神の力、神の知恵

教会学校との合同礼拝

《賛美歌》

讃美歌344番
讃美歌54番
讃美歌354番

《聖書箇所》

旧約聖書  イザヤ書 29篇13-14節 (旧約聖書1,105ページ)

29:13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。
29:14 それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」

新約聖書  コリントの信徒への手紙 第一 1章18-25節 (新約聖書300ページ)

1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」
1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

《説教》『神の力、神の知恵』

今日、私たちに与えられた聖書の言葉は、現在は廃墟になっていますが、2000年前は地中海東西交易の拠点として大変に繁栄したギリシャのコリントと呼ばれる町につくられたばかりの教会へ、使徒パウロが書き送ったキリスト信仰の基本をしたためた手紙です。

最初に、「十字架の言葉」とありますが、それは、イエス・キリストの十字架の死による罪人の贖い、つまり「福音」そのものを現わしている言葉です。

「十字架の言葉」である「福音」とは、この世を罪から救う神の力ですとパウロは語ります。そして、その「十字架の言葉」は「滅んでいく者にとっては愚かなものでも、救われる者には神の力」であると続きます。

その「福音」とは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることですが、それは「ユダヤ人にはつまずかせるもの」でしかなく、「異邦人には愚かなもの」でしかないとパウロは嘆いているのです。

つまりユダヤ人にとっても、また、ここで異邦人といわれているギリシャ人たちにとっても、イエス・キリストの十字架を愚かなこととして、その救いを受け入れることが出来なかったと言っているのです。

そのユダヤ人も異邦人も救いを受け入れられない理由とは、まずユダヤ人たちは、しるしを求めるが故に、十字架につけられたキリストを受け入れられないのです。しるしとは奇蹟といった、目に見える証拠です。イエスが救い主キリストである具体的で目に見える証拠を示せ、と求めているのです。ユダヤ人は、自分たちが神様に選ばれた神の民であるという誇りと自負、「神に対するエリート意識」を強く持っていました。ユダヤ人たちにとって、イエスが、救い主キリストであるしるしとは、自分たちが守り引き継いで来たユダヤ教の伝統を尊重し、律法を守ることが必要な上に、ダビデ王のように、この世にあってのユダヤの民を守り導く力強い指導者でなければなりませんでした。犯罪人として十字架に架けられ死刑となったイエスは力ない無力な敗北者でしかなかったのでした。

そして、一方のギリシャ人は、この時代の地中海文明のローマ帝国の中にあっての学問や知識の中核をなしていました。この時代の地中海の共通語はギリシャ語であり、古代ギリシャには多くの哲学や思想が生まれ、地中海文明をリードしていたと言えましょう。そのギリシャ人にとって、重罪人として十字架刑で死んだイエスに何の魅力も感じなかったのでした。山上の説教に見られる、イエスの教えだけなら、知恵を求める彼らにとって少しは魅力的に映ったかも知れません。しかし、奴隷など身分の低い者を見せしめのために苦しめさせる極めて残酷な十字架刑で処刑されたイエスは、ギリシャ人にとっては愚かな一塊の犯罪者・死刑囚でしかなかったのです。

つまり、十字架のイエスは、ユダヤ人にとっては「つまづかせるもの」であり、ギリシャ人にとっては「愚かなもの」でしかなかったのでした。

一方、私たち現代人も、ギリシャ人のように知恵を求めています。聖書の中にキリストの合理的な教えを見い出し、人生の指針にしようと聖書を読む人々は多いと言えます。その様に聖書を読む人々は「聖書はキリストの教えの溢れる人生の指針である」と言い、しかし「イエスの奇蹟をはじめ、疑問も色々ある。特に自分たち人間にとっての十字架の救いが強調されているが、自分は何も罪を犯してないので救いの必要は感じない。その上、特にイエスの復活は到底信じられないし、その必要も感じない」と言うでしょう。特に私自身の経験を踏まえて、「自分は罪など犯したことがない」と言い切る人々は日本人には極めて多いと言えるでしょう。ずっと以前に奉仕していた某教会に熱心に長いこと通われていた姉妹が「私は決して罪など犯したことがない」と声高に言われていたのが、今でも思い出されます。

十字架につけられ殺され、まして復活したキリストなど、合理性を重んじる現代的な考えでは、まったく愚かなものであり、信じるに値しないと思われてしまいます。

そして、私たちは目に見える証拠、ユダヤ人のようにしるしをも求めます。信じる信仰の決断の前には、明確なしるし、証拠が欲しいと思ってしまいます。そのしるし・証拠とは、自分が納得できる理由や根拠のことです。納得できなければ信じることは出来ないのです。それはある意味では当然のこととも言えるでしょう。当たり前のことですが、納得できないのに信じるのでは信仰にはなり得ません。とりわけ現代人は科学的な根拠や奇蹟の理解できる裏付けを求めます。私たちは、証拠の示せないもの、科学的な裏付けのないもの、理論化・数式化できないもの信じないようにと教育されて来たのです。

