罪に支配された人間が受けなくてはいけない神の裁きが「十字架の死」なのです。

その十字架の死をキリストが受けて下さったというのです。本来、罪人である人間が受けなくてはならなかった神の裁きとしての死を、人間の姿をとって世に来て下さった神である主イエスが受けて下さった。その刑罰を受けることを、抵抗することもなく、それが人間を救おうとする神の御心である「十字架の死」を受けて下さったのです。私たちすべての人間の行き着く「滅びとしての死」、人間が罪人である以上、避けることが出来ないものを、罪の無い主イエスが受けて下さった。そのように考えると、十字架において主イエスは、人間以上に人間の姿をとって下さったと言っても良いでしょう。罪人が行き着く悲惨な死が、主イエスの十字架の死にあるからです。この出来事こそ、キリストの「へりくだり」ということなのです。ここに、私たちが見つめるべき、へりくだることの原型と言うべきものがあるのです。それは、私たち人間の謙遜などとは全く異なるものであり、キリストの救いにあずかることなしには生まれて来ないものなのです。

今日の聖書箇所の直前の3節で、パウロは、教会の人々にへりくだることを勧める際に、「何事も利己心や虚栄心から」しないようにと語っています。これは、キリストが自分に固執せずにむしろ自分を無にしたというその姿勢が私たちの中に生じる時にはじめて、「利己心」とか「虚栄心」によって振る舞わないという姿勢が取れるというのです。「利己心」というのは、自分の利益のみを求めて行動することです。「虚栄心」とは、自分に栄光が帰されること、人から評価されることを求める思いです。これらのことは、私たち人間の感情においては、ごく自然なものと言って良いかもしれません。「利己心」や「虚栄心」は全ての人間の本質と言っても良いでしょう。私たちは、いつも自分が高められることを求めています。周囲の人々に正当に評価されたいと思いますし、自分が見下されることは耐えられないものです。

そのような私たちにとって、自らの振る舞い全てが、いつしか、自分が高められるということを求めて行われるようになってしまうのです。そこで、個人の業績だったり、学歴だったり、財産だったり自分に栄光を帰してくれるものを求め、それに依り頼んで歩むようになるのです。6節の「固執しようとは思わず」とある「固執する」とは「略奪する」という意味の言葉です、従ってここは「奪い取ろうとは思わず」という意味です。私たちは、本来、自分の身分を高めるために必要なものを獲得しようとします。時には奪い取るようにして獲得し、そして、そのようにして得たものにしがみつき、それを離したくないと思います。固執すると言うのは、しがみつき、離れないことです。自分が人々から誉められ、あがめられることを求めるようになるのです。しかし、私たちがキリストに救われた時に、生きる歩みの中に、自分に固執せず、自分を無にする歩み、言い替えれば、利己心や虚栄心から解放された歩みが生まれていくのです。

大切なことは、キリストのへりくだり、従順の極みである「十字架の死」とは、模範を示すためのものではないのです。「十字架の死」はへりくだりの模範の極みとも言えますが、それ以上に、人間の救いの出来事そのものなのです。このことが忘れられると、キリストの十字架を模範とすることのみが、ただ、私たちの行動を規定するものとなります。例えば、主イエスのお姿から、道徳の規範のみを倣おうとすることが起こります。偉大な教えを説き、人々に良い行いの模範となって下さった主イエスに倣うと言うことのみが強調されてしまいます。主イエスに倣って、少しでも清く正しい歩みをして行こうとするのです。そこからは、周囲の人々の振る舞いを見て、裁くということが起こります。それどころか、主イエスを偉大な革命家のように捉え、主イエスの姿に倣って、その意志を実現するための活動に奔走すると言うこともあるでしょう。そこでは、自分の身近にある社会問題に取り組むことが、キリストに従うことになってしまいます。主イエスを、道徳の教師や、政治的な指導者として考えてしまうとするならば、それは誤りです。そのような時には、キリストを語ることを通して、キリストにかたどった人間の主義主張や倫理観が説かれていくのです。それは、いつしか、それを行い、あるいは、その価値に従うことがキリスト者の務めであるかのように捉えられ、周囲の人々を自分が行っている特定の活動や、特定の価値観に巻き込んでいくことになるでしょう。そこには、本当に、へりくだり、他人を敬い、その賜物を尊重する歩みは生まれて来ません。それは、キリストのへりくだりの中にある、罪の赦しに生かされることが見失われているからです。しかし、ここでは、「キリストのへりくだり」だけを言っているのではありません。今日の後半部の9節には、「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。キリストが十字架に至るまでの従順を貫いたが故に天におられる神様のもとに高く挙げられたと言うのです。このことは、何を意味しているでしょうか。

信仰者の原型となるキリストのへりくだりが語られ、それに続いて、キリストが天に高く挙げられる「キリストの高挙」が語られているのです。ここもそのように考えると、キリストのようにへりくだる歩みをした者は、キリストのように高く挙げられるのだと思ってしまうのではないでしょうか。しかし、ここは、従順を貫くことができた者は、そのご褒美としてキリストのように天に挙げてもらえると言うことではありません。このことは10節と11節では、「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストが主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とあり、またまた、ちょっと理解しにくい話とも思われます。「天上」、「地上」、「地下」、と言われている通り、全ての被造物を含めた、この世界のあらゆるものが、イエスを主として、真に神を讃えるようになるために高く挙げられたと言われているのです。主なる神がキリストに全世界を支配する主権者としての地位を与えた、キリストは神の身分でありながらへりくだったのです。これは、私たちが「イエス・キリストは主である」と告白して、神をたたえつつ歩むことだけでしか、本当にへりくだった者となれないと言っているのです。

私たちは、この世にあって生きている限り、自分が評価されることに拘り続ける者です。何事も利己心や虚栄心から行ってしまう者です。他人のために尽くそうとする時でさえ、又、様々な奉仕に携わる時でさえ、利己心や虚栄心が潜んでいると言えましょう。困難な中にある人々のための活動も、社会の中で虐げられている人々のための奉仕も、自分の業績を評価されることのために行うのであれば、それは方向違いと言えるでしょう。

私たちは、先ず、「イエスの御名にひざまずき」、「『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえ」なければならないのです。主イエスこそが、私たちのためにへりくだって十字架の死を死んで下さったのです。ただ、主イエスのへりくだりに示された救いにあずかることを通してのみ、私たちは、自分に固執せずに、利己心や虚栄心からではなく、キリストを証しするための、愛の業に励むことが出来るのです。

今週も、神を讃美しつつ、新しい歩みを始めたいと思います。お祈りを致します。

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墓場からの生還

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌152番
讃美歌352番
讃美歌380番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 65篇3-5節 (旧約聖書1,167ページ)

65:3 この民は常にわたしを怒らせ、わたしに逆らう。園でいけにえをささげ、屋根の上で香をたき
65:4 墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし/豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れながら
65:5 「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな/わたしはお前にとってあまりに清い」と言う。これらの者は、わたしに怒りの煙を吐かせ/絶えることなく火を燃え上がらせる。

新約聖書:マルコによる福音書 5章1-20節 (新約聖書69ページ)

5:1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
5:3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
5:4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
5:5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
5:6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
5:8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
5:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
5:12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
5:13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
5:14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
5:15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
5:16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
5:17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
5:18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
5:19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
5:20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

《説教》『墓場からの生還』

本日から、マルコによる福音書の5章に入りますが、最初の1節に「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。「一行」とは、主イエス・キリストとその弟子たちで、「湖」とはガリラヤ湖、「向こう岸」とはその東側の岸です。主イエスと弟子たちは舟でガリラヤ湖を渡り、東側のゲラサ人の地に着いたのです。ここはイスラエルの民の地ではなく、当時ギリシャ人が多く暮らす異邦人の地でした。最後の20節に「デカポリス地方」とありますが、「デカ」とは数字の十、「ポリス」は町です。この地方には、ローマ人が建てた十の町があったのです。ゲラサも、その十の町の一つです。この船旅は、主イエスのご意志によることでした。4章35節に、主イエスご自身が「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったとありました。主イエスが湖の向こう岸、異邦人の地に、一人の異邦人の救いのために弟子たちと共に、あの嵐の湖を渡って来られたのです。

ここで主イエスに救われた一人の異邦人とはどんな人間だったのでしょうか。2節に「汚れた霊に取りつかれた人」とあります。その姿は3節から5節にこのように描かれています。「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」とあります。現代の私たちはこれを読むとすぐに、ああこの人は重い精神的な病気だったのだ、と思います。彼は墓場を住まいとしていました。地質に石灰岩の多いパレスティナには洞窟が沢山あり墓に用いていました。悪霊に憑かれていた人は、そこを自分の住まいとしていたのです。そこは普通は人が住むような所ではありません。この人は、普通の人と同じ生活をすることができなくなっていたのです。人間社会の中で、人と共に生きることができなくなって、死者の居場所である墓場にしか居ることができなかったのです。