ところが、この証拠、しるしを求めるとは、実は人が自分の思いに適っていることを求める、ということなのです。人が納得できるしるしとは、人間が神様を信じる姿勢ではなく、人間の側から神を判断し、信ずべき神か、そうではない神か、を人間が決める。人間が神に優先して判断する、人間が神の支配者となることを意味し、信仰には最も相応しくない姿勢なのです。

そんな人間の考えではなく、神様は十字架につけられたイエス・キリストの愚かさによって、信じる者を救おうと考えられたのです。神様が、私達罪人を救うために、徹底的に愚かになって下さったのが、イエス・キリストの十字架の御業だったと言われているのです。

ここにある「宣教の愚かさ」とは、イエス・キリストの汚らわしくも恥ずべき十字架の死が、如何にして、本当にこの世に救いをもたらすかを語っているのです。神様はそのように愚かになってまで、罪人である私たちを救おうとして下さっているのです。

私たちは、自分がより高く、立派になり、知恵ある者となって神の救いを得る、という方がずっと好ましいと思っているのではないでしょうか。それは誰もが持っている、いや持てと教えられてきた誇りや向上心からそうなると言えましょう。それは、いくら意識しても取り切れない無意識の中に深く根差しているのです。

聖書が言いたいのは、私たちは十字架につけられて死ななければならなかった罪人であり、その罪からは自分の力で救いを得ることは出来ないのだ、と言うことです。その私たちの、自分ではどうすることもできない罪を、神様の独り子イエス・キリストが全て担って十字架に架かって死んで下さった。そこに神様による赦しの恵み、救いがある、と教えているのです。

この救いは、自分の努力など人の力では得られません。神様が一方的に私たちを選び出し、召して下さった時にのみ、救いに与れるのです。

愚かで見栄えのしない十字架につけられたキリストこそ、私たちのために神様が遣わして下さった救い主だと信じることが出来るのは、神様が私たちを信じる者へと召して下さり、聖霊を遣わして下さったからなのです。この神様の招きを私たちの間で実現して下さるのが、聖霊の働きなのです。私たちが、十字架の言葉を信じ、十字架につけられたキリストこそ私たちに救いを与える神の力、神の知恵であることを受け入れるとき、そこに聖霊が働いて下さっているのです。

十字架につけられたキリストを宣べ伝える「宣教の愚かさ」によって、信じて救いに与る者を神様は聖霊によって召し集め、その群れを、この世に教会としてくださいました。

愚かと言われながらも御言葉を宣べ伝える私たちが、この先も更に悔改め、益々砕かれて、如何に愚かと言われようが、十字架のキリストを宣べ伝え、教会に仕える者、人々に仕える僕、となることが出来ますように、聖霊の導きをお祈りを致しましょう。

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悲しみが喜びに変わる

《賛美歌》

讃美歌56番
讃美歌338番
讃美歌515番

《聖書箇所》

旧約聖書  イザヤ書 26篇17節 (旧約聖書1,100ページ)

26:17 妊婦に出産のときが近づくと/もだえ苦しみ、叫びます。主よ、わたしたちもあなたの御前で/このようでした。

新約聖書  ヨハネによる福音書 16章12~24節 (新約聖書200ページ)

16:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
16:14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
16:16 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」
16:17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」
16:18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
16:19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。
16:20 はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。
16:21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。
16:22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
16:23 その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。
16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

《説教原稿》

イエスは今や十字架の時、父なる神の御許へ帰る時が近付いていたので、弟子たちに対して告別の説教をされてきました。しかし、弟子たちにはそれらのことが十分に理解出来たわけではありませんでした。

助け主なる聖霊が弟子たちに派遣されることと、その働きについては、ヨハネによる福音書14章で、主イエスは、ハッキリと弟子たちに話されました。16章7節では、主イエスが去ることが「弁護者」の到来という益をもたらすとまで語られています。この「弁護者」とは、皆様がよくご存知の「聖霊」を指しています。この聖霊が派遣されると、8節にあるように、この世に対しては「罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」のです。

そして、本日の12節以下に入ります。そこには主イエスが弟子たちに、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」と、主イエスの弟子たちに対する別れの言葉が続いています。主イエスは、とにかく弟子たちに慰めと励ましの言葉を残し、聖霊を派遣されようとしておられるのがよく分かります。

派遣される聖霊の働きとは、13節にあるように「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と弟子たちに対して真理を明らかにするのです。弟子たちは、しばしば主イエスの言葉を十分には理解出来ませんでした。しかし、弁護者である聖霊は弟子たちに主イエスの言葉の意味を明らかにして、弟子たちをすべての真理に導くのです。主イエスこそが、その十字架においてこの世を救われ、聖霊はこれらのことを世に対して明らかにするのです(8‐11)。従って14節にあるように「その方(御霊)はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」と聖霊の働きがはっきり述べられているのです。16節には、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」と、またしても弟子たちの理解出来ないことを言われました。弟子たちは、主イエスの言葉と態度に、何かしら、いつもと違うただならぬものを感じ取っています。張りつめた空気が漂っています。しかし、その言葉の真意を悟ることができませんでした。