何故この人は人々と一緒にいることができないのか、それは、「もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」ということがそれを示しています。人々が彼を鎖でつなぎとめておこうとしたのは、彼が暴れ回り、周りの人々に危害を加えてしまうからです。家族でさえもどうしようもない攻撃的、破壊的な衝動が彼を捕えており、それがひとたび現れると、どんな足枷をも鎖をも砕き、引きちぎって、周りの人々を傷つけてしまうからです。それほどに大きな力が出せるのは、汚れた霊、悪霊の力によるものでした。彼の中には大勢の悪霊が住んでおり、それは豚二千匹を怒濤の如くに走らせるほどの力だったと後の方にあります。そのようなすさまじい力で彼は鎖や足枷を破壊していたのです。彼は悪霊によって鎖を引きちぎるほどの大きな力を得ていたのです。その結果、墓場でしか生きることのできない孤独、深い苦しみに陥って、「昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」のです。人との繋がりを失い、徹底的な孤独に陥った彼は、苦しみと絶望の叫びをあげながら、我と我が身を傷つける自暴自棄の日々を送っていのです。この悪霊に憑かれた男に似た話は、聖書の中にしばしば出て来ることから、この時代、「よくある話であった」ということが出来るのではないでしょうか。

異常な世界に住んでいる者が、初めて自分の異常性に気付き、正しい生き方を求めて新しい世界に歩み出して行く、これこそがキリストに出会った人間の姿であり、今日のこの人の物語なのです

人々は、もはや彼をまともな人間とは見做さなかったでしょう。まともな人間の世界から脱落した者としてしか考えなかったでしょう。

それは一面において正しい見方でした。この人の姿は、どう見ても、誰が見ても、神様が愛の対象として創造された人間本来の姿ではなかったからです。

確かにこの人は、墓場、即ち死の世界の入口に住んでいました。町の人々は皆、この人を、自分たちの世界では共に生きることの出来ない異常者と断定し、彼が自分たちの世界に入ることを許さないことで、社会の平安を守ろうとしていたと言えるでしょう。

しかしそれでは、この人の周りにいる人々、私たちを含めてこの物語を読む全ての人々は、自分たちが、この男とは全く生きる世界が異なり、「暗黒の世界、死の入口に住んでいるのではない」と言い切れるでしょうか。

改めて、私たちが生きている世界を見詰めるならば、冷たい洞窟の墓場の中も、暖かい家の中も、実は、「死」と隣り合わせであることに変わりはありません。アダムの罪を背負い、楽園を追放された世界に生きる悲しみを、誰でも知っているでしょう。この世を生きる私たちの「時」は、死を迎えるまでの限られた時間にしか過ぎません。

その死を目前にした私たちが、今、手にしている自由を幸福と結びつけることが出来ず、神の裁きから逃れられないとするならば、今生きている暖かく明るい部屋も、所詮は「虚しさの世界、暗黒の世界への入口である」としか言えないのではないでしょうか。

この人は6節で「いと高き神の子イエス」と呼びかけました。「いと高き神の子」とは主イエスをよく知る弟子たちでさえ言わなかった正しい呼びかけです。しかしその言葉には少しも喜びがありません。正しい表現であっても、それは決して、その正しい呼びかけの神の子に自分を委ねる告白にはなっていないからです。

そのことは、呼びかけに続く「かまわないでくれ」という言葉からも明らかですが、この翻訳は、直訳すれば、「私とあなたとはなんだ」という言い回しです。口語訳聖書は、この意味を含めて、「あなたと私と何の関わりがあるのですか」と訳しています。関係の否定であり、完全な対立、断絶、拒否を表す言葉です。岩波訳聖書では、「お前と俺は何の関係があるのだ」と、はっきりした関わりの否定となっています。

また、「後生だから」と訳されていますが、こんな言葉はギリシア語の原語にはありません。ここのところの原文は「神にかけて誓う」という意味です。つまり、「神にかけて誓う」と、神様を引き合いに出すかと思えば、直ちに「私と何の関係があるのか」と拒絶の姿勢をとり、「私を苦しめるな」「勝手にさせてくれ」と叫んでいるのです。まさに支離滅裂な姿と言わざるを得ません。