この時になっても、まだ主イエスが明くる日に十字架にかかって死なれることになるということを、弟子たちは誰も信じることができなかったのです。弟子たちは互いに、言い合いました。17節と18節に、そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」と、弟子たちのうろたえた様子を伝えています。

聖書を読んで、この後の展開を知っている私たちにしてみれば、もどかしい気もします。「ここまでイエス様がおっしゃっているのに、どうしてわからないのか。」何か映画やドラマのあらすじを知っている者が、その物語の中の登場人物が、それが分らずにいるのがもどかしく見えるのに似ているかも知れません。すぐ横に解決のヒントがあるのに。犯人が分かっているのに。でもそれに気づかないで、通り過ぎていく。テレビドラマなどを見ていると、こちらも、じれったくてイライラしてきます。「ほらそこにいるのに、どうして気づかないの。すぐそこにいるじゃないの。そっちじゃない! こっちだ、こっちだ!」テレビを見ながら、本気で叫んでいる人もいます。

しかし考えてみると、私たちと主イエスの関係も、これと似たところがあるのかも知れません。すぐそばにおられるのに分からない。すぐそばに解決のヒントがあるのに、それに気づかないのではないでしょうか。それをもう一つ、別の視点で見れば、「救いはそこまで来ているのに、どうして気づかないの」ということになるかも知れません。

その気付かぬ弟子たちに主イエスはお答えになります。続く19節で、「イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」とあります。

この時、弟子たちは不安と恐れの真っ只中にありました。主イエスがまだ目の前におられる訳ですから、まだ悲しみはそれほど感じていないかも知れません。しかし、主イエスは彼らの悲しみを先取りして、しかもその悲しみは一時的なものだと言って慰め、その先には喜びが待っていると告げられるのです。

少し前の14章19節に「しばらくすると」という言葉が1回出てきます。ところがこの16章では、何と7回も出てきます。この「しばらくすると」と言う言葉が、これから「しばらくすると」自分はいなくなる。しかしまた「しばらくすると」帰ってくる。主イエスは、悲しみに続く喜びまで語っておられるのです。

「しばらくすると」とはおもしろい表現です。日本語訳の幾つかの聖書を読み比べてみましたが、どの聖書も「しばらく」という言葉を使っています。この「しばらく」というのは、「ほんのわずかの間」という意味です。ちなみにギリシャ語では、ミクロンという言葉です。ミクロンというのは、目に見えない小さな世界です。それほど小さな時間、という意味なのです。

時間の感覚というのは、非常に主観的なものです。「しばらく」というのも、それがどれ位の長さなのかは、状況次第です。人によって受けとめ方が違います。同じ時間でも、楽しい時間はあっという間に過ぎますが、苦しい時間は、言いようもなく長く感じたりします。「テレビドラマの30分はあっという間なのに、教会の説教の30分は何でこんなに長いのか」と感じている人もおられるかも知れません。そう言われないように私も頑張り、今日は30分丁度で終ります。

弟子たちにとって、主イエスと一緒にいた「しばらく」の間は、あっという間に過ぎたことでしょうが、十字架の後の悲嘆にくれた「しばらく」の間は、とても長く感じられたことでしょう。

この最初の「しばらくすると」の後は、主イエスの受難、十字架の死を指しているのですが、その次に「喜びに変わる」時とは、復活を指していると読むこともできますし、「聖霊降臨」を指している、と読むこともできるでしょう。

いずれにせよ、主イエスは弟子たちの疑問に明確な答を与えられませんでしたが、弟子たちの悲しみがやがては奪い去ることの出来ない喜びに変る日が来ることを約束されたのです。

もともとヨハネ福音書は、ルカ福音書のようにはっきりと復活の40日後に聖霊降臨という出来事があったという書き方をしてはいません。復活と聖霊降臨が同時であったと読まざるを得ません。ヨハネ福音書の聖霊降臨は20章22節で復活の主イエスが弟子たちの家を訪れ、戸に鍵がかかっているのに、ドアをすり抜けて、弟子たちに息を吹きかけながら「聖霊を受けなさい」と言われるのが聖霊降臨にあたります。

私たちは生きて行く中で、つらい悲しみや苦しみの時があります。また、それに代わる喜びの時もあります。今日の20節の終わりでは「悲しみが喜びに変わる」と主イエスははっきりと言われています。悲しみと喜びが無関係に交互に現れてくるのではなくて、悲しみが喜びに変わると言われています。しかも、このことをたいへん具体的な例で21節に「女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。」と、「時」という言葉を使いながら、女性の出産前後の苦しみと喜びのことを表しています。女性が出産後、一人の人間が世に生まれ出る喜びのために、もはや出産の苦痛を思い出さないことに譬えています。今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。

16章で7回も出て来た、「しばらくすると」は終末の日を指し示している、という風に読むこともできます。未だこの約束は実現していない。私たちにはまだ悲しみが残っている。そのことは、22節の「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」とあります。この喜びは、わずか一時(いっとき)であるというのではありません。

今日の聖書箇所の時点では、何も分からなかった弟子たちでした。悲しみで心が閉ざされていて、喜びなどなかったのでした。しかし喜びが与えられると主イエスから約束されたことが実現します。20章19節以下に、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」とあります。弟子たちは復活の主イエスに出会い、本当に「喜んだ」のです。

主イエスは22節で言われました。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」とあります。主イエスが与えてくださる喜びは、決して奪い去られないものなのです。

これらはあの2000年前のユダヤで主イエスの復活と聖霊降臨の日に起こったことでした。現代の私たちにしてみれば、主イエスは目に見えるお姿ではおられません。目に見えない聖霊として臨在してくださっているのです。しかし終わりの日にはすべての人の目に明らかに現われてくださる。23節には、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」とあります。なぜ尋ねないのか。すべての疑問が解けるからです。主イエスと顔と顔を合わせて一体となる世界が実現するのです。尋ねる必要がないのです。

主イエスが復活される。それは死を乗り越えることです。それだけではありません。私たち人間の罪を乗り越え、悲惨さを乗り越え、病を乗り越え、悲しみを乗り越え、苦難を乗り越える。あらゆることを乗り越える喜びが与えられるということなのです。

たとえ私たちの人生がどのようであっても、一週間ごとに喜びが約束されている人生が私たちキリスト者の人生です。たとえどのような一週間を送ったとしても、私たちはここに集い、与えられている喜びを新たに受け取り、新しい一週間を始めていくのです。

今日の聖書箇所の23節後半には、「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

この「願いなさい」というのは、今日の聖書箇所の文脈に合わせて「願いなさい」と訳されていますが、本来は「求めなさい」と訳すべき言葉です。「求めなさい。そうすれば与えられる。」、何が与えられるのでしょうか。喜びです。決して取り去られることのない喜びが与えられる。主イエスがそのように約束をしてくださり、その約束が本当に私たちの間で実現されていくのです。

お祈りを致します。

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聖霊の賜物

主日ペンテコステ礼拝説教

《賛美歌》

讃美歌177番
讃美歌291番
讃美歌352番

《聖書箇所》

旧約聖書  イザヤ書 55章6節 (旧約聖書1,152ページ)

55:6 主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。
呼び求めよ、近くにいますうちに。

新約聖書  ルカによる福音書 11章1~13節 (新約聖書127ページ)

◆祈るときには

11:1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
11:2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
11:3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
11:4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
11:5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
11:6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
11:7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
11:8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
11:9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
11:10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11:11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
11:12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
11:13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

《説教原稿》

本日は「聖霊降臨日」ペンテコステと呼ばれ、教会の生まれたことを記念する日です。

この「ペンテコステ」という言葉は、旧約時代のイスラエルの三大祭りである、出エジプトを記念する「過越祭」、その「過越祭」で大麦の初穂の束をささげる日から数えて7週間目の「七週の祭り」が起源です。出エジプト記に既に見られるこの祭り(出34:22)は、過越祭から7週即ち49日空けて50日目に行なわれる祭りです。これは10日間が5回来るというギリシャ語のペンテーコンタ・ヘーメラスと呼ばれ、日本語で「五旬節」と呼ばれるのです。イスラエルの三大祭りはこの「過越祭」と「五旬節」の2つに「仮庵祭」が加わったものです。旧約時代は、大麦の収穫の終りを意味し、次の小麦の収穫が始まるお祝いでした。そのため出エジプト記では別名の「刈り入れの祭り」(出23:16)とも、民数記では「初穂の日」(民28:26)とも呼ばれていました。これらの祭は、既にソロモン王の時代にはイスラエルの「三大祭」として守られていました(Ⅱ歴8:13)。何故、教会の生まれた日であるかは、使徒言行録2章1節以下にあるように、主イエス・キリストの十字架の死から復活と昇天の後、この「五旬節」の日に弟子たちはエルサレムの家に集まっていた時に、天から聖霊が送られたことによるのです。聖霊が天から弟子たちに下り、新しい命、力、そして恵みがもたらされ、弟子たちを中心にして教会が形作られました。このことから「五旬節」が「聖霊降臨日」、教会誕生の日となったのです。

本日のルカによる福音書第11章は私たちが礼拝でささげる「主の祈り」についてかかれているところです。冒頭に、「イエスはある所で祈っておられた」とあります。ルカはこれまでにもたびたび、主イエスが祈っておられる姿を語ってきました。

他の福音書よりルカ福音書は主イエスが祈りの人であられたことを強調しているのです。祈りは、基本的に神様との一対一の対話です。祈る自分と相手である神様とが、どちらも生きており、意志を持っており、言葉を持っている者であり、人格的な交わりであるのが祈りです。