主イエスを「神の子」と呼びながら、その救い主・キリストと無関係に生きようとしている人間、また「生きざるを得ない」と思っている人間。それこそが、悪霊に憑かれた人間に共通の姿であり、滅びの入口に住みついて虚しい叫びを上げている人間の惨めな姿なのです。自分を目指して近づいて来られる主イエスを「神の子」と認めながら、「私のことなどかまわないでくれ」「私に関ってくれるな」と叫ぶのが、墓場に住む人間の特徴なのです。

9節で、この人は自分の名は「レギオン」と言います。この名前は象徴的です。レギオンとは、人の名前ではなく、ローマ帝国の軍団のことです。レギオンとは六千人のローマ軍を表す最大単位です。そして悪霊は、名前の意味を自ら「大勢だから」と説明しています。これは、「多くの悪霊がとり憑いている」という意味であろうと言う人もいますが、それよりむしろ、自分が「単なる一個人以上のものである」ということを強調しているのでしょう。

11節で悪霊は主イエスに「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願ったとあります。悪霊は、何故、豚の中に入ることを願ったのでしょうか。

豚は、ユダヤ人にとって、食べることが禁じられている汚れた動物でした。ユダヤ人は、現在に至るまで、豚を飼ったり、その肉を食べたりすることは、決してありません。旧約のレビ記に記されているように、神の民としては絶対に守らなければならない、律法で規定された信仰の問題でした(レビ記11章参照)。

悪霊は、その豚の中なら、主イエスに許されると思ったのでしょう。最低の動物、全く価値無きものと共になら、自分の存続を主イエスが認めると思ったのかもしれません。

神の正義は、いささかも、悪との共存を許すことは有り得ず、神様の愛は、苦しみをもたらす罪の力を放任することは絶対にないのです。悪が隠れる場所は、何処にもないのです。なだれをうって湖の中に落ち込んで行った二千匹の豚は悪霊に対する主イエスの断固とした決意を示しているのです。

14節以下には、「豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取り付かれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。・・・・・そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」とあります。

悪霊の支配から解放されたこの人は、「服を着、正気になって座っている」のです。悪霊に取りつかれていた時は裸だった彼が服を着るようになったのは、人間としての生活の秩序の中に戻ったということです。そして彼は「座っていた」のです。どこに座っていたのでしょうか。ルカによる福音書第8章に並行記事があります。そこでは彼は、「正気になってイエスの足もとに座っている」と語られています。彼は主イエスの足もとに座って、弟子たちと共に、主イエスのみ言葉を聞いていたのです。主イエスに対して「あなたと私は関係ない。かまわないでくれ」と言っていた者が、主イエスの足下に座ってそのみ言葉に耳を傾け、主イエスに聞き従う者となる、これが、悪霊の支配から解放され、正気になるということです。悪霊は、自分を縛りつけるあらゆる束縛を断ち切り、勝手気ままに生きるようにと彼を唆(そそのか)し、その力を与えました。その結果彼は自分の言葉を奪われ、悪霊の言葉を語るようになりました。つまり自由になるどころか、悪霊の奴隷となり、周囲の人々を傷付け、自分も孤独に陥り、墓場でしか生きられない、罪と死に支配された者となってしまったのです。その罪と死からの解放は、悪霊に勝利した神の子、主イエス・キリストの下に置かれることによってもたらされます。主イエスの足下に座ってみ言葉に聞き従う者となる時にこそ私たちは、悪霊の支配から解放され、正気になって生きることができるのです。

彼が主イエスに聞き従う者となったことは、18節で主イエスがその地を立ち去ろうとなさった時、彼が「一緒に行きたいと願った」とあることからも分かります。しかし主イエスは彼に「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」とおっしゃいました。主イエスは彼を悪霊に取りつかれ飛び出してきた家へ帰されたのです。束縛を嫌い、勝手気ままに生きようとして、共にいることができなくなったその人間関係の中へ帰されたのです。主イエスは彼がその人間関係をもう一度回復することを願って、彼をそこへと新たに派遣なさったのです。

私たちはここに、主イエスによる救いの大事な一面を見ることができます。信仰に生きるとは一方では、弟子たちのように、また彼が主イエスに願ったように、日常の生活を捨て、それまでの人間関係を断ち切って主イエスに従っていくということです。しかしまた同時に信仰者は、主イエスによって、自分の家族の中へと、与えられている人間関係の中へと新たに派遣されるのです。自由を求める思いやプライドを守ろうとする自分の思いに捉われて人との交わりを破壊してしまう私たちが、主イエスによって正気になって、その人々と共に生きる者へと変えられ、交わりを回復されていくのです。