主イエスは、祈りの中で、神様に「父よ」と呼びかけておられます。神様のことを「父」と呼ぶことは、旧約聖書にもないわけではありません。しかしそれはあくまでも、神様の威厳や力、慈愛、守り、導きといったことを表現するための譬えでした。ここで、主イエスが「父よ」と祈られた時にはそれは、ご自分と神様との間に、父と子の深い信頼関係があることの表明だったのです。主イエスと父なる神様との間には、父と子としての一体性、信頼と愛に満ちた人格的な交わりがあるのです。そのことを表しているのが、「アッバ」という言葉です。主イエスが神様に「アッバ」と呼びかけて祈っておられたことを他の福音書が伝えています。これは、小さな子供が父親を呼ぶ言葉、日本語で言えば「父ちゃん」とか「パパ」とでも呼ぶような言葉です。主イエスはそのような親しみを込めた言葉で神様に呼びかけ、祈っておられた、それはユダヤ人たちの常識からすると驚くべきことでした。主イエスの祈りがユダヤ人たちや弟子たちを驚かせたのは、主イエスの神様との交わり方が変わっていたからです。弟子たちは主イエスが神様との間に持っておられる、父と子のような信頼と愛の交わりに驚き、自分たちが知らない、体験したことのない祈りの世界にあこがれを持って、「わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったのです。この願いに答えて主イエスが、「祈るときには、こう言いなさい」と教えて下さったのが、この礼拝においても共に祈る、「主の祈り」です。この祈りを教えることによって主イエスは弟子たちを、そして私たちを、主イエスの祈りの世界へと招いて下さっているのです。主の祈りとはこのように、私たちを、主イエスを通して与えられる神様との新しい交わりへと招き入れるものです。主の祈りを祈ることによって、私たちは、神様との新しい関係に入ることが出来るのです。神様との間に、新しく父と子としての信頼と愛の関係を持つことです。しかもその関係は私たちの努力や精進によって獲得できるのではなく、主イエス・キリストの一方的な恵みによって与えられるものなのです。

2節の「主の祈り」の冒頭、「御名が崇められますように」とあります。これが第一の祈りです。「崇める」とは「聖なるものとする」という意味です。私たちも、かつては神様を父として認めず、自分が主人になって生きようとする罪によって神様の聖なる御名を汚していました。その結果、神様との良い関係を失い、まことの父を見失っていたのです。しかし神様は、独り子イエス・キリストを遣わし、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さいました。私たちが、まことの父である神様の子として、神様とのよい関係に生きることができるようにして下さったのです。

私たちは主イエス・キリストの十字架の御業によって今や、神様を父と呼び、信頼し、愛して生きることができます。しかしその御業はまだ完成してはいません。それが完成するのは、世の終わりに私たちが永遠の命を与えられる救いの完成の時です。それは同時に、神の御名が完全に聖なるものとされる時でもあります。その終わりの時まで、私たちは、「御名が崇められますように」と祈りつつ生きるのです。

「主の祈り」の第二の祈り願いは「御国が来ますように」です。御国とは神様の国ですが、その「国」とは支配という意味です。神のご支配が実現しますように、というのがこの祈りの意味です。「御名が崇められますように」の場合と同じように、これも神ご自身がして下さることです。神の御国とは、私たちが地上に建設するものではなくて、神様が招き入れてくださるところなのです。そのことは、主イエス・キリストによって決定的に実現しました。神の御国、私たちへの神のご支配は、主イエスの十字架の死と復活によって、罪を赦し、私たちを神様の子供として新しく生かし、復活と永遠の命を約束して下さるということで実現したのです。しかしこれも、まだ完成はしていません。それが完成するのは、復活して天に昇られた主イエスが栄光をもってもう一度来られ、今は隠されているそのご支配があらわになる時です。その時、今のこの世は終わり、神の御国が完成するのです。私たちはその時まで、「御国が来ますように」と祈りつつ生きるのです。

祈ることを教え、祈りの言葉を与えて下さった主イエスが、それを補足するように5節以下に一つのたとえ話を語られました。

真夜中に、友達の家を訪ねて、「パンを三つ貸してください」と願う、という譬えです。なぜかというと、別の友達が、旅行中に急に自分の家に立ち寄ったが、その人に食べさせるものが家になかったからです。連絡もなしに突然、しかも夜中になって訪ねて来るなんてなんて非常識な奴だ、というのは私たちの常識です。しかし、当時のユダヤ社会においては、旅行者はいつでも、誰の家でも訪ねて援助を求めることができました。またそれを求められた人はできる限りのことをして旅人をもてなさなければならないのが常識でした。なぜなら、当時の旅行は文字通り命がけのことであり、空腹や渇きによって行き倒れてしまう人が多かったからです。ですから客人をもてなすというのは、歓迎してごちそうすると言うよりも、その人の命を助けるという意味を持っており、逆に旅人をもてなさず、受け入れないというのは、その人を見殺しにするということでした。ですから、夜中でも訪ねてきた友人のために何か食べるものを用意しようとすることは、当然のこと、なすべきことでした。ところが家にはあいにくパンが全くない。そこで、近くにいる友人の家に助けを求めていった、というのがこのたとえの設定です。しかしもう真夜中です。友人の家の戸口をドンドンとたたき、「パンを三つ貸してください。旅行中の友達に出すものがないのです」と大声で叫んだらどうなるか。7節「すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』」。真夜中にこんなふうに訪ねて来られることは当時だってやはり迷惑です。しかし主イエスがこの譬えによって語ろうとしておられることは次の8節にあります。「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。確かにこんなことは迷惑なことだから、たとえ友達でも断られるだろう、しかし、しつように頼めば、結局は起きてきて必要なものを与えてくれるのだ、と主イエスは言っておられるのです。