マルコによる福音書は、冒頭の1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた」と、主イエスご自身の「新しい時が来た」とのみ言葉から始まっています。今日の物語は、この一人の異邦人に「新しい時」を与えられる主イエスが示されているのです。

主イエスによって正気になったこの異邦人は、「イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」と20節にあります。この人は、家族、同胞のもとへと主イエスによって新たに遣わされ、そこから新たに主イエスによる救いの恵みを証しし、宣べ伝えていったのです。

お祈りを致します。

キリストの復活

イースターCS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌147番
讃美歌151番
讃美歌148番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 12章1-6節 (旧約聖書1,079ページ)

◆救いの感謝
12:1 その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。
12:2 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」
12:3 あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。
12:4 その日には、あなたたちは言うであろう。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し/気高い御名を告げ知らせよ。
12:5 主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。
12:6 シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」

新約聖書:マタイによる福音書 28章1-10節 (新約聖書59ページ)

◆復活する
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

《説教》『キリストの復活』

今日はイースターです。主イエスが私たちの罪のために十字架に架かって死なれて3日目によみがえられた、復活されたことをお祝いする『復活祭』です。それを英語でイースターと言います。皆様と共におめでとうとお祝い致しましょう。

さて、今日は先ほどお読みした聖書箇所から主イエスの「復活」について考えてみたいと思います。そのためにマタイ福音書を少し前まで遡って、主イエスのご受難、十字架の経過を少し振り返って見たいと思います。

26章で主イエスは最後の晩餐を終られて、弟子たちを連れてゲッセマネへ行き、父なる神様に血の滲む祈りを捧げられました。すると、裏切りのユダに先導されたユダヤ宗教指導者の差し向けた兵士や大勢の群衆に主イエスは捕まえられました。そして、ユダヤ教の大祭司カイアファのもとで尋問を受け、続いて、ローマ帝国の総督ピラトから裁判を受けられたことが書かれています。そして、総督ピラトによる裁判が行われ、主イエスに何の罪をも見いだせなかったものの、ユダヤ群衆から異常な圧力を受け主イエスに死刑の判決を下します。そして主イエスは十字架につけられ、直前の鞭打ちの苦しみや痛みも相まって6時間ほどの短い時間で息を引き取られました。その主イエスの亡骸をアリマタヤのヨセフが引き取り、自分のために準備した新しい墓にご遺体を葬り大きな石で墓の入口を塞ぎました。そして、過越祭の終わった三日目の朝に、マグダラのマリアが、その主イエスの墓に行ったところが、今日の主イエスのご復活の聖書箇所です。

因みに、新約聖書の中には主イエスが様々な奇蹟を行われる記事があります。特に主イエスが死んだ人を生き返らせる奇蹟物語は有名で、皆さんもよくご存知ではないでしょうか。なかでも、ルカ福音書7章の「ナインのやもめの息子のよみがえり」、マルコ福音書5章の「会堂長ヤイロの娘のよみがえり」、そして、ヨハネ福音書11章の「ラザロのよみがえり」の3つの死からのよみがえり、奇蹟物語がよく知られています。これらは、主イエスが死人を生き返らせた奇蹟物語ですが、これら蘇り・生き返る物語は今日の主イエスご自身の「復活」とは全く意味が違います。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書は、それぞれ特徴があります。例えば、主イエスがお生まれになった降誕記事であるクリスマス物語を省略するマルコ福音書や“ロゴスは肉となってわたしたちの間に宿られた”と抽象的な表し方をするヨハネ福音書がありますが、この主イエスの「復活記事」を省略する福音書はありません。四福音書すべてが必ず主イエスの復活記事を書いていることからも、聖書にとって主イエスの「復活」が極めて重要な物語であると理解できます。主イエスの復活こそが、キリスト教の中心テーマであり、最も大切な主イエスによる救いへと繋がっているのです。

四福音書すべてに記されている主イエスの復活記事は通常2つの形に分類されます。主イエスのご遺体が墓の中にはないことを記し、間接的に主イエスの復活を物語る「空の墓物語」がまず一つの形です。そして、もう一つは復活の主イエスが弟子たちに御姿を現されたことを記す、顕微鏡の「顕」に現われると書く「顕現物語」が二つ目です。