このような譬えを語られた上で主イエスは9節で、「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とおっしゃいました。

これは、祈りについての教えです。主イエスは、祈ることを教え、祈りの言葉を教えると共に、祈りにおける心構えを、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれると信じて祈るように、と教えられたのです。

しかし、ここで私たちが神様にしつこく祈り続けることによって、神様もついに根負けして、これ以上面倒をかけられたくないから仕方なく聞いて下さるということなのか、私たちと神様との関係はこのようなものなのか、という疑問が湧いて来ます。またもう一つ、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというのは本当だろうか、という疑問です。祈って求めればそれは必ず与えられるのだろうか、祈り求めても叶えられない、与えられないものがある、ということを私たちは体験しているのではないか。だから「求める者は受ける」と単純に信じて祈ることなどできない、と感じることも多いのではないでしょうか。

これらの疑問への答えは、11節と12節に「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか」とあります。親たる者、魚を欲しがる子供に蛇を与えたり、卵を欲しがるのにさそりを与えたりはしない。蛇もさそりも恐ろしいもの、害を与えるものです。子供にそんなものを与える親はいない。それを受けて13節に「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」ともあります。「あなたがたは悪い者でありながらも」というのは、罪があり、欠け多く、弱さをかかえているあなたがた人間も、ということです。私たちは、神様をないがしろにし、隣人を本当に愛することできずにいる罪人です。しかしそんな罪人である私たちも、自分の子供を愛しており、良い物を与えようとします。

私たちは罪人であっても子供には良い物を与えようとする。「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。これこそが主イエスが言おうとしておられることです。主イエスは、私たち罪人である人間の親でさえ持っている子供に対する愛を通して、それよりもはるかに大きく深く広い、天の父である神様の愛を見させようとしておられるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」というみ言葉は、天の父である神様が喜んで、進んで、あなたがたに良い物を与えようとしておられる、ということを語っているのです。この言葉は、しつこく求めれば得られる、ということを語っているのではなくて、天の父である神様がどれほど私たちを愛して下さっているのか、ということを語っているのです。

そしてこの13節において注目すべき大事なことは、「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と言われていることです。その聖霊が与えられると私たちはどうなるのでしょうか。それは、ローマの信徒への手紙の8章14節と15節に、「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。ここに、神の霊即ち聖霊が私たちの内でどのような働きをするのか、聖霊が与えられるとどうなるのか、が示されています。聖霊を与えられることによって私たちは、神様に向って「アッバ、父よ」と呼びかけられる「神の子」とされるのです。天の父が、求める者に聖霊を与えられ、私たちとの間に、父と子の関係を築いて下さるのです。

求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれるというこの御言葉は、神様が私たちの天の父となって下さり、私たちを子として愛し、父が子に必要なものを与えて養い育てるように、私たちを育んで下さるという約束を語っているのです。私たちも、親は子に、その求めるものをできるだけ与えようとします。しかしそれは、何でも子供の言いなりになる、ということではありません。子供を本当に愛している親は、今この子に何が必要であるかを考え、必要なものを必要な時に与えようとします。子供が求めても、今はあたえるべきでない、今はその時でないと考えれば、「だめ」と言います。我慢させます。子供は、自分の願いを聞いてくれないことで親を恨んだりすることもありますが、そういう親こそが本当に子供を愛しているのです。私たち罪ある人間の親子関係においてさえそういうことであるならば、天の父、まことの父となって下さる神様は私たちに、本当に必要なものを、必要な時に与えて下さるのです。「求めなさい。」で始まる御言葉は、そのような父と子の愛の関係の中でこそ意味を持つのです。

主なる神との出会いと交わりが与えられることこそ、祈りが聞かれることなのです。私たちの祈りに応えて神様が聖霊を与えて下さり、聖霊が私たちを御子イエス・キリストと結び合わせて下さり、神様との間に、父と子という関係を、交わりを与えて下さるのです。それが、祈りにおいて与えられる恵みです。この恵みを信じて祈りなさい、と主イエスは教えておられるのです。

本日の11章1節から13節はひとつながりの箇所です。主イエスは祈りを教え、具体的な祈りの言葉「主の祈り」を与えて下さいました。その祈りにおいて私たちは、神様に向かって「父よ」と呼びかけ、つまり神の子とされて生きる恵みを味わいます。その恵みの中で私たちは、神の御名こそが崇められることを求める者となります。神のご支配の完成、御国の到来を求めつつこの世を生きる者となります。私たちが生きるために必要な糧を全て神様が与えて下さることを信じ、神様の養いを日々求めて生きる者となります。また自分が神様に対して罪を犯しており、自分の力でそれを償うことはできないことを知り、神様による罪の赦しを祈り求める者となります。そしてそのことは、自分に対して罪を犯す者を自分も赦すということなしにはあり得ないことを思い、赦しに生きることを真剣に求めていく者となります。常に誘惑にさらされ、神様の恵みから引き離されそうになる自分を守ってくださいと祈り願いつつ歩むものとなります。神様はこの私たちの祈りを天の父として聞き、私たちに本当に必要なものを与えて下さいます。私たちに本当に必要なものは、神様との父と子としての関係、交わりです。その関係を築いて下さる聖霊、神様の子とする霊を、神様は与えて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは主イエス・キリストを信じる信仰を与えられ、主イエスと共に神様を父と呼ぶ者とされ、主の祈りを心から祈る者とされるのです。「主の祈り」とは、祈りの言葉の一つではなくて、神様が聖霊の働きによって私たちとの間に築いて下さる新しい関係、交わりの基本です。「主の祈り」を祈る中で私たちは、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれることを体験していくことができるのです。

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主に望みを置く

1月の説教

聖書:イザヤ書40章25-31節

説教者:藤野雄大

「主に望みを置く人は、新たな力を得、鷲のように翼を貼って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章31節)

 

新年あけましておめでとうございます。2020年も、皆様とともに礼拝をささげることができますことを感謝いたします。さて、本日も主の御言葉を聴きましょう。本日は、旧約聖書イザヤ書の御言葉が示されました。

旧約聖書の預言者たちは、イエス・キリストに直接出会うことはありませんでした。しかし、彼らはまだ見ぬキリストの到来について、神から預言を与えられました。本日、お読みした預言者イザヤもまた、主イエスの到来と、救いの実現をあらかじめ預言しております。それは、まだ実現していない救いの約束、神の救いの御業への信頼に裏付けられたものでした。

イザヤは、今日の御言葉において、私たちに何に望みを置くのか、何を信頼すべきなのかということをはっきりと問います。そして、どのような時であっても、ただ神にのみ望みを置くこと、神のみを信頼することをイザヤは告げています。

このイザヤの言葉は、逆に言えば、イザヤが生きていた当時の人々が、主に望みを置くことを忘れていたから、神に対する信頼を失いつつあったという状況を示していると言えましょう。事実、イザヤ書が成立したのは、南北イスラエルが滅亡し、いわゆるバビロン捕囚と呼ばれる、多くの人々が捕虜となって連行された時代でした。

それは、イスラエルの歴史にとって、最も困難な時代でした。この中にあって神への信頼が動揺させられるという事態が起きたのです。それはイザヤ書40章の27節にも表れています。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。」

この言葉から、イスラエルの民が、国を失うという未曾有の苦難の中で、神を疑い、神に不平を訴える光景をイメージできます。そのような中でイザヤは、今一度、民に真の神をより頼むこと、信頼し続けることの大切さを説いています。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れたものに力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与える。」(イザヤ書40章28-29節)

神だけが、真の神だけが、人に力を与えることが出来る方である。人間の力に頼るのではなく、神の力に信頼することでしか、この困難を乗り越えることはできない。イザヤの預言は、経験したことのない苦難を前にして、自らの限界、無力さに打ちひしがれていた人々に慰めを与えるものだったでしょう。

イザヤは、こう続けます。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章30-31節)

人は、有限な存在です。人間の力には必ず限界があります。若者も疲れを覚え、屈強な勇者でさえ、力を失うという、イザヤの言葉は、時代を超えた真理であると言えましょう。それゆえに、神ではなく、人、あるいは人が作り出すものに信頼を置こうとすることは、むなしいことだとイザヤは訴えます。どんなに栄えているように見えても、力があるように見えても、人間的なものは過ぎ去ります。人間的、この世的な力に信頼を置く者は必ず失望に終わるということです。

このイザヤの言葉は、イスラエルの民だけでなく、我々日本の教会もまた聞くべきものだと思います。プロテスタント教会の伝道が開始されてから160年余りの間に、日本各地で伝道が進められ、教会が建てられてきました。しかし、今日に至るまで、キリスト者は、日本にあってはごく少数の群れに留まってきました。さらに、高齢化の影響などにより、どんどん教勢は低下しています。あと数年のうちに、日本の教会数は激減するという事態を迎える危険性が、しばしば指摘されています。

このような状況の中で、それぞれの教会において、あるいは教区や教団の取り組みとして、さまざまな伝道の努力がなされていると思います。それは、確かに貴いことです。しかし、人の力によってではなく、神の力によって教会は建てられているということを忘れてはならないと思います。教会は、常に神に望みを置くべきであります。たとえ、どのような苦難に直面しようとも、ただ「主に望みを置く」ということを忘れてはならないと思います。

教会の歴史は、常に順風満帆であったわけではありません。むしろ、いつの時代も、教会は、それぞれの時代特有の危機に直面してきたのだとも言えます。しかし、教会は、その都度、神に望みを置くことから立ち上がる力を得てきました。