1節の「週の初めの日」とは、金曜日に十字架で死なれ葬られた主イエス復活の日のことで日曜日です。この日曜日の朝に主イエスの墓を訪れた者として、マタイ・マルコ・ルカ3つの共観福音書が複数の女性たちの名前を挙げています。ここで「もう一人のマリア」とは、間違いなく主イエスの母マリアと考えられていますが、何故「イエスの母マリア」とせずに「もう一人のマリア」とマルコが書いているのか意図は不明です。このマタイ福音書では婦人たちが墓へ行った理由は記されていませんが、他の共観福音書によると、それは過越祭の前の十字架刑のために急いで葬られた主イエスの未完成に終った葬りを完成させるためであったと思われます(マコ16:1)。

マグダラのマリアは、2節にあるように、天から下ってきた天使に「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」と主イエスの復活とガリラヤでの再会の約束まで告げられ、そのことを弟子たちに告げ知らせる様に命じられました。

主イエスの復活の様子は、四福音書それぞれの記事によれば、先ず空の墓が発見され、主イエスの亡骸がなくなっていたこと、その次には天使による御告げ、これは天の上から行われたことであるとの知らせであり、最後に復活の主イエスの顕現、つまり人々の目に見えるお姿でマグダラのマリアだけでなく弟子たちを始め多くの人々に姿を現されたということでした。

天使の言うことを畏れながらも喜んで聞いたマリアが、このことを弟子たちに知らせようと墓から走り出すと、何と死なれた筈の主イエスが、行く手に立って「おはよう」と声をかけて来られました。

マグダラのマリアは、ルカ福音書8章から登場して主イエスのガリラヤからの宣教の早い時期から付き従って旅をするようになりました。主イエスのことを最も慕う女性の一人でした。主イエスが十字架で処刑され、弟子たちも逃げ去っていった中で、主イエスが息を引き取られる最後まで見届けました。そして、日曜日の朝早く、押え切れない気持で、墓へ行ったのです。

神様を信じる信仰には、“サル型”と“ネコ型”があると言われています。サルは自分の子供を運ぶ時、子ザルを母ザルのお腹にしっかりとしがみつかせます。母ザルが自分の手で子ザルを抱えることはありません。子ザルは掴んでいる手を離したら終わりです。従って、サルの子供は必死で母ザルにすがりつくことになります。一方、ネコの子供は移動する時、母ネコが子ネコをくわえて運びます。子ネコはすがりつこうにも四つ足ともブランブランです。力を抜いて、お母さんにお任せなのです。信仰は、サルの子のように自分の力でしがみつく信仰と、ネコの子のように、お任せしてしまう、お委ねする信仰とがあると言えます。私たちの信仰は、自分の力で必死にすがりつくような信仰ではなく、神様を信頼し切って、安心して自分のすべてを神様にお委ねできるような信仰へ変えられなければならないのです。

自分からすがりつく信仰は頑張らなければならない信仰です。一生懸命努力しなければならない信仰です。それは疲れます。いつも自分の方からすがりついていなければならない。自分が手を離したら終わりです。信仰のために自分が、頑張らなければならない。善い行いや努力をしていないと、神様に愛してもらえない、見捨てられてしまうのではないだろうか。そんな不安が心の中に大きな場所を占めます。その結果、自分は神様に愛されていないのではないだろうか、見捨てられてしまうのではないだろうか、と不安になっていないでしょうか。教会での奉仕や良い行いが充分にできれば安心します。しかし、教会奉仕や自助努力が足りないと思うと落ち込んだりしてしまうのではないでしょうか。

頑張らないと神様に愛されない人生になっていないでしょうか。もちろん、何事に対しても努力するのは極めて大切です。しかし、努力の結果で、神様が私たちを愛されるのか、愛されないのかが決まるのではありません。神様の愛とは、そんなものではないのです。

あなたは愛されている存在だ。聖書は、私たちに、そのように語りかけます。たとえ善い行いができなくても、何もできなくても、結果が出せなくても、神様はあなたを一方的に愛してくださっている。その手で、しっかりと掴んでいてくださる。だから、私たちは、“良い子でいなければ”と力む力を抜いて、“神様、感謝します。こんな私ですが、よろしくお願いします”と、神様を信頼し、お任せする。お委ねする。そこに安心が生まれます。喜びが生まれます。