私たちプロテスタント教会の直接のルーツである宗教改革者たちも、腐敗と堕落の蔓延する中で、ただ神に望みを置き、神の御言葉に強められて、教会の霊的な再建を推進しました。その結果、彼らは教会から破門され、迫害を受けることもありました。しかし、彼らが、そのような地上の権力を恐れなかったのは、ただ主に望みを置いていたからでした。

また私たちの住む日本に派遣されてきた宣教師たちも同様でした。我が国に派遣され、伝道の働きをなした宣教師たちは、もちろん母国の教会から支援を受けておりました。しかし、慣れ親しんだ母国を離れて、異国の地で伝道し、教会を建てることの困難は、容易に想像することができます。そのような困難を乗り越えて、日本に教会を建て上げることができたのは、彼らが、究極的には主に望みを置いていたからでした。

教会が望みを置くのは、この世的な力でも、人間的な知恵でもありません。主に望みを置く時、教会は、困難を乗り越える力を与えられます。成宗教会の現状もまた、人間的な目で見た時、決して楽観的なものではないかもしれません。しかし、2020年の始まりの時、新しい気持ちで、主に望みを置いて歩みを進めたいと願います。

祈りましょう。

2019年11月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。


斉藤紀先生のお話

(10月20日の礼拝で話されたものです。)

聖書:イザヤ書55:8~13

今日のテキストは、旧約聖書のイザヤ書からです。イザヤとは、人の名前です。

ずっとずっと昔紀元前8世紀ころに生まれた人です。ユダ王国の人で、預言者イザヤと言われている人です。

預言者とは、神様に代わって神様の言葉を聞きとって、それを皆に伝える人です。今日のみ言葉は、そのイザヤが書いた旧約聖書のイザヤ書からです。

イザヤ書55章8節には

「私の思いはあなたたちの思いとは異なり、私の道はあなたたちの道と異なると主は言われる」と、あります。これは神様の言葉ですから、私とは神様、あなたたちとは、私たちのことです。つまり、「神様の思いはわたしたちの思いとは違う」とあります。神様の思っていらっしゃることは、私たちが思っていることと違うというわけです。

どうしてでしょうか、それは、私たちは神様ではないからです。神様は、偉大なお方です。神様は、なんでもご存知ですが、私たちは違います。私たちは、たとえば「自分のことだけは自分が一番よく知っている」と思っていますが、違います。私たちのことを一番よく知っておられるのは、神様なのです。ですから、神様を信じて、すべてを神様のみ手におまかせして生きることが大切なのです。

ここで、主の祈りを考えましょう。みなさん言えますよね。

これは、マタイによる福音書6章にのっています。もし忘れたら、聖書を開きマタイ6章を読んでみましょう。

天にまします我らの父よ。
1、願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。
2、御国(みくに)を来たらせたまえ。
3、みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ
4、われらの日用の糧を今日も与えたまえ

お願いは全部で6個あります。私も子どもの頃から教会学校に通っていましたので、この主の祈りだけは、暗記しています。この主の祈りは、中で、神様、願わくはとお願いをしています。

願わくはみなをあがめさせたまえ、とありますが、「願わくは」とは、お願いをします、という意味です。願わくはみ名をあがめさせたまえ、神様を賛美させてくださるようお願いします。

み国を来たらせたまえ、神様のみ国が来ますようにお願いします。

そして3番目に、み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ と続きます。

さっきイザヤ書の中でお話ししましたように、み心とは、天と地とでは違うのです。み心とは、神様が思っていらっしゃること、強い意味では、神様のご意思です。

この主の祈りでは、神様のみ心が、天と同じく、地上の私たちにも届き、神様の救いを待っている人たちが神様の言葉を知り、神様の恵みに感謝をして生きるようにしてくださいとお願いしているのです。

先の続きの文は「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」ですが、私の日用の糧をではなく、われらの日用の糧をと、われら、私たちという形になっています。私だけではないのです。私たちなのです。み心が天で行われるように、地でも行われますようには、私だけの願いではなく、私たちの願いであり、神様の思う通りに、み心のままになさってくださいという祈りなのです。

私たちが住むこの地上を、神様のみ心がなすままに、なさってくださいと、お祈りしましょう。

11月の御言葉

「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」

マタイによる福音18:22節

11月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
11月 3日(日) マタイによる福音書18:21~35 藤野美樹 先生
   10日(日) ルカによる福音書4:1~13 勝田令子 先生
   17日(日) 歴代誌(上)29:10~13 興津晴枝 先生
   24日(日) 合同礼拝 藤野雄大 先生

お知らせ

11月より、原則として第4週日曜日は、大人と子どもの合同礼拝(朝10時半~)を守ることになりました。合同礼拝の日は、教会学校の礼拝はありませんので10時半に教会にお越しください。

🌸 11月24日(日)は合同礼拝です。(朝10時半~)

🌸 12月22日(日)はクリスマス合同礼拝を守ります。(朝10時半~)

礼拝後、祝会でお昼やお菓子、プレゼントがあります。ぜひご出席ください♫