そんな人生の安心と喜びに気づかせるために、復活した主イエスは、マリアに「おはよう」と声をかけられたに違いありません。「イエス様はどこ?」「幸せはどこ?」「救いはどこ?」と、必死に願い求めているマリアに声をかけられました。

マタイ福音書での主イエスの本当の栄光とは十字架で私たちの罪のために死なれたことだけではなく、十字架で死なれても復活されて、天に上げられ、天に存在されていることです。

「復活」とは一度死んだ者が再び息を吹き返すという現象、「生き返り」や「蘇生」とは全く違います。「復活」とは主イエスが初めてなさった特別な御業なのです。この世には復活を認めない人たちも沢山います。クリスチャンを名乗る人の中にさえ復活を認めない人たちもいるのです。

復活を認めない人たちが主イエスの墓が空であった理由を大きく分けて二つ挙げています。まずその第一は、主イエスの親しい者たちが運び去ったというもの。第二は、主イエスの敵が盗んだというもの。いずれも問題があります。第一の説は、弟子たちはこの時復活をはっきりと信じていなかったし、ユダヤ人を恐れて隠れていたうえ、墓は数人の番兵が番をしており、たとえ亡骸を墓から運び出そうとしても難しかったでしょう。第二の「敵が盗んだ」はそうしなければならない動機が見当たりません。何より、弟子たちが主の復活の宣教を開始した時、主のからだを敵が提示して反論することができなかったことでも分かります。これだけでも主イエスの復活が確認されるんではないでしょうか。逆に復活の裏付けとなるのは、四福音書とⅠコリ15章に記されている主イエスの合計10回に上る顕現物語ではないでしょうか。それら一つ一つの記事は、それぞれが独立して多様性を持っています。後になって調和させたとは考えられません。主イエスが復活されたという主要な点においてはすべての記事が一致しています。

また多くの人々に復活の主イエスが現れた状況や、主イエスの十字架を見て逃げ去ってしまった弟子たちが復活の主イエスに出会って大きな変化が起きたことは否定できません。何が弟子たちを逃げ隠れする者から殉教を恐れず大胆に福音を語る者に変えたのでしょう。弟子たちに勇気と確信を与え、伝道者とさせたのは復活の主イエスに出会ったからに他ならないのです。また、それまでは、ユダヤ人として土曜日の安息日を守っていた弟子たちが、なぜ土曜日に代えて日曜日の主の日を守り、また聖餐を祝うようになったのか、そして1節にあるようにこの日が「週の初めの日」になったのか。これらはみな、キリストの復活によってなされたものと考えるべきです。洗礼“バプテスマ”は、キリストと共に葬られ、よみがえったことのしるしです。この主イエスの復活は神様の御業であり、キリスト信仰の基礎なのです。

そして、主イエスがなされたこの復活は私たちにも将来起きる、終末の時にすべての人々に起きる。その終末の時には、生きている人々だけでなく、死んだ人々も復活すると新約聖書は語っているのです。

復活した身体がどんなものなのかについては、聖書では詳しくは語られていません。しかし、主イエスの復活が私たちの救いと密接に結びついていることは、ローマの信徒への手紙4章25節にある様に「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」という言葉からも明確に分かります。

私たちの罪を贖うために十字架で死なれた主イエスは復活されて、今も私たちが義とされるため、私たちを罪から救うために生きて働いておられるのです。

復活を信じることは、主イエスを信じる信仰、キリスト教信仰の中心なのです。神様の恵みである主イエスの復活なくしてキリスト教信仰はないのです。この主イエスの復活を信じるか、信じないかでキリスト教信仰が大きく変わると言えます。この復活信仰は、私たちが努力して身に着け、己の知識とするものではないのです。マグダラのマリアが復活の主イエスに出会ったように、主イエスから一方的に与えられる愛によるのです。私たちが主イエスの呼び掛けに応える時に与えられる一方的な信仰の恵みなのです。

最後にヨハネによる福音書20章27節、新約聖書210ページをお読みします。「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」

復活の主イエスは疑い深い弟子のトマスだけでなく、私たちみんなに『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛けているのです。疑うトマスにも優しく呼び掛けられる復活の主イエスは、今も生きて私たちを愛して『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛け続けられているのです。

深く信じる信仰を与えられ、「祈りの家」としての教会に仕え続けることができますよう。

お祈りを致します